月明かりの下で (作:香乃)
~~~~~読者への挑戦状~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
初めまして、あるいはお久しぶりです。香乃と申します。
今作を読んでいただくにあたって、少々今作に取り入れました仕掛けについて説明いたしたいと思います。
さて先に言ってしまいますと、今作では狐が出てきまして、作中の誰かに化けてでてきます。話の流れから誰が狐であるかはあからさまです。ですから読者の皆様には、『なぜその人物が狐と判断できるのか』という根拠を探していただきたいのです。もしその人物が狐でなく本人であるのなら、明らかに矛盾する点が存在します。手がかりは登場人物の台詞であったり、その他の文章中の描写であったりします。
作中に********で場面を区切っている箇所が出てきます。この印が出てきたら、手がかりは全て揃っており、その印の後は解答編となります。もしもこの印を見かけたら、そこで少し立ち止まり、読み返して考えてみてはいかがでしょうか?
もしこのような試みにご興味がおありでないのであれば、その場合は無視してそのまま読み進めてくださって構いません。支障なく読めるように作られております。
長い前口上となりましたが、それでは拙作ではありますが本編をお楽しみください。
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彼女は夜を好む。
元々選んで夜に活動していたが、数年前から彼女の姿を見るとある者は畏怖し、ある者は切りかかるようになった。その所以は知らず。
しかし余計な厄介事は彼女の嫌いとするところであった。故に彼女は出歩く人の少なく、かつ暗闇を纏いその姿をくらませることの出来る夜を好む。
陽の光は浴びられずとも、今宵の月の光の何と優しいことか。
彼女は夜を駆ける。
夜も更けているとは言え、人通りの皆無でないことは彼女もよく知っていた。
加えて今宵は月が満ちている。夜目のきく彼女にとって月の光は必ずしも必要なものではないが、その光は闇の中に彼女の姿をあらわにする。
それでなくとも彼女には帰りを待つ者がいる。故に彼女は夜を駆ける。
彼女を照らし出す、今宵の月の光の何と明るいことか。
それ故であろうか、
「――ん?おい、何かいるぞ」
「…っ、まさかまだ九尾の生き残りが!?」
見つかった。彼女はその脚を更に速めて駆ける。しかしすぐに回り込まれてしまい逃げ場をなくした。
振りかぶられる刃が月光を反射して煌めいた。
―――ああ、今宵の月の光の何と恨めしいことか。
『月明かりの下で』
昼下がりの蕎麦屋の店先にまだ若い少女が集う。年頃の乙女が集うとなれば、その話題は自然とある方向に向かう。
「で、鈴音様は片桐様とどうなんです?」
「べ、別にそんなんじゃありませんって!」
赤面のにやけ顔で説得力がある訳もない。しかしこういった時の扱いは若菜ももう慣れているらしく、それ以上は突っ込まずに後は勝手に惚気てくれるのを待つだけだ。
「たまにお屋敷にお邪魔したり見回りも兼ねて一緒に町を歩くだけですって!」
「それ、『だけ』って言いませんって」
苦笑交じりに若菜が返す。年は1つしか違わないはずだが、あまりに初々しい様を見ると可愛い妹のように思える。兄上様はこの妹を余程可愛がっているのだろうなぁと思う。
けれども同時に、想い人と共にいられることに少しの妬ましさを覚えることは、悪いことなのだろうか?
