3rd Anniversery

サダメを変える者 (作:白湖朱雀)

 朝焼けの下に、草花を踏みしめながら歩みを進める長い二つの影が在った。
 遠方にぼんやりと浮かび上がった巨大な町を目にした女は、前を歩く青年に焦点を合わせて感慨を顕わにする。
「もうすぐ江戸よ……長かったわね」
「……全くだよ。武蔵に踏み込めば江戸は目と鼻の先だ、なんて言ったのは何処の誰だったか……実際武蔵の国に入って、どれくらい経ったと思ってるの?」
「今までの道程を考えたら、目と鼻の先でしょう。そんなに怖い顔しないで頂戴、長旅で疲れてるのはこっちも同じよ。良いじゃないの、これでやっと、貴方の目的が実現するのだから」
 青年の皮肉に溢れた物言いを受け、女は小さい我侭な子供を扱うかのように青年を窘める。
 後ろを歩く女を一瞥する事無く、青年は鼻を鳴らして自身の機嫌の悪さを仄めかした。
「実現する、という保証は何処にも無い。そうだろう?」
「あら、この期に及んで‘私’の言葉を疑う気?」
 投げ遣りな態度を取る青年の背に向かって、女はさも心外だと言わんばかりに軽く笑う。
 青年は後方から投げかけられた女の言葉に対し暫く沈黙を呈していたが、やがて固く結んでいた口元を少し緩め、囁くように返答した。
「……いや、お前の言葉は何時だって正しいよ――‘先見姫’」



『サダメを変える者』



「もう出るのか、鈴音」
 襖の開く音とほぼ同時に発せられた呼び声を捉え、藍に縹を合わせた小袖と袴とをきっちりと着込んだ少女――山形鈴音は声の主の方へと振り返る。其処には長く艶やかな髪を一つに纏めた、表向き男として生計を立てている少女の姉にして黒虎隊副長――山形紫苑が静かに佇立していた。
「あ、はい、今日の午前中は各自で巡回して、お昼に報告会を行う事になってるんです。お姉さまは非番ですか?」
「いや、私も仕事だが……今日は集合の刻が遅いのでな。それより鈴音、報告会の折にでも、片桐殿達に伝えてほしい事があるんだが」
「良いですけど……黒虎隊の方で何かあったんですか?」
 決して明るいとは言えない雰囲気を読み取って表情を引き締めた妹に対し、姉は滅多に解く事の無い口角を微かに綻ばせる。
 白狼隊に入れるなんて夢みたいです、と言って大はしゃぎしていたあどけない一年前の面影など、今の妹の表情には欠片も残っていなかった。妹を此処まで成長させたものは、白狼隊の一員として様々な出来事を切り抜けてきた色濃い月日を差し置いて他にあるまい。
 やはり妹を白狼隊に託したのは正解だったな、片桐殿を始めとした白狼隊隊士の面々には深く感謝しなければ、と感慨に耽っていた紫苑は、いつまで経っても肝心な話を切り出さない自分を心配そうに見つめる妹に漸く気付き、咳払いを一つ零した。
「実は一昨日、此方の管轄内で筋の通らん人斬りがあったのだ。白狼隊には関係の無い事かもしれんが、一応耳に入れておいた方が良いだろうと思ってな」
「筋の通らない人斬り、ですか?」
「ああ。被害者は幸いにも一命を取り留めたのでな、回復を待って状況を伺ったのだが……どうもその加害者が、被害者ととても親しい間柄の者だったらしいのだ」
「え、でも……その人が何か恨みを買ったとか、そういう類のものなんじゃ……?」
 至極当然の台詞を呟いた鈴音に向かって、紫苑は困惑を含んだ溜め息を返す。
「馬鹿者、そうであるならば‘きちんと筋の通った人斬り’だろう。被害者の御仁によると彼らは仲違いしていた訳でも無い上、斬られた事に対して思い当たる節すら無いらしい」
「確かにそれはちょっと変ですね。加害者の方、物の怪にでも取り憑かれちゃったんでしょうか」
「判らん。この一件だけで事が済めば何も問題は無いのだが……そうだと保証できるものは何処にも無いからな」
「そうですね……それじゃ、報告会で皆に相談してみます。もしかしたら白狼隊の中にこの事件について何か知ってる人がいるかもしれませんし」
「頼んだぞ。――ああ、それと」
 傍に置いてあった愛刀を腰元に据え付けながら立ち上がる鈴音に向かって、紫苑は言い残していた頼み事の一片を付け加えた。
「これも御仁の話なのだが、その加害者が斬りつけてきた時、彼は『露草の御心のままに』……という不可思議な言葉を発していたそうだ」
「露草っていうと……植物ですよね、雑草で青い花の」
「ああ……だが状況からして植物そのままの露草を指しているとは考え難いな。‘御心’とまで言っているのだ、おそらく人名だろう」
「じゃあ、その露草って人が黒幕なんじゃないですか?」
「そう深く勘繰るな。まだ何も証拠が出てきていない以上、下手に憶測するのは真実を見据える上で大きな妨げとなるぞ。大体お前は未だ……」
「はい、よく分かりました。ではお姉さま、私は行って参りますね」
 姉から繰り出されるいつもながらの説教節を手折りつつ、鈴音は門扉の方へと歩み始めた。もう巡回に出なくてはならない時刻であるのは勿論の事であるが、此処に何時までも残っていれば魑魅や式神までもが舌を巻く姉の長々とした説法が一身に降りかかってくる事など、山形家の次女として生を受けた鈴音にとっては常識も常識であったからだ。
 説教の腰を折られた紫苑は少々不満そうではあったが、背筋を伸ばして家を出て行く妹の後姿を見届け、先程と同じように口元を和らげた。
(全く……いつまでも子供だ子供だ、と油断してはいられないな。少し見ぬうちに、幾分も成長したようだ――それにしても)
 ふと、たった今妹に話した事件が頭を掠め、紫苑は平常の厳峻な顔付きで暫し黙考する。
(どうにも腑に落ちない事件が持ち上がったものだ。大事に発展しなければ良いのだがな……)
 小さく息を吐き、開け放たれた小窓を通して空を仰ぐ。
 其処には彼女が感じた先行きの不安をそのまま映し出すかのように、江戸を覆う灰の薄雲が広がり始めていた。