「うぅ…、そういう若菜さんこそ美景さんとどうなんですか」
羨ましい、そう思っていたところを見事に刺されて、痛い。
「…ねぇ鈴音様、それ、美景様がどんな方か知ってて言ってます?」
「あ、いや、ご…ごめんなさい」
地雷を踏んだ、そう気づいたらしく鈴音の少しのぼせていた思考が一気に目の前に戻される。
思い出すと急に感情が込み上げたらしい。若菜はやや怒るようにまくし立てる。
「この間だって、この間だって!美景様がお仕事中に手を怪我されたことがあって、私が手当して差し上げようとしたら…」
と、そこでまるで突然冷めたようにがっくりと項垂れた。
「…し、したら?」
鈴音が恐る恐る先を促す。
若菜は少しだけ顔を上げ、でも視線は地を向いたままため息交じりに答える。
「中川様に持っていかれました」
「………」
半眼で告げる若菜に、もはや鈴音も頭を抱えるしかない。そういえば美景さん右手に包帯巻いてたなと思い、その現場の情景がありありと想像できてしまう。しかもおそらくは、舘羽がその時に使った傷薬は千鶴から無償で得たものなのだろう。一度の行為で多方面に対して罪づくりだ。
「えぇと、その、きっといつかは…ね?」
「はぁ、もう…いいですよ、慰めなんて。鈴音様、午後から会合なんでしょう?行かなくていいんですか」
我ながら何ともいい加減な慰めだなとは思ったけれども、本当に気休めにもなってないな…。会合にと促す若菜の声はお世辞にも元気とは言えないけれども、しかし行かなければいけないのはその通りだった。何だか申し訳ない。
「あ、はい!そうでした、そろそろ行かないと…。それでは若菜さん、お邪魔しました!」
若菜は駆けていく鈴音の背に、また溜息をひとつ。屯所が出来てからすっかり栄屋に訪れる機会の減ったあの人に、これからまた鈴音は会うのだろう。
あれ、どうして今私は溜息をついたのだろう。鈴音様にはちゃんとした想い人がいるでしょう?確かに美景様が戻られてすぐは少々警戒したけれど、別にもうそんな必要ないでしょう?
実は最近こんなよくわからない溜息を、心の中のもやもやを、よく感じるようになった。
想い人の極度の鈍さにもどかしく思うことにはとうに慣れていたが、この何とも言えない気持ちはどうにも対処に困る。自分でも何やらよくわかっていないのだから。
実はこう言ったことを話せる女の子は意外に少ない。千鶴は薬屋で忙しいし(むしろこちらが相談に乗って別の人を勧めたいくらいだ)、鈴音は徹平の好意に気づかないほどそういったことには疎いし、何よりこちらが彼女に嫉妬めいた何かを感じていて後ろめたい。正親は女の子と言うには少し違う気がするし、伊織は論外である(そういえば最近見ないがどうしているだろう)。
どうしちゃったんだろうなー、私。
心の中で呟いて、また一つ溜息。
と、店の奥から声がかかる。
「若菜ー、そろそろお店の手伝いに戻ってー」
「あ、はーい!今行きます」
蕎麦屋の看板娘の業務は今日もまだまだ続く。一時の暗い考えを振りはらい、若菜は栄屋の中に戻って行った。
「それで今日の議題だが、このところ深夜に化け狐が出るという話だ」
白狼隊屯所にて、実時が切りだす。
「あぁ、町で聞いたな。夜中に歩いていると、知り合いに化けた狐がどっかに連れてこうとするって奴だろ?」
「夏の怪談には少し遅いね。もうすぐ冬にもなるっていうのに…」
惣助が答え、舘羽が眉をひそめる。
「昨夜で三件目ですね。三晩連続です。
化かされたのは全て町人で、途中で偽物と気づいて被害は出ていませんが…何かが起こる前に手を打たねばなりませんね」
廉次郎が憂い顔で説明する。
「でもさー、化けて出たのに何で狐だって分かったのさ?」
由紀彦が廉次郎に聞く。
「二件目でおかしいと気がついた被害者が、護身用に持っていた小刀で切りつけたのです。当たりはしなかったようですが、その時に逃げていく姿が狐であったという話です」
「狐ですか…何だか先の事件を思い出しますね」