 ■

 光陰矢の如し、という言葉を忠実に遂行するようにして、陰陽師による江戸襲撃事件後の二週間は足早に経過していった。
 一時は激しい混乱状態に陥った江戸の町ではあるが、一日一日を重ねるうちに段々落ち着きを取り戻してきているように見える。陰陽師一味が結界を作り出す時に発生した地震によりあらゆる所で建物の倒壊が起こった為、人々はその復旧作業に精を出しているところだ。
 町の者達が忙しく動き回っている光景を見遣り巡回を続けながら、鈴音は紅龍と共に姿を消した敵の首謀者であり、また友でもあった者――フェイに思いを馳せていた。
 彼は今、何処で何を考えているのだろう。清への帰路を辿ったのであろうか、それともまだ日本の地を踏んでいるのだろうか。
(大切な人と仲良く過ごしてた時のように幸せな状態で暮らして欲しい、なんて虫のいい考えかもしれないけど。でも、せめて……)
 せめて、穏やかに時を過ごして欲しい。どうか、心安らぐ生活を送って欲しい。
 もう彼と会う事が無いからこそ、彼の現状を知る術を持たないからこそ余計に、そう強く願ってやまないのだ。
 ぼんやりと思索に耽っていた鈴音は不意に、つい先程通り過ぎた路地の奥で何やら揉め声が上がっているのを耳に捉える。慌てて来た道を引き返し路地を覗き込むと、粗暴な振る舞いとそれに付随して引き起こされる揉め事の多さで名の知れた侍が、自分より少々年上と見受けられる容貌の女に言いかがりをつけている真っ最中であった。
「痛ぇじゃねぇか! 何処見て歩いてんだ!」
「も、申し訳ありません……少し、考え事をしていて……」
「そんな言葉で済むと思ってる訳じゃ無ぇよなぁ? 良く見りゃ中々の上玉じゃねぇか……おい、俺に付き合え!」
 どうにも安閑として見過ごす事の出来ない雰囲気を察した鈴音は、万一を想定し刀の柄に手を掛けながら侍と女の間に飛び込み、威勢良く口火を切る。
「ちょっと、何してるんです? 通りすがりの私にはどちらが悪いのか判りませんけど、ぶつかってもお互いお怪我が無かったならそれで良いじゃないですか!」
「何だお前は――ちっ、治安維持の……」
 眉を吊り上げた白狼隊の若き女武者を見るや否や、侍は苦々しげに舌打ちを残してそそくさと立ち去った。鈴音は柄から手を離し、しかめた眉をそのままにして女に向き直る。
「全くもう……あの人、いつも似たような揉め事ばっかり起こすんだから……あ、大丈夫でした? あの人に何もされてませんか?」
「ええ、平気です。助けて頂き、有難う御座います」
「多分あの人が勝手にぶつかってきただけで貴女は悪くないんでしょうけど、一応貴女も前に気を付けて――」
 そこまで言いかけた鈴音は息を飲み、一応貴女も前に気を付けて歩いて下さいね、と発するはずの言葉を途中で切った。
 先程までは侍の方に気を取られていたので気付かなかったが、よく見るとこの女の虹彩には一切の光が無かった――つまりこの女は盲目、という事だ。
 不自然な位置で止めた台詞を引っ込めないまま次の言葉を出しあぐねている少女に向かって、高価そうではあるが着古されている蘇芳と青の着物を身に纏った女はふわりと笑みを放つ。
「ああ、良いんですよ。確かに私は目で物を見る事は出来ませんが、その代わりに大体の感覚で何処に人がいるかくらいの事は分かりますから」
「あ……えっと、ごめんなさい、私、何も知らずに‘前に気を付けろ’なんて言っちゃって」
「いいえ、お気になさらずに。こちらこそ申し訳ないですわ、こういった形で迷惑を掛けるなんて。……私、江戸は不慣れなもので。いつもは用心棒を付けているんですけれど、今は探し人を早く見つける為に二手に分かれているんです。そうしたらこんな事になってしまって」
「確かに此処はちょっと奥まった路地ですから……お世辞にもあまり治安が良いとは言えない場所ですね。よかったら、大通りの方に案内しますよ? 人は多いですけど、此処よりは安全だと思いますし」
 鈴音の申し出を受けた女は嬉しそうに口元を綻ばせたが、首を横へと振った。
「とても有り難いのですけれど、用心棒とこの近辺で待ち合わせをしているものですから。すみませんが、その御心だけ頂戴しておきますわ」
「そうですか……そういう事なら全然構わないんですけど。さっきの侍が此処に戻って来ないとは限りませんし……本当に、気を付けて下さいね。何かあったら大声を上げて下さい、すぐに駆けつけます」
「重ね重ね、厚い御心遣いに感謝します。それでは」
 軽く会釈をした女は、静々と近くにあった店先の腰掛けに座り、先程揉め事に巻き込まれていたとは思えない程の穏静な面持ちで瞑想を始めている。
 その様子を見た鈴音もほっと胸を撫で下ろし、巡回の続きへと足を伸ばしたのだった。

 ■

 天道が空の半ばを過ぎた、昼八つ時。
 午前の巡回を終えた白狼隊の隊士達は、少々遅い昼餉を兼ねた報告会を開く為、屯所ではなく栄屋に集合していた。春分を過ぎたとはいえ、まだまだ寒波の居残り組みが悪戯をけしかけてくるような日和だ。冬ほどではないにしても、やはり淹れ立ての緑茶が身体に沁みる。
 差し出された茶を乾びた喉に二、三口与えると、白狼隊を束ねる若き隊長――片桐実時は隊士達の方に向き直った。
「皆、巡回の方、ご苦労だったな。それでは報告会を始める。各々、些細な事であっても気に留めたものがあれば遠慮せず言うように。……まずは廉次郎、どうだ?」
「私は寺社地を回ってみたのですが、特にこれといったものは見当たりませんでしたよ。陰陽師一味の一件で損壊した建物の復旧作業も大分進んでいるようでしたし。由紀彦はどうでした?」
 柔和な笑みを湛えた白狼隊副長――長谷部廉次郎は、すぐ隣に腰を下ろしていた最年少隊士――高田由紀彦に話を振る。由紀彦は少し考え込んでから、笑顔を零した。
「俺の方も、事件らしい事件の話は何にも聞かなかったよ。まあこれで何かあったら逆に困るけどさ。舘羽兄ぃは?」
「良い流れを断ち切るようで心苦しいけれど、一つ、気になる話を聞いたよ。――殺しだ。それもちょっと奇妙な、ね」
 眉根に溝を穿ち、目を伏せて重々しく口を開いたのは、よく光を反射する金の髪を肩へと流している隊士――中川舘羽だ。彼の口ぶりから事の重さを感じ取り、隊士達の面持ちが強張った。心なしか座敷の空気まで、緊張を背負い込んだように硬直している。
「奇妙とは……また捨て置けないな。どういう状況であるのか、説明を頼む」
「了解。私は広場の方を巡回していたんだけれど、そこで酒屋の女将達が話していた辻斬りの噂が耳に入ってね。白狼隊の管轄区域外の事みたいだったから深入りするのはどうかとも思ったんだが……念の為に話を伺ったんだ。その辻斬り自体は別段変わった事は無かった。犯人も既に捕まっているし、奉行の方にもちゃんと報告は届いているみたいだったし。ただ、不思議なのは……」
 実時の問いかけに淡々と答えていた舘羽は、一呼吸を据え置くと、言葉を選ぶようにして丁寧に話を繋げた。
「不思議なのは、その犯人が被害者ととても良い友好関係にあった者である、という事なんだ。仲が良いとは言えど何らかの摩擦があったのでは、と踏んで与力殿達が調査しても、そういった後ろ暗い面が全く出てこないらしい」
「あ、舘羽殿の仰る事と関係あるのかどうか判らないんですけど……僕も似たような話を通りで聞きました。最近盗みにあった店の御主人から伺ったんです、『大の親友だった奴が自分の店に盗みを働いた』って。つい先日まで普通通りだったのに、その日はいきなり豹変したんだそうですよ。その時の親友さんはまるで別人のようだった、とも言ってました」
 ふと思い出した事を口にした、まだどこかあどけなさの抜けきらない少年隊士――朝倉美景も、小首を傾げながら不審な一件を提示する。舘羽のものも美景のものも、朝方に姉が話していた内容とあまりにも酷似している――そう感じた鈴音は、話に乗り遅れないように慌てて口を開いた。
「私も今朝お兄様から同じような話を聞きましたよ。黒虎隊の管轄区域で起こった殺人未遂事件なんだそうです。あとその犯人が謎めいた言葉を口にしていた、という事も聞きました」
「その言葉に……‘露草’という単語が入ってはいなかったか?」
 自分が続けようとした内容が実時の口から飛び出た事に驚き目を丸くしている鈴音を視界の端に捉え、実時は眉間に皺を寄せつつ溜め息を落とした。
「――やはりな。今日の午前、私は城の方に出頭していたのだが……其処で上より命があったのだ。最近江戸近辺で多発している不可思議な事件に気を配るように、その事件に関係していると思われる人物……‘露草’について調べを進めるように、とな」
「はっきり言って今の江戸は例の陰陽師の襲撃事件を引きずってて治安が回復しきってねえからな。人の手の犯罪が増えるだろうとは予測してたが……また厄介な臭いのする事件が起こっちまったもんだ」
 ぶっきらぼうに言葉を投げたのは、隊の兄貴分的存在で二刀を操る隊士――坂上惣助だ。皆の言葉を黙聴していた廉次郎は、事件の大筋を纏め直した。
「一連の事件の共通点は、被害者の方にとって気の置けない存在である人がこれといった理由も無いのに凶行に走る、という事ですね。それで、‘露草’という者はどんな鍵を握っているのですか?」
「お兄様が話を伺った被害者の方が言うには、加害者の方が『露草の御心のままに』、って言いながら危害を加え始めたそうなんですけど……」
「じゃ、そいつが犯人に色々吹き込んでるんだよ! そうじゃなかったら……実は加害者の人達全員が‘露草’の部下だったり、とか」
 鈴音の説明を受けた由紀彦が突発的な意見を呈すると、舘羽はやんわりその論に反駁した。
「それはちょっと、現実的じゃないな。被害を受けた人は一介の町人からそれなりの位を持つ身分の武士まで広範囲に渡っているし、何より大人数で悪事を働くとぼろが出易い……つまり足が着きやすいからね。一人二人がそうだったとしても、皆が皆‘露草’の下で動いているとは考え難い」
「もしかしたら、‘露草’は人間でないのかもしれませんね。高位の妖怪、妖魔の類であれば人の心に物の怪を取り憑かせる事くらい簡単に出来るでしょうし……どちらにしても‘露草’の素性について全く情報が無い以上、長期戦になってしまう事は確かでしょうね」
 舘羽に続いた美景の発言を受けて、身に突き刺さるような沈黙の帳が座敷に降りる。江戸に安心した生活を取り戻す為の大事な時期にこのような事件が舞い込んでくるとは、一難去ってまた一難、としか表現のしようが無い。沈痛な面持ちで座敷に居座る隊士達の耳に、栄屋の看板娘――若菜の朗らかな声が飛び込んできたのは、それから幾らも経たない内の事であった。
「あの、お蕎麦出来上がりましたよ! 皆さんの都合さえ良ければ、今すぐにでもお出し出来ますけど」
「おお、悪ぃな。実時、報告会は一旦止めにして先に昼餉を頂戴しようぜ? ……現時点じゃこうして考えてても、解決策なんて見つかる訳無いんだし」
 惣助の提案に実時が頷くや否や、湯気を立ち上らせている茹でたての蕎麦が隊士達の前へと運ばれてきた。朝餉から随分と時間を経たので流石に腹のすき具合も半端ない。いつも食している栄屋の蕎麦だが、今日は普段に比べてより一層その香ばしさが鼻空をくすぐってくるように思われる。
 中途半端に据え置かれた議題に対しどうにも煮え切らない思いを抱きつつ、隊士達は各々の箸を取り、遅い昼餉を口にしたのだった。

 ■

「さきみ、ひめ……ですか?」
 聞き慣れない言葉に、昼餉の蕎麦を掬い上げた鈴音の手が空中停止する。
「はい、最近江戸に入られた凄い御人だ、ってお客様からよく噂を聞くようになったんです。何でも、未来を見る事が出来るんだそうで……それで‘先見姫’、なんて異名を取っていらっしゃる御方なんですって」
 盆に追加の茶葉と急須を乗せ、奥からやや小走りでやってきた若菜は、顔をうち赤らめて話を続けた。
「先見と言っても、占術の一種らしいんですけど。でも占いの類とは比べ物にならないほど的確なんだそうですよ! 特にその御方の得意とする先見は‘人の縁’を見る事で、今まで沢山の人々の縁結びを手助けなさったらしいんです」
「へー、人の縁ですか……いいなぁ、そういうのって! 何だかわくわくしません?」
「ですよね、鈴音さまもそう思いますよね? 私もいつか機会を見つけて姫君に先見してもらいたいと思ってるんです!」
 うら若き乙女達による、恋愛についての話し込みの凄まじさを見遣った六人――白狼隊の男共は、呆気に取られたような面持ちで蕎麦を口へと運ぶ。皆より一足早く食べ終えた惣助は胡坐をかいていた足を解いて前方に投げ出しながら、かしましく喋り続ける少女達にその内容を悟らせる事無く、本音の詰まった呟きを漏らした。
「ったく女ってのは本当に分かんねえな……易占だの縁だの、そんな当てにならないモン信じてどうするんだか」
「俺も占いはあんまり信じられないや。だって正月とかさ、神社で吉とか凶とかのおみくじ引いても、それで生活に変化があった事って一度も無いし」
「まあ、縁について確証を取る事は出来ないですけど、‘先見’というのは強ち外れはしないものですよ。それが実力者によって紡がれたものなら、尚更です」
「そうですね。僕の兄上にも、破邪の特性の一部である‘予知’の力が有りますから……身近にその能力を感じてきた僕にとってはそんなに不思議な話じゃないですよ」
 惣助に同意したしかめ面の由紀彦を前に、廉次郎と美景が笑いながら意見を返す。惣助に次いで蕎麦を完食した舘羽は目を伏せ、独り言のような節を口ずさんだ。
「先見か。……先見が使えるならば、この事件の真相もすぐに解明できて楽だろうね」
「その‘先見姫’とやらが私達に協力してくれれば、それはそれで願ってもない展開だが……そう美味しい話など、転がってはいないからな。我々は我々なりに、見えない未来を開拓するより他に無い」
「実時殿、今日の午後と、これからの活動の方向付けはどうやって参りましょうか? 手がかりの全く無い状況から物事を進展させるには時間と労力が付き物ですし……何より私達としてもこの一件だけに手間を割いている余裕はありませんし」
 打ち切られていた一連の事件の話を引っ張り上げた実時に向かって、廉次郎は蕎麦の蒸気の被害を受けた眼鏡を拭き直しながら今後の方針を問うた。
「いつもそうだ、とは断言しきれないのだが、一連の事件は夕方から夜にかけて起こりやすい傾向があるそうだ。気休め程度とは言っても、この先は夜を中心に交代制で見回りを行う必要があるだろうな。今日の午後は見回りの組を決定する為に一度屯所に戻る事としよう」
「それでしたら、早めに此処からお暇しないといけませんね。ぐずぐずしていると直ぐに暮れ六つ時になってしまいますし」
「ああ、そうだな。そう、なんだが……」
 袴の帯を軽く整えて立ち上がった美景を始めとした男隊士達は、言葉を濁し、何時にない戸惑い顔をしている実時を見て頭上に疑問符を浮かべる。五人分の視線を身に受けた実時は、惑いの原因の方を顎でしゃくり、溜め息混じりに肩を落とした。
「誰か、鈴音を此方へ引き戻してやってくれ……」
 実時の言葉に促されて男隊士達が向けた視線の先には、蕎麦が伸びきっているにもかかわらず箸を完全に止め、頬を桃色に染めて若菜と色恋の話にどっぷり浸かっている女武者の姿があった。