美景が言うのはかつて江戸で起きた九尾の事件のことだろう。一連の事件で怪我を負った者、近しい人を失った者は少なくない。人々の間にはいまだに恐れが根付いている。狐で妖怪とくれば自然とあの事件を思い出すのも無理はなかった。
「おそらくは九尾の件とは無関係だとは思うがな…。いずれにせよ対策をしなければいけないのは確かだ。今夜から夜警を行おうと思う。」
実時から言われたのは以下のようなことだった。化け狐の出没時間は子の刻から丑の刻にかけて、場所は大通りの方面で、この時間・場所で見回りを行うこと。解決に要する期間が予想がつかないため、長期戦を見越して一晩に見まわる隊員は四人のみとし、残りは体を休めること。こちらも化かされてはたまらないので、必ず二人組で行動し、一人で現れた隊士には必ず合言葉を言わせること。合言葉は決して隊外には漏らさないこと。見回り中の休憩所・連絡の伝達役を栄屋が申し出たこと。
「栄屋さんに協力してもらえるのはありがたいですね」
「そうだな、屯所だと町中から少し離れているからな。大通りを重点的に見まわるとなると、あそこを拠点に出来るのは助かる」
との副長・隊長の意見だった。
かくして夜の見回りが始まる。
「しかし、襲いかかるでもなくどっかに連れてこうとするってのが不気味だな。何がしてぇんだろうな。」
惣助が言う。
夜回り一日目。こちらは美景・惣助班だ。
「その場で危害を加えないというのは確かに妙ですね…。もしかして害意はないんでしょうか?」
「まだわかんねぇな。単に襲うような力がないのかもしれねぇし、親玉みてぇなのの所に連れてくつもりなのかもしれねぇな。…せめてどこに連れてくのかわかれば目的が見えるんだが」
「本当ですね…。何かまた、大きな事件ではないといいんですが…」
言いながら、軽く溜息をつく。息がうっすら白くなった。今夜は少し冷え込みそうだ。
「もうどの家も灯りが点いてませんね…」
鈴音が不安そうに呟く。こちらは実時・鈴音班だ。
辺りを見回しても、現在歩いている大通りに面していて灯りが点いているのは、先ほど集まった栄屋ただ一つだった。
「今回の狐騒ぎのせいだろうな。出歩かなければ安全とも限らない」
狐の目撃の三件目は、夜遅くまで灯りを燈して作業していた職人だった。隣の住人に化けて出てきたが、その夜隣人が留守であったためにすぐ気付いたのだった。
「わざわざ灯りのあるところを選ぶなんて…、人を連れていきたいだけならどうして眠っている家を狙わないんでしょうか?」
「わからないが、逃げられる危険を負ってでも起きている人間が必要なのは確かだ」
「ということは、もしかすると連れて行った人間をどうこうする気はない…?」
言いながら自分でも何を言っているんだろうと思った。何もする気がないなら一体なぜ連れ出すのか。
しかし(悪趣味な想像だが)とって食おうというのなら眠っている人間を攫った方が早い。そうしないからには連れてくること自体が重要なのではないだろうか。あるいは単純に戸締りのされた家屋に浸入できないのだろうか?
「そうなら良いのだが、しかし相手の得体が知れないからには黙って見過ごす訳には行くまい。早く安心して灯りを点けられるようにしなければならないな」
「はい!」
返事をして、そして心の中で月に祈る。
どうかいつもより暗いこの町を、せめて月が少しでも照らしてくれますように…
若菜は見回り前に集まった栄屋で、四人が飲み終わった湯呑を片づけ一息ついた。
実時と鈴音が同じ日の夜回りに入っていると聞いた時は、仲が良くていいなぁと思ったのだが、先ほど集まった時はそのような雰囲気は微塵も感じられず、隊士としての仕事をまっとうしている風だった。公私混同はしないということか。何だか特別親しげな様子を想像していた自分が少し恥ずかしくなった。…ともあれ、こうして任務を共にしているうちにその絆を培ったことは確かなのだろう。
――まただ。
何だろう、今もあの感じ。会合に向かう鈴音を見送る時も感じたような…。
例えるならそれは嫉妬にも似ていて、でも何に対して?鈴音様?