 ■

「この組み合わせに異議のある者は……いないようだな。それでは取り敢えず、一週間はこれで様子を見よう」
「大変だとは思いますが、これも全ては町に住む皆さんの安全を守る為です。気を引き締めて参りましょうね」
 隊長と副長の締め言葉に、隊士達は深く頷いた。茜日がその身の半分を山際に隠し始めた、夕刻の事である。恐らく大通りの店先には夜の闇に映える提灯が吊るされ始めているだろう。
 書類を整理する為奥の座敷に身を移した実時と、一連の事件の手掛かりを探す為書庫に引っ込んでしまった廉次郎とを除いた隊士達は、夜の巡回に備えて身支度を整えていた。今日のところは鈴音と惣助が見回った後に由紀彦と舘羽が引き継ぐ形を取る事になっている。
「はあ……夜も巡回になるんなら、さっきのお蕎麦を残しちゃったのは誤算だったなあ……途中でお腹空いちゃうかも」
「そりゃお前が若菜との話に没頭してた所為なんだから、自業自得だろ。……それにしたってお前、あんなに麺を駄目にしといてよくそう言えるもんだな。あの蕎麦、食い物の領域を越えるふやけ方だったぞ」
「確かにね……まあ、そう心配しなくとも大丈夫だよ。惣助殿と鈴音殿が見回る時間帯であれば食事処の一つや二つくらい、すぐに見つかるだろうから」
 胃の辺りをさすりながら眉尻を下げた鈴音と心底呆れたという表情の惣助を見て、舘羽は微笑を揺蕩えた。傍に座する美景も、くすくす笑いを零している。各々が談笑を続ける横で、ふと何かが聞こえたような感覚を覚えた由紀彦は、すぐ近くに立っていた鈴音をつついて彼女の注意を引き寄せた。
「ねえ鈴音、何か聞こえない? ほら、俺らを呼んでる、みたいな感じの……」
「あ……うん、確かに言われてみれば。何か白狼隊に用事があるのかもしれないし、私見てくるね」
 腰を上げかけた由紀彦を軽く制すと、鈴音は入り口へと早足で向かう。戸を引き開けた彼女が最初に見たものは、あの空ろな輝きを秘めた、色彩の無い双眸であった。
「すみませんが、白狼隊の屯所というのは此処で合っているでしょうか?」
「はい、そうですけど。さっきは……」
「その声は、昼間の……そうですか、貴女も白狼の隊士様でしたのね。先程は、お世話になりました」
「わ、頭を上げて下さい! だってそれが私達の務めなんですから。それで、何かあったんですか? 私達で力になれる事なら手伝いますけど」
「そう言って頂けると此方としては有り難い限りですわ、元より相談を申し上げるつもりで参りましたから。もし白狼隊の皆様が私達に協力して下さるのなら、とても心強いのですけれど……勿論、貴女達にとっても都合の悪い話ではないと思いますが」
「そればっかりはちょっと、皆でお話を伺わなきゃならないですね……隊が動く以上、私の一存では決められませんから。ええと、お名前、いいですか?」
 鈴音に名を問われた女は、少し赤みががった長い焦げ茶の髪を緩い風に任せながら、澄んだせせらぎのような声色でそれに応答した。
「私の名は、朝霧。――白狼隊に、‘先見’を届けに参りました」

 ■

 思いもよらぬ急展開に、屯所は一時騒然とした。
 座敷に居た実時、書庫に居た廉次郎を呼び戻した後、彼女を屯所の中へ上げるべきかどうかを早急に判断しなければならなかったからだ。こうも上手く事が運んでしまうと逆に不審感が募ってくるのは誰しもが否めない心情の一つであるに違いない。‘先見’の名を使って白狼隊を掻き乱そうとしているのではないか――要するに此方の活動妨害を目論む者ではないか、いう線も容易に推測出来た。
 とは言え、女はどこを取っても丸腰で、その上盲目と来ている。万一何かがあったとしても此方は大小を合わせた武士が七もいるのだから、いたずらに足元を掬われる事も無いだろう。
 そう結論を纏めた隊士達は女を丁重に屯所へと招き入れ、早春限定の和菓子と栄屋の葉を使った茶とで場の雰囲気を柔らかく整えたのだった。一言、二言で当たり障りの無い挨拶や礼を交わした後、廉次郎は目前に正座する女に向かって核心を突く。
「では、貴女が町で噂となっている……‘先見姫’、で宜しいのですね?」
「まあ……私は確かに先見が出来ますけれど、その‘先見姫’、というのは町の方々が勝手に私をそう呼んでいるだけですわ。私は本来ならば皆様と口をきく事も叶わぬような下級武士の娘です……どうか朝霧、と呼び捨て置き下さいまし」
「貴殿が望むのなら、そう呼ぶように努めよう。話を戻すが、朝霧殿……貴殿は何を知っているのだ?」
 今だ先見の姫君を信用出来ていないのか、明らかに訝しげな視線を向けた実時に対し、朝霧はうち笑んでいた頬を締め、言葉を紡ぎ始めた。
「白狼隊は治安維持部隊……その隊士である皆様であればもう風の噂くらいは御耳に通っているかもしれませんね。最近江戸近辺で多発している不可解な事件について、皆様はどこまで御存知でしょうか」
「不可解と言いますと……被害者の方にとって気の置けない存在である人が理由も無く凶行に走る、という事件の事でしょうか? それでしたら僕達は情報も証拠も殆ど掴めていません。唯一の手掛かりにしても、‘露草’と呼ばれる人物がこの一件に携わっているんじゃないか、という曖昧な情報だけで後は本当に何も無いんです」
「そうですか……いえ、そこまで御存知だった事に感謝しなくては。それでは単刀直入に申し上げましょう。――私は、‘露草’の居場所を知っています」
 美景の説明を聞いた朝霧は、事も無げに隊士達の最終目標点を言い当てた。それまで何とか沈黙を保っていた由紀彦がとうとうその行動力を爆発させる。
「本当!? じゃあその場所早く教えてよ、そいつをひっ捕らえるのなら俺達がやるからさ!」
「いいえ、その必要はありません……彼はもう、此処に来ていますから。――露草、お入りなさい」
 朝霧が中庭の方向に声を掛けると、庭に面して備え付けられた襖が躊躇いがちに開かれ、その奥に胸くらいまである濃紺の髪を一つに纏めた青年が姿を現した。心憂げに瞼を下ろしてはいるが、すらりと通った鼻筋や輪郭を見る限り、均整の取れた顔立ちをしている事が伺える。彼が袖を通している二藍と濃青の重ねはその艶やかさから値の高さが伺えるが、朝霧のものと同様、大分着古されているようだった。
 黒幕の唐突な登場を絶句で迎えた隊士達に向かって、朝霧は非礼を詫びる。
「許可を得ず彼をこうして庭に隠れさせていた事、本当に申し訳御座いません。ですが真実を知らぬ皆様が最初から彼を御覧になるのは良くないだろうと思いましたので」
「どういう事だ……真実って。そいつは‘露草’の名を負っているだけで、結局例の‘露草’じゃねえ、って事か」
「違います。貴方達が指している‘露草’とこの露草は同一人物ですが、違う生命体なのです」
「それだけでは、何とも理解し難いね。……そっちの彼、良ければ詳しい話をお聞かせ願えるかな」
 混乱した様子で合いの手を入れた惣助に続き、舘羽が疑問解消の為の説明を要求する。黙する露草はきつく目を結んでいたが、やがて重たい口を開き、艶と憂いを入り混ぜた美低音でゆったりと話し始めた。
「……僕は、‘僕’を探しているんだ。自分の弱さの結晶である、もう一人の‘僕’を――」

 ■

 筋の通らない事件を引き起こすとされていた露草の話は、思ったよりも随分と筋の通っているものだった。
 彼は人間でありながら、生まれつき妖しのような力――人の心を思いのままに操る精神操作の力を授かった。年を経てその能力が露見した時、彼の家の者が取る行動はただ一つ――彼を箱入りにして俗世間から引き離し、彼の力を家の出世の為に役立たせる事だ。彼の存在が世に知られない限り、彼が如何なる操作を施したとしてもその真実を見抜けるものは居ないのだから。
 その上彼の家は元々裕福だったのだがいざこざを起こした際に重役から弾かれた、いわゆる没落した名家だった。家の再興を何としても遂げたい親族にとって、彼の能力は栄華を得る最後の頼み綱、であったのだ。
 お家再興の期待の目が圧し掛かる一方で、勿論この能力を疎む者も大勢居た。何時彼に心を捕られるかという不安を以てすればそれも当然の事ではある。彼は期待のみならず、憎悪、さらには好奇の目に毎日晒されていなければならなかった。
 しかし彼は妖怪のような力の持ち主である以前に、ごくごく普通な一人の人間であった。道理の解る年頃にもなれば外を出歩きたいと思うのもそこらの少年と変わり無い事であったし、心無い親族からの視線を浴び続けた彼は、切り裂かれるような思いを常に一人で抱え込まなければならなかった。そして何より彼は、自分のこの力で人々を苦しめる事が辛くて悲しくて堪らなかった。
 そして十四の春、彼はある決意をした。
 自分の身体に流れる妖しの力を以てもう一人の自分を創り出そう、と。
 もう一人の自分にこの家の再興を託し、自分は外の世界を旅しよう、と。
 そうと決まれば、話は早いものだった。能力の鍛錬をすると侍従に伝えておけば邪魔をする者は誰一人としていない。その為家の厳しい監視下に置かれながらでもじっくりと計画を遂行する事が出来た。そして呪術書に記されていた術式を見様見真似で行使してみたところ、多少の苦難や失敗を覚悟していたにもかかわらず、一発でもう一人の自分が出来上がってしまったのだ。
「自分でも、正直言って吃驚した。……まさか成功するとは、思わなかったから。とにかくそういう訳で彼には家再興の道具としての‘露草’として振舞ってくれるように、僕と同じ能力を授けて、僕の刀‘侘助’と双子の代物と称される刀――‘寂助’を託した。彼に家の行先を頼み置いた僕は、そのままの勢いで家を出た」
「……俄かには信じ難い話ですが……まずは貴方の話を鵜呑みにするより、私達には他に手立てが無いですからね。どうぞ、先を続けて下さい」
 廉次郎に促された露草は目を軽く伏せてそれに答え、口を解く。
「旅をして二年くらい経った時、不意に実家の事が気になって、国に戻った。僕の分身である‘露草’がちゃんとその役目を果たしているのか、それまで正確に把握した事が無かったから尚更気に掛かって。そうしたら国中、今まで存在すら確認されていなかった僕の家の御曹子が姿を見せた、っていう話で持ち切りだった。――彼も創り手の僕と同じように、家を出てしまったんだ」
「! それでは今、一連の事件を引き起こしているのは貴方が創った‘露草’なんですか?」
「僕は家を出て以来、彼と接触を取っていないから……断言は出来ない。でも十中八九、そうだと思う」
 息せき切って尋ねた美景に対し、途切れ途切れに応答する露草の姿は見ている此方が気を揉む程に痛々しかった。元々色白な顔面はさらに蒼白になり、額には玉のような汗が浮かんでいる。一言を発する度に体中の力を込めている彼を憐れんだのか、朝霧は話の手綱を彼から自分の方へと手繰り寄せた。
「私が彼と共に旅を始めたのは、今から三年前――ちょうど彼の分身が家から脱走した頃の事。それからずっと、私達は各地を回って彼の家の追っ手から逃れ、また同時に分身を探しているのですわ。分身の‘露草’も活動拠点を転々と変えているので中々確かな情報が掴めなかったのですけれど、最近漸く、江戸に腰を据えた事が顕現しましたの」
「じゃあ、昼間貴女が言ってた‘探し人’っていうのは……創られた‘露草’さんの事だったんですね」
「そういう事ですわ。随分と前置きが長くなってしまいましたけれど、私達の相談というのは……改めて申さずとも、御理解頂けますね? 前振りもしっかり申し上げましたし」
「我々に、分身の‘露草’を捕縛する手伝いを頼みたい、と――そういう事だな?」
 鈴音の問いに頷きながら本題を投げた朝霧を見据え、実時はその形状のとれた眉を僅かに歪めながら強い口調で切り返した。その言葉に、女の色の無い瞳が緩まる。
「私達二人だけでは、‘露草’を捕える事は出来ない……彼は妖しの力の集合体、いわば人工生命体であり、妖魔です。並みの精神力しか持たぬ武士では、あっという間に彼の精神操作の餌食となるだけでしょう。江戸に入ってまだ幾何も経ていませんが、白狼隊……並びに黒虎隊の武伝はありとあらゆる所で伝え聞きましたわ。九尾の妖狐を無に帰したのも陰陽師による襲撃を食い止めたのも、全て皆様の為した業だとか――私達は、その技量と機動力をお借りしたいのです」
「そういう事なら……手伝ってもいいんじゃないかな。ね、惣助兄ぃ」
「由紀彦、お前はそう簡単に言うけどな……さっき美景が言ったように、今の俺らには分身についての情報が全く無ぇんだ。朝霧、露草、この任務……引き受けるにしても相当時間が掛かる可能性が高いぞ」
 朝霧が、小さく微笑する。何も見えないであろうその眼に、くっきりとした光が宿る。
「まあ、私を誰とお思いですか。不束ではありますが、これでも町の者からは‘先見姫’と呼ばれる身――私に見えない‘先’は、存在しません」
「そこまで言うとは……結構な自信だね。いつ分身の‘露草’が現れるのか、君に分かるとでも?」
「はい。正確に言えばいつ‘露草’が現れるか、ではなく、いつ‘露草’によって事件が引き起こされるか、ですけれど」
 舘羽の挑発にも涼やかに対応する女を前に、隊長である実時と副長である廉次郎は互いに目を配った。
 この女を信用する事は、占術の一種と謳われる先見に賭ける事と同じだ。ものの道理を弁えるという視点からすれば、侍が占いを頼りにするなど馬鹿げているに違いない。しかし八方塞がりで気休めに巡回を、と言っていた夕刻から然程経ぬうちにここまで事態が進行したのは、朝霧と露草という人間が目前に在るからこそだ。そして治安維持部隊としては一刻も早く‘露草’の一件に始末をつけねばならない事もまた、身に深く刻まれた責務の一つであった。
 暫しの沈黙の後、実時はその静けさを見苦しくないように破く。
「……分かった。朝霧殿、露草殿、白狼隊は全隊士を以て貴殿に協力する事を約束する」
「今日明日のうちに黒虎隊の方にも連絡をつけておきましょう、きっと彼らも力を貸してくれると思いますので。しかし私達は他の仕事も山積みとなっているのです……この一件だけに時間を当てる事は出来ませんが、それでも宜しいですか?」
「皆様の協力が得られただけで此方は充分ですわ……厚く御礼申し上げます。申し遅れましたが、私達は本物と分身を区別する為に分身の方を植物の‘露草’の古名、‘月草’と呼んでおりますの。ですのでこれからは皆様もそうお呼び下さいまし」
 白狼隊の隊長、副長に深々と頭を下げた朝霧がゆっくりと半身を起こすのを待ってから、美景は凛とした声で女に問いかけた。
「先程貴女はいつ月草によって事件が引き起こされるかが分かる、と仰いましたね。事件の引き起こされる現場には常に、月草が来ているのでしょうか?」
「ええ、彼の精神操作能力は創り出されたもの故不完全となっております。なので事件を引き起こす程までに人の心を支配する時には必ずその対象者の側に居なければならない、という欠点を持っているのです」
「それで? いつ起こるんだ、その事件ってのは」
 本腰を入れて聞く体勢を整えた惣助の質問に、朝霧は躊躇う事無く、冷然なる答えを返す。
「明日の午後に町中で一件、六日後の夜に近場の山中で一件、白狼隊の管轄区域で月草が動きます。彼を捕らえる機会があるのは明日でなく六日後と思われます。事件内容は両方とも殺人です――この二件による被害者三名が全員死亡します」
 刹那、屯所の空気が氷結するように冷え切った。それは言われた内容を飲み込めていないからか、否、言われた内容があまりに衝撃的だったからか。
「ちょ……ちょっと、何なんですかそれ……死亡者三名、って。その人達、助けられないんですか……?」
「そうだよ……人が死ぬかもしれないって分かってるんなら何とか助ける方法を考えなきゃ……!」
「いいえ、必ず死にます。――今まで何千何万もの人々の‘先’を見て参りましたが、私の先見を破った者は未だかつて一人しかいませんでしたから」
 言葉を戦慄かせた鈴音と由紀彦を素気無く切り捨てた朝霧は、実時の方に体の向きを変えた。
「では、そういう事ですので。皆様は明日の午後と六日後の夕刻から夜にかけて巡回なり何なりをなさって下さればそれで結構です。月草の外見は露草と全く同じですから、先見以外の時間帯でもし見かけるような事がありましたらすぐに私達にお知らせ下さいませ」
「……ああ、承知した」
「もう時間が時間ですし今日のところはこれでお暇しますわ、もし其方に作戦が御座いましたら明日伺いますので。それではお休みなさいませ。……露草、参りましょう」
 軽く一礼した女は俯いていた青年を呼び寄せて屯所を後にする。二人の後姿はすぐに、春の淡い宵闇の中へと溶け込んでいった。当惑状態のまま捨て置かれ、呆然と座敷に座り込む隊士達の気持ちを纏めたかのように、由紀彦がぽつりと呟く。
「事件は進展したのに……何かやな気分だな」
「朝霧殿にとっては死を先見する事など、慣れたものなのかもしれないけれどね。ああもきっぱり言われたら、此方としては返す言葉が無くなるよ」
「だが被害が出る可能性が高いと分かった以上、我々はその事態を避けるよう努めなければならない。彼女も言っていただろう、『私の先見を破った者は未だかつて一人しかいませんでした』と。言い換えれば少なくとも一人が彼女の先見を覆した、というわけだ。ならば我々も彼女の先見を変える者になれば良いだけの話……理不尽な予言に屈するほど、白狼隊は柔ではない」
 舘羽を始めとした落胆する隊士達を叱咤するように、実時は声を引き締めた。廉次郎も普段通りの穏和な笑みでその先を引き継ぐ。
「それでは今日の巡回は取り止めとしましょう。鈴音殿、紫苑殿を通じて黒虎隊の方にこの事を伝えて頂けますか? 出来るならば今日、もしくは明日中に頼みたいのですが」
「はい、分かりました! 今日はお兄様も特に忙しいわけじゃないみたいでしたから、家に帰ったらすぐ報告します」
「お願いしますね。先見によると明日の午後には事件が起こるようですから……その時間帯を中心に皆で手分けして町中を巡回しましょう。決して諦めてはなりません……私達は刀を通して誓ったはずです、‘剣は民の未来の為に、その身は都の平和の為に’と。状況が絶望的である今だからこそ、私達白狼隊の力で何とか乗り切っていかなくては」
 副長の言葉に、隊士達一人ひとりが己の気持ちを持ち直す。
 そうだ、自分達が放り出してしまえば、誰がこの都を守るというのだ。今までだってどんなに辛く苦しくとも力を合わせてやって来れたではないか。人の死を先見されたからといって潔く引き下がるような中途半端な思いで治安を維持できるわけが無いではないか。今こそ白狼の意地にかけて、宿命に牙を剥く時だ。
 そう気持ちを新たにした隊士達の上には、その身を儚げに霞で包んだ半月が照り映えていた。