だから鈴音様は美景様とは関係ないじゃないか…
よくわからないこの感覚を振り払おう、何か作業に没頭しよう。
次に皆さんが来るまで、店の掃除でもしてようかな…
布巾を取りに店の奥に向かった。
「今日は現れないんでしょうか…?」
見回りを始めてからかなり歩き回ったはずだ。まだ秋とはいえ、夜にはかなり冷え込むようになった。今夜は特に冷え込む。美景が冷えた手をこすり合わせながら、惣助に問いかける。
「多分出てくるとは思うんだけどな…。三晩連続と来て、昨日は二件もあったんだ。向こうも焦ってるんじゃねぇか?」
「でも、わざわざ灯りのある家を訪ねるまでするのに、なぜこうして外を歩いている僕たちの前には現れないんでしょうか?」
「警戒されちまってるのかもな…。二人組で何をするでもなく歩き回ってる訳だからな」
「そうですね…。じゃあ僕たちに出来るのは誰かのところに狐が現れたら――」
――男の悲鳴が遠くから響いた。
「――ったく、言ってるそばから…」
「惣助さん、急ぎましょう!」
言うが早いか、二人は駆けだした。
二人が駆け付けた先には裏路地で、町人らしき中年男が腰を抜かしていた。周囲に人影はない。既に逃げられた後のようだった。
「大丈夫か!?」
惣助が男に駆け寄った。男は震えながらまだ整わない呼吸で答える。
「お、お初が墓参りに付き合ってほしいって…、でも、でもそんな訳なくて、お初がいる訳なくて…そしたら、お初が消えて…それで尻尾が…」
動転しているためか言っていることが要領を得ない。しかし何が起こったかは推測がついた。
ちょうど後ろから実時と鈴音も走り寄ってきた。何か口を開きかけたが、場を見て事情を察したらしく、何も言わずに町人と惣助の様子を見守った。
「それで、そいつは一体どこに行ったんだ?」
「た、確か…向こうの、大通りの方に…」
――大通り…?
聞いて、美景の中に何かがひっかかる。確か二件目の事件では――
「――若菜殿が心配です!僕は栄屋に向かいます!!」
言いながら、美景は駆けだす。
大通りで灯りが点っているのは栄屋ただ一軒。
化け狐が焦ってきていて、二件目同様家の中まで狙うのなら、次はそこしかなかった。
若菜は髪を梳く。掃除も一通り終わって、特にやることがなかった。
それに、次に休憩に美景様がいらした時に、髪がぼさぼさだったら嫌だ。
――何を考えているやら。そんなこと気にする方ではないのに。…ましてや私の髪など。
また、考えが自虐的な方向に向かってしまった。ふぅ、と息をついて気持ちを切り替える。
でも、掃除をしながら、髪を梳きながら、落ち着いて考えてみて何となくわかった気がするのだ。最近感じるもやもやの正体が。
ようするに私は、羨ましいのだ。鈴音様が。
鈴音様は仲間として美景様と一緒にいられて、いつでも会えて、今日のように共に任務につけて。そして白狼隊としての活動を通して絆を深めて、その結果として今の想い人も隣にいるのだから。
それは鈴音様が誰を好きとかは関係なくて、ただ『仲間』として傍にいられることそれ自体が羨ましい。その立場が羨ましい。
でもその立場は鈴音様の剣技や敵に立ち向かう勇気があってこそ成り立つもの。刀を扱うことはおろか、蛇一匹にも恐れをなし、助けられるばかりの自分のような小娘には到底ありえない。そのくせ羨むなど、自分が浅ましく感じられて仕方なかった。
もしも自分に戦う力があれば、人を守る力があれば、今もこうして待つだけじゃなくて、美景様の役に立てたのだろうか…?
「…なーに考えてるんだか」
自分の考えに苦笑した。もしも話なんてしたって仕方がない。それにしたってあまりにも現実感がなさすぎた。私が人を守る力、なんて。
気持ちを切り替えようと、お茶でも淹れようと立ち上がった、まさにその時だった。通りに面した引き戸が勢いよく開け放たれた。
「若菜殿!」
声と共に美景が駆け込んできた。
「ど、どうされたんですか美景様!?」
そのあまりの剣幕に思わず駆け寄る。
「ここは危険です!理由は後で説明しますから、とりあえず外へ!」
美景はそういって手をこちらに差し出した。
唐突な出来事にやや逡巡したが、美景がそこまで言うのなら何かしら理由があるのだろう、空いている方の手でその手をとる。そして美景に引かれるままに走り出す。ああ櫛など持っている場合じゃない、しかし置くような暇もないので、その場で手放す。ずっと若菜の手におさまっていた櫛が栄屋の床に転がった。
表に出ると秋の風が冷たい。数日前に満月だった月はややかけ始めているが、それでも十分に行く先を照らしてくれる。
前を走る美景の背を見つめながら、若菜はほんの数十秒前の出来事を思い返す。
差し出された美景の手は、逡巡していたほんの数秒、もしかすると数瞬の間見ただけだったけれども、色白で繊細そうで、女の手かと見紛うほどで、蕎麦屋の仕事であかぎれて荒れた若菜の手よりも綺麗なのではないかと、そう思った。
そして今若菜の手を握ってくれているこの温かい手が、想い人のその綺麗な手なのだなと思うと、そこから伝わる温もりに何だか嬉しくなる。
こんな非常事態に何を考えているのだろう、と前を走る美景に少し申し訳なくなるが、それでも嬉しいものは嬉しい。
――…あれ?