 ■

「随分と御不満のようね――露草」
「大勢の他人にこうして自分の事を話すなんて、今まで無かったから。……僕は、こんな事、望んでなんかいないのに」
 朧月夜の下に、宿への道を辿る二人の若者の影が伸びる。刺々しく言葉を吐き捨てた青年の背に、朝霧は笑みかけた。
「我慢なさいな、貴方の目的を果たす為には白狼隊、黒虎隊の存在が不可欠――何度もそう言っているでしょう。聞き分けの無い子ね」
「解ってるよ……解ってるけど。朝霧、僕の嫌いなもの、知らないわけじゃないよね?」
「ええ、よく存じているつもりよ。一つ目は‘自分の能力’、二つ目は‘自分の身体’、三つ目は‘つるんでいる武士’。違うかしら?」
「全部当たりだよ。――で、何、あの白狼隊っての。僕の嫌いなものの三番目に見事に該当してるじゃない。一人じゃ何も出来ないくせに、集まって馴れ合いながら治安維持だとか豪語してる連中……ああいうの、僕、凄く嫌なんだよね」
「またそんな事を……白狼隊と黒虎隊の話は貴方も巷で聞いたでしょう。――彼らは強いわ。利用するだけの価値はあると思うけれど?」
「……それでも、彼らと関わるのは気が引けるよ。それに……本当に利用できる力が彼らにあるのかどうか、怪しいものだね。見たところ、若い女武者まで引き込んでる――女の力を借りなきゃいけないような部隊に、僕が負けるとは思えない」
「まあ、貴方がどう思おうと、月草を捕らえる為に彼らが必要なのは変わり無い事よ。嫌なら嫌なりに足掻いて見せなさいな、露草……どんなに迂回したとしても結局宿命――‘サダメ’は成就するのだから。どうせ足掻いてくれるのであらば宿命に到達するまでの過程を盛り上げてほしいのよね、先を知る私としては」
 勘に障るような台詞を言い捨てると、女は喉の奥で声を立てて笑った。その様子に、元々あった青年の眉間の皺が一層深くなる。
「嫌いなもの、まだあった。四つ目は‘朝霧’、お前だ」
「あら、そう? 私は貴方がとても好きですわよ、武士としての剣の腕もかなり立つし、何より‘強い’し。用心棒としては最適ですもの」
「そうやって心にも無い事を言うところとか、僕を愚弄するところとか……全部腹立つよ。何なら今、精神操作してやっても僕としては全然構わないんだけど……どう?」
「謹んで遠慮申し上げますわ……最も私には、貴方に精神操作されない絶対の自信がありますけれど」
「……その自信の出先は、何? 先見?」
 ふわりと宙を舞った露草の問いに、朝霧は盲目の双瞳を閉じ甘美な声で呼応した。
「いいえ、先見に頼らずとも、貴方を見ていれば自ずと解る事よ」