何か今、おかしくなかっただろうか?
何だろう。何かが間違っている、気がした。でも一体何が?
「若菜殿?」
どうやら、気がつかないうちに足が止まっていたらしい。美景が不安げな表情でこちらを振り返っていた。
「あ、いえ、何でもないんです。ごめんなさい急に」
慌てて笑顔で応じた。
何を考えているの、今はとにかく美景様についていこう。
どうも今日は考えが変な方向に行きやすいみたいだ…。
二人は再び駆け出した。
――――そして、若菜は結局気がつくことはなかった。
通りに面した引き戸が勢いよく開け放たれた。
「若菜殿!」
声と共に美景が駆け込んできた。
「…若菜殿?」
しかし栄屋には誰もいない。
呆然と立ち尽くす美景にようやく惣助が追いついた。
「美景!若菜は無事か!?」
「それが…いないんです。」
答える声は落ち着いていたが、顔面は蒼白だ。その胸中は穏やかではないことは明らかだった。
「たまたま席を外してるって可能性はないのか?」
「いえ、そこに櫛が落ちてるんです。普通に出て行ったのならあんなところには落ちていません!」
「…くっそ、もう既に『何か』あった後だってのか」
「でも、一体どこに…」
ふと、惣助の頭によぎるものがあった。先ほどの町人の言葉だ。
『お、お初が墓参りに付き合ってほしいって…』
「………!!美景、寺だ!さっきの町人を墓参りに連れて行こうとしてたんなら、行くのはそこしかねぇ!」
「あ………!わかりました!惣助殿、実時殿と鈴音殿にこのことをお願いします!」
言って、美景は栄屋を飛び出した。
惣助も先ほどの町人を保護している二人の元へ駆ける。
どうか、間に合ってくれ…!!
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若菜はひたすらに駆ける。普段蕎麦屋にいて運動などしない若菜にとっては、走るだけでも重労働だ。周りを見る余裕なんてない。思考もうまくまとまらない。しかし足手まといなどにはなりたくなかった。だから懸命に走る。
つないでいない右手もずいぶん走ったせいで温まって、冷たいとも感じなくなっていた。
あ。
先ほど感じた違和感が、けれども違和感とも言えないほど、もはやはっきりとした事実として、若菜の頭を貫く。
私は右利きだ。だから櫛も当然右手で使っていた。
そして美景様の手を取ってから櫛を離したのだから、今つないでいる手は当然左手だ。
そして、美景様は私の左手をひいて走っているのだから、当然つないでいる手は右手だ。
でも、でもそんな訳がない!
――女の手かと見紛うほどで、蕎麦屋の仕事であかぎれて荒れた若菜の手よりも――
綺麗な訳がなかった。
彼の右手は、つい先日怪我をして、包帯が巻かれているはずではないか。
つないだ手も温かい訳がない。あれだけ長い間寒い中を歩き回って、手も冷えきっていたはずだ。
では、目の前にいるのは一体…
背筋に氷を当てられたような、走って体が火照っていたはずなのに、さっと血の気が引いていくのがわかる。
思わず手を振りほどいて、後ずさる。
気がつけば、周りは墓が立ち並ぶ墓地だ。
「…あ、あなたは…」
目の前にいた『誰か』が、ゆっくりとこちらを振り返る。
女の悲鳴が聞こえた。
「若菜殿!」
聞こえた声の元へ、さらに懸命に足を動かす。
ああ、ここはいつか廉次郎が久遠の作りだす亡き兄の幻影に出会った、墓地のさらにその奥ではなかっただろうか。その周囲の藪から、見なれた桃色の着物が覗いていた。
振りかえった彼は、予想に反して何も言わなかった。思わず悲鳴をあげた若菜に対してとがめる様子もなく、後ずさった分を歩み寄るでもなく、その手をさらに捕まえるでもない。ただ、困ったような、諦観が混じったような苦笑を浮かべているだけだった。
――え…?
その様子に困惑して、若菜も何もできずにいた。
「若菜殿、無事でしたか!?」
ちょうどやって来た方向から美景が駆け付けてきて、若菜を背で庇うように前に出る。今度は右手に巻いた包帯も見える。
それを見届けると、目の前の彼はくるりと背を向けて藪の奥へと遠ざかっていく。
美景が来てくれたことに、危機が去ったことに安堵するけれども、でも何だかまだ釈然としなくて…
「待って」
遠ざかろうとする彼を引きとめた。止まってくれなかったらどうしよう、そう思っていたが彼は背を向けたまま立ち止まってくれた。
「若菜殿?」
美景が怪訝そうに若菜を見る。それには構わず若菜は続けた。
「あなたは、どこに行こうとしていたの?何かあるの?」
投げかけられた言葉に、彼は何も答えない。しかし歩き去るようなこともしない。その背中は考えているようにも見えた。
最初は怪訝そうだった美景もその姿を真摯に見つめる。
長く待った気がした。けれども実際はほんの数秒だったかもしれない。けれどもそう思わせるようなゆっくりとした動作で、彼は振り返って、そして一瞬彼の体が淡く光ったかと思うと、その姿はそのまま細身の白い狐になった。予想はついていたので今更驚きはしなかった。そしてまた背を向けて、これまたゆっくりと藪の奥へと歩き出す。ついて来い、そう解釈してもいいのだろうか。
若菜は美景の方を見た。美景も目を合わせると力強く頷く。行ってみよう。
狐のあとをついていく。暗く、そして茂っていて視界は悪かったが、狐は淡く薄く白い光を帯びていて、ついていくのはそれほど難しくなかった。藪の中は普段人が通るようなところではなく、そこら中から枝葉が突き出ている。美景はそれらを手でよけて若菜に道を作りながら前を行く。
歩いた時間はどれだけだっただろう。距離としてはさほど離れていなかったが、周囲がかなり茂っていて先ほどいた場所からもよく見えない。そこで狐はやや大きめの木の前で足を止めた。そしてこちらに向き直りその木の脇に立った。これを見てくれと言わんばかりだった。
その木の根本には小さな子供が入れそうな程のうろがある。中は自然とそうなったとは思えないほど木の葉や何やらであふれている。最初はそれだけだと思った。しかしよくよく見てみると、その中に埋もれるようにして覗いていたものは、
「…狐の子供?」
美景が呟いた。それも本当に小さい。まだ野を駆けまわるような大きさではない、ほんの小さな、しかも弱っているのだろうか、痩せた二匹の仔狐が身を寄せ合って丸まっている。
「この子たちを助けてほしかったの…?―――え?」
若菜が問いかけて木の脇の狐の方を見る。が、気が付けば狐は地に伏していた。もう淡い光も帯びていない、普通の狐だ。美景が傍にしゃがみこみ、その体をそっと撫でる。
「背中に、刀傷がありますね…。もう何日か経ってる」
美景は目を伏せる。どうして?そう聞き返したかった。でも、何だろう。声をかけられなかった。こんな感じは前にも覚えがあった。いつだったか、確か雪女の少女が、死んでしまった時ではなかっただろうか。
美景は続けた。
「多分、九尾の騒ぎから目の敵にされるようになって、それで斬られて、」
背を向け俯く美景の表情は窺えない。けれども声は少し震えていて、もしかすると――
「死んでしまって、でも子供たちはまだ自分なしには生きられなくて、死に切れなくて、だから妖怪化してまで助けを求めるしかなくて、それでも僕たちの前に現れなかったのは、」
そこで少し止まる。言葉を選んでいるのか、ためらっているのか、それとも自分を落ちつけようとしているのか。
美景が何を言わんとしているのか、若菜は何となくわかりかけていた。でもそれはあなたが悪いことじゃない、あなたが気に病むことじゃない。
「僕たちの持っている、刀が怖かったんでしょうね…」
暗闇でもわかった。肩が少し震えている。
ねえ美景様、あなたは自分と同じ侍がその狐を殺したことを申し訳なく思ってる?それとも自分が恐れの対象になってしまっていたことが悲しい?何の罪もなく殺されたこの狐の境遇を憐れんでいる?なぜ人を守るための刀が悲しみを生むのかと憤っている?あるいはそこまではっきりと言葉にはならなくて、うまく表せないやり場のない思いに悶えている?