 ■

 翌日は弥生の初週という事を踏まえれば暖かい天候ではあったが、上空から急降下してくる春風が吹き荒れる日和となった。大地に息づく草花達は引っ切り無しに揺れ続け、白雲達は互いに負けじと競い合うようにして蒼穹を駆けていく。
 鈴音は白狼隊の屯所には立ち寄らず、黒虎隊の屯所に身を置いていた。というのも、昨晩姉に事の顛末を話したところ、
「お前を信用しない訳ではないが、人づてに話を聞くだけではどうにも腑に落ちん。黒虎隊も、是非御二方にお会いしたい」
 と逆に頼まれてしまったからだ。
 聞き込みから割り出した二人の滞在先まで出向き、黒虎隊にも会ってほしいと頼むと、二人は心底驚いているようだったがすぐにその申し出を受け入れてくれた。最も、寝込んでいたところを朝霧に叩き起こされた露草の方は、この上なく不機嫌そうな様子であったが。
 そこから真っ直ぐ黒虎隊の屯所に向かい、昨夕とほぼ同じようなやり取りを交わした後に外へ出てみると、案の定天道はすっかり頭上高くに差し上がってしまっていた。
「紫苑の奴が無理言ってごめんな~、こいつ本当に頭ガチガチだから。お前達も予定くらいあっただろうに……時間潰しちまって悪かったな」
「一、煩い。……しかし朝霧殿と露草殿には迷惑をかけたな。御二方、私の強引な頼みを快く承諾して下さった事、感謝する」
「良いんですのよ、元より私達が遠路はるばる江戸に来たのは月草を捕らえる為なのですから……その他に大した予定などありませんわ。此方こそ、白狼隊のみならず黒虎隊の皆様をも巻き込んでしまう事、お詫び申し上げます」
 元気をそのまま形取ったような明るさを併せ持つ黒虎隊隊長――槙村一を一蹴し、二人に深く礼をした紫苑に向かって、盲目の女は微笑みながら突風に煽られる長髪を掻き揚げた。続いて、温純な印象を受ける黒虎隊少年隊士――月島徹平と、自分を乙女と称している黒虎隊隊士――頼 正親が屯所の戸口から姿を現す。
「そんなの全然気にする事無いですよ! こうしてお引き受けした以上は、俺らも月草を捕まえる為に一生懸命頑張りますんで」
「そうよ、困った時は助け合いが基本なんだからそう畏まらないで。それにしても朝霧ちゃん、大変だったわね……目、見えないのに長旅してきただなんて。敬服しちゃうわ」
「確かに盲目で困った事はありますけれど、もう慣れましたから。それに今は露草が用心棒を務めてくれていますので、そこまで不便を感じる事も無いのです」
「露草ちゃんも偉いわよね、こうして朝霧ちゃんを傍で守って――あら?」
 姿の無い露草を探す為に正親が辺りを見回すと、既に露草は遥か前方の通りを歩んでいた。どうやら此処で皆が話し込んでいるうちに、一言を残す事無く立ち去ってしまったらしい。あの子顔はいいんだけどちょっと愛想が足りなさすぎるわね、と正親が呟く横で、鈴音は黒虎隊隊士と談笑する朝霧に向かって呼びかける。
「あの、朝霧さん! 私、露草さんを連れ戻してきますね!」
「露草ですか? ……彼なら放っておいて大丈夫ですよ、そのうち帰ってきますから」
「そうは言っても、露草さんは朝霧さんの用心棒なんでしょう? 朝霧さんの身の安全の為にも、彼に戻ってきてもらわなくちゃ」
「本当に大丈夫ですのよ……って、ああ、行ってしまわれましたね……」
「……すまんな、朝霧殿。妹はどうもこう、即断即決即実行な節があるもので……私も手を焼いているのだ」
 遠ざかる少女の足音を聞いてすまなそうな表情をしている女を前に、紫苑は長年に渡る気苦労の詰まった溜め息を漏らしたのだった。

 ■

「露草さん、待って下さい!」
「…………」
「待って下さいってば! 聞こえてますか!?」
「………………」
 飽く迄も聞こえないふりを押し通したいのだろうか、目前の背は返答するどころかその歩みを止める気配すら無い。こうなったら強硬手段もやむなき事だ――そう感じた鈴音は、自身の肺にありったけの空気を押し込んでから、どんどん小さくなっていく青年に向かって思いっきり爆弾音量を投げつけた。
「つーゆーくーさーさーーん! 止まって下さーい……って、わ、ちょっと! 急に止まらないで下さいよ、もうちょっとでぶつかるとこだったじゃないですか!」
「止まれって言ったのはそっちだろ……それより、早く此処を離れないと」
「え、何でですか? ちょ、引っ張らないで下さいよ!」
 引きずられている鈴音の反抗には耳を貸す事無く、露草は足早に大通りから一本入った路地へと移動する。周りに人がいないのを念入りに確認してから、露草は漸く鈴音の腕を解放した。余程露草の力が強かったのか、鈴音は掴まれた部分をさすりながら青年を恨めしそうに見上げる。
「どうしたんですか、いきなり……腕、痛いんですけど」
「お前、それでも白狼の隊士なのか? ……言っておくけど、僕は月草を追う身である以前に、家や奉行から追われている身なんだからね。あんなに大声で名を呼ばれちゃ……奉行の奴らが僕の居場所を嗅ぎつけてくるのも時間の問題だよ」
「あ……そ、そうですよね。ごめんなさい」
「解ったならそれでいい。それじゃ」
 素っ気無い態度で鈴音をあしらった露草は、路地の奥の方へと行歩する。その様子を半ば放心状態で眺めていた鈴音は不意に我に返り、自分が露草を追ってきた本来の目的を達成するべく彼の前に先回りした。またしても足止めされた露草は鈴音を視界に捉え、不快なものを見るように顔を歪ませる。
「……まだ、何か?」
「朝霧さんの所に戻ってあげて下さい。目が見えないのに一人にされちゃ心細いですよ、きっと」
「心細い? 朝霧が? 馬鹿げた事を言うもんだね、白狼の姫さんは。そう見えるんならお前は朝霧の演技に踊らされてる憐れなお人形、って事だよ」
「……随分な言い様ですね。物には言い方があるって事、ご存知ですか?」
「知っていても、お前に使う義理は無い。違う?」
 かっとなって言い返した鈴音は深呼吸をし、気持ちを落ち着けた。意地を張って良い時と悪い時を見定める分別くらいは弁えているつもりだ。この青年が自分を遠ざけようと躍起になっているのは先程からのやり取りを考えれば明らかな事である。これで自分が意地を張っては更なる逆効果しか生み出さない事も、想像に易い。
「そうですね……私にも非がありますから、その事については謝ります」
「ふうん、意外にも早く折れるんだね……面白みの無い女だ」
「まあこの際面白かろうとそうで無かろうとどうでもいいですけど。何処に行かれるかくらい、伝え置いといた方が後で探す時にお互い楽ですよ? 何だったら私、朝霧さんに伝えますけど」
「別に……特に行く当てなんて無いから。ただ、四年前と比べて随分変わったな、と思って……珍しいからふらふら歩いているだけ」
「四年前も、江戸に来てらしたんですか?」
「うん……あの頃は、数こそ少ないものの魑魅がうようよしてたから見物も満足に出来なくて。江戸、ね……改めて見ると、やはり日本の中枢を担うだけの事はあるな。……活気もあるし、綺麗だ」
 そう言って僅かに目を細める彼の表情は、鈴音に向けたような嫌悪の欠片を所々に散りばめた表情とは似ても似つかないほどに柔らかく、また温雅なものだ。小さく密かに咲き誇る花のような彼の笑顔に絡んだ風は、春を謳歌しながら軽やかに走り去っていく。先程とは打って変わったその様子をぼんやりと見つめていた鈴音は、露草が此方に視線を投げている事に気付いたのか、慌てて青年から目を逸らして照れくささを誤魔化すように問いかけた。
「あの、もし仰りたくない事なら答えて下さらなくても構わないんですけど……どうして朝霧さんは、露草さんと一緒に行動してるんですか?」
「……何で僕に聞くの? それってどっちかと言えば朝霧の方に尋ねるべき質問じゃない?」
「それはそうですけど、今此処に朝霧さんいらっしゃらないじゃないですか。昨日お話を伺った時からちょっと不思議だったんですよね……ほら、露草さんには月草を追うのにちゃんとした理由がありますけど、朝霧さんは別段月草に恨みを抱いている訳でもないみたいでしたし」
「…………」
「あ、嫌なら別にいいですよ、ただの好奇心ですから」
「……詳しくは、僕も知らない。だけど朝霧が言うには……僕は‘サダメを変えた者’、なんだって」
「サダメって……漢字を当てると宿命、って書くものですよね。じゃあ露草さんは朝霧さんの先見を覆した人なんですか?」
 一驚を喫した鈴音を前に、露草は無言で頷く。駆ける事を止めない雲の合間を縫って、太陽の光が二人を照りつけている。
「朝霧の話だと、僕は三年前に死ぬサダメだったらしい。三年前って言うと……ちょうど僕が国に戻って月草が逃げたのを知った頃の事なんだけど。確かにあの時は家の者からの通達を受けた奉行の奴らに囲まれて窮地に立たされてたんだ……前後左右、全部逃げ道を塞がれてね。先見では、僕はその奉行の奴らに殺されるはずだった」
「ちょっと待って下さい……どうして殺されなくちゃならないんです? 親族の方達は露草さんを家に引き戻そうとしてるんじゃないんですか?」
「……考えてもみてよ。僕のこの能力は人に知られずして効力を発揮するもの……世間に‘露草’という化け物の存在が知れてしまったら、お家再興もままならないどころか自分達の身だって危ない。家の奴らも、僕が家を嫌ってるって事だけははっきり解ってたみたいだから、僕の復讐が起こるのを恐れてるんじゃない? ――要するに、家を潰される前にその毒牙を摘み取ろう、って事だよ」
「そんなの酷いじゃないですか! 露草さんは能力が有るとか無いとかの前に、一人の人間なのに!」
 通りであるにもかかわらず声を荒げた鈴音に対し意表を突かれたような表情で眺めていた露草は、やがて普段通りの怜悧な面持ちに戻り、瞼を下ろして語りを続けた。
「それで、その絶体絶命の危機をどうやって乗り切ったのか、僕、実はあんまりよく覚えてないんだけど。多分、奉行の奴らの精神を操作した、んだと思う」
「記憶に無い、って事ですか?」
「それとはちょっと、違う。そういう出来事があった、って事はちゃんと覚えてるし、意識の端くらいはちゃんと保ってたと思うから。でもふと気が付いたら、全部で六人いた奉行の奴らの四肢がバラバラに散らばってて、僕は酷く返り血を浴びて立っていて。――きっと僕は能力を行使するって感覚の無いまま、彼らがお互いに殺し合うように、精神操作してしまったんだ。そうじゃなきゃ、あの状況に説明がつかない」
 自分の背を何かがじわりじわりと這い上がってくるような慄然を感じた鈴音は、咄嗟に唇を噛み締めた。眼前の彼は自分と二、三しか違わぬ齢の青年であるはずなのに、その身を覆う圧倒的な虚無を孕んだ気は寧ろ妖魔のそれだ。侍六人の精神を瞬時に手中へと収めてしまう彼と自分の力の差など、測ることさえ馬鹿馬鹿しい――彼はただ純粋に、‘強い’のだ。
 重苦しい雰囲気を破るように軽く頭を振った鈴音は、無理矢理笑顔を作り出した。
「でも結局露草さんはこうして生き延びる事が出来たんですし……先見が成就しなくて良かったですよね」
「…………本当に、そう思う?」
「だって、その時殺されちゃってたら今此処に露草さんはいないんですよ? ……殺された方が良かった、なんて事は無いですよね?」
「まさか。むざむざ命を棄てるほど、僕は馬鹿じゃないよ……まだ達成してない望みだってあるし。でも……」
 そこまで言いかけて一呼吸を置いた露草は長い逡巡の後、先程よりも声量を落として言葉を紡いだ。
「僕が生きた代わりに、奉行の奴らが死んだ。僕一人の命の為に、六人の命が犠牲になった。――先見を覆す時、其処には必ずその先見と同等、もしくはそれ以上の‘代償’が必要とされるんだ。死を先見された奴が生き長らえた時、其処では必ず他の誰かがそいつの為に命を落としてる……結局誰かが先見を享受している事に変わりは無い。だからサダメを変えるのが良い事なのか悪い事なのか……僕には、分からない」
 露草の言葉を聴きながら、鈴音は胸の内で軽口を叩いた数十秒前の自分を恥じる。
 『僕一人の命の為に、六人の命が犠牲になった』――その台詞には彼のやりきれない想いが痛いほどに詰まっていた。自分の‘代償’として他人を六人も巻き込んでしまった露草は、自分を強く咎めているのだ。彼の身代わりに、人の形を留める事無く散った奉行の者達。彼らの墓に花を手向けたくとも、彼の身に圧し掛かる自責の念がそれを阻む。――先見を覆した彼を待ち受けていたものは、生という名の罪に溢れた束縛でしかなかったのだ。
 押し黙る少女を目下に捉え、露草は疾駆する風で乱された自身の髪を纏め直しながら開口する。
「ああ……そうだ、まだ質問に答えてなかったっけ。朝霧も言ってたよね、『私の先見を破った者は未だかつて一人しかいない』って。……その一人が、僕。朝霧は自分の先見が成就しなかった事にかなり驚いたみたいで、僕の旅について行きたい、‘サダメを変えた者’と行動するなら少しは楽しく生きる事が出来るかもしれないから、って言ってきたんだ。朝霧の先見を使えば月草を探す手間が省けそうだったし、利害が一致したから……三年間こうして徒然の旅を続けてきた、って訳。これで満足?」
「はい……有難う御座います、答えて下さって。あ、じゃあ月草を捕まえたら、お二人は別行動なさる予定なんですか?」
「……まあ……そうだね、僕は……」
 転瞬、質問の答えを続けようとした露草の声音を遮るようにして男の大きな叫び声が上がった。話にのめり込んでいた鈴音は我に返り、自分の注意不足に愕然とする。今日の午後は月草の仕組んだ殺人事件が起こる――そう先見されていたはずだ。ならば、今の声は――。
「どうしよう……早く止めなきゃ、殺されちゃう……!」
 唇を真っ青にして声を戦慄