そのどれであっても、あるいは全てであっても、あなたは何も悪くない、そんな風に悲しむ必要なんてない。それでもこの人がそうするのはきっと、彼が優しいからなのだろう。
何と芸のない表現かと思うが、でもそれしか言いようがない。優しい。その一言に尽きるのだ、この人は。
ああ、そうか。だから私は――
「ねえ、美景様」
自然と口をついて出た。何の力も入っていない。鏡なんて見ていないけれど、きっと今の私は自然に微笑えている。
若菜の呼びかけに美景は振り返り、立ち上がる。月に照らされて、先ほどは直接見えなかった悲しげな表情が浮かび上がる。ねえ、そんな顔しないで。
「私は、美景様が好きです」
遠回しに好意を寄せて、届かないと勝手にむくれて、一人溜息をついて。今まで何を子供じみたことをしてきたのだろう。単純で良かったのだ。今なら何の気負いもなく素直に言えるではないか。
「美景様は優しい人です。だからこの狐を斬ったお侍さまとは違います。私を助けてくれて、仔狐を見つけてこの狐も助けてくれました。だからその子に申し訳ないなんて思うことはないんです」
子供でもわかるような、ひどく当たり前のことだ。それでも彼は罪を感じてしまう。
言葉は思っていた以上に淀みなく出てきた。それはそうだ。この思いは即席なんかじゃない。言葉として浮かんでこなかっただけで、今までずっと抱いていた思い。
「その刀もそうです。美景様の刀は斬るためじゃありません。九尾の時も、陰陽師の時も、私たちを守ってくれました。だから、その刀は誇っていいんです。私には、そんな風に誰かを助けたりなんかできないんですから、ね。」
美景は最初少し驚いたような表情を見せて、それもいつの間にかやわらいで今は優しい微笑みをたたえている。
若菜は真っ直ぐに美景を見ている。美景も同じだった。いつも一方的に見ているだけだったけど、今日はそうじゃない。
「若菜殿、ありがとうございます。…でも、少しだけ違いますよ」
「え?」
意表を突かれて、きょとんとした表情を見せる。
「今日あの狐を救ったのは、若菜殿ですよ。僕はついていこうなんて思えませんでした」
そこで一旦言葉を区切り、笑顔を見せる。ああ、いつものあの笑顔がやっと戻ってきた。
「若菜殿も、いつも誰かを助けてます。今日の狐もそうですし、今までだって僕たちが厳しい戦いに折れずにいられたのは、若菜殿が栄屋で温かく迎えて励ましてくれたから、それを守りたいと思えたからなんです。戦って守ることだけが、助けるってことじゃないって若菜殿が僕に教えてくれたんです」
『もしも自分に戦う力があれば――』
そんなことを考えたのは、一体何時前だっただろう?
そんな必要なかったんだ。役に立つとか立たないとか、傍にいるとかいないとか。この人はそんなものによって見方を変えたりなんかしない。むしろ、それぞれの良さを見つけてくれるのだ。
私が美景様に教えた?違う、私は気づいてなんかいなかった。たった今、あなたが見つけてくれた。
「だから、僕も若菜殿が好きです。若菜殿だけじゃない、皆さん形は違っても、表し方は違っても優しくて、いつも僕は助けられてばかりです。…皆さんのことが大好きだから、この町に来て本当に良かったなって、思うんです。
…さ、惣助殿たちのところに行きましょう。一緒にこの狐と、子供たちをどうにかしてあげないと」
そう言って、美景は来た道を歩き出した。
「………」
その背中を少し呆然と見つめる。結局、今日も空振りだった。
「…ま、いっか」
呟いて、すぐにその背中を追いかける。
どうしてだろう?いつもはどうしようもなくもどかしい彼の鈍感さも、今宵ばかりはこんなにも愛おしい――
少しして、藪の中に五人が集まった。
惣助、実時、鈴音の反応は、やはり美景と似たようなものだった。鈴音に至っては目もとが潤んでいる。
「そう、か…。何だか居たたまれない話だな」
惣助が神妙な面持ちで言う。
「せめて、ちゃんと供養してこの仔狐もしっかりみてやらんとな…。それだけが我々にできる罪滅ぼしだ」
そう言って、実時も狐の亡骸に手を合わせた。
「そうですね…。あの、もう夜も遅いですけれど、この子のお墓を作ってあげませんか?
何だか、一晩このまま放っておきたくなくて…」
隣で手を合わせていた鈴音が顔を上げて言う。反対も出るわけがなく、全員がうなずいた。
そこではっと気がついたように若菜を見た。
「あ、でも若菜さんは今日はもう休んでください。色々ありましたし、お疲れでしょう?」
「え?でも…」
「美景さん、若菜さんを栄屋さんまで送ってあげてくれませんか?」
今度は美景に向けて言った。ね?と目が若菜の方を見ている。
「そうですね。それでは後は皆さんにお任せして、行きましょうか、若菜殿」
思惑を知ってか知らずか、美景もそう言って若菜を促す。
鈴音様、自分のことには鈍いのに…
と、一瞬思って、せっかく好意を受けているのになんて失礼なことを、と少し反省した。
美景に頷いて、鈴音には礼を言って、そして二人で帰路についた。
今日は月が明るい。
「ねえ、美景様」
隣を歩く美景に呼びかける。
「何ですか?若菜殿」
今宵ばかりは、少しだけ嘘をついてもいいだろうか。
「今日は化かされたり、連れて行かれたり、色々あって怖かったです。だから、その――」
――手をつないでもらってもいいですか?
本当はもう怖くなんてなかった。現れたのは子を想う優しい母狐だった。そして隣にはあなたがいてくれる。でも今日ぐらい、そんな嘘が許されてもいいんじゃない?
ええ、もちろん。そう言ってあなたは右手を差し出す。私は左手でそれをとる。
色白で繊細そうで女の手のようで、でもその手にはやっぱり包帯が巻かれていて、触れてみるとそれ以外にも戦いをくぐり抜けた傷跡がそこかしこにあって、ずっと剣を握るその手はタコも出来ていて。ああ、これがこの町を守っている手なのだ。初めて会った時も、そして今宵も、私を助けてくれた優しい手。
月が綺麗ですね。そう言ってあなたは夜空を見上げる。私もそれに倣う。
満月からは少し欠けていた。でも私の想いだって、まだ届いていないけれど結構綺麗で良いものでしょう?欠けていたって大切で尊いもの。だから今の私には、満月じゃなくてこれぐらいがきっとちょうどいい。いつかきっと満ちる時を待てばいい。
ああ、あなたと見上げる今宵の月は、何と美しいことか――
――了――
――おまけ――
「困りましたね。この仔狐たち、どこで育てたらいいでしょう…」
「何を言っている…?私の屋敷で引き取るに決まっているだろう」
「誰が世話すると思ってやがんだぁぁぁぁっ!!!」
この夜を境に一人、人が消えた。
世間では化け狐の仕業ではないかと噂が流れたが、それも束の間で、どこかの夫婦喧嘩の結果だと発覚してからは町人たちの笑い話となっている。
笑えないのは、白狼隊士だけであった。
- 作者様より -
CSKさん5周年おめでとうございます!
私の拙作でよければ献上させてくださいませ。
さて偉そうに推理小説じみた試みをしてみましたが、お分かりになったでしょうか?
挑戦状を叩きつけたからには苦情のない論理的な解答を、と書いたつもりですが、「実は若菜は左利き」とか「櫛は利き手じゃなくても使ったりする」なんて言われたらどうしようかとどきどきです(笑)
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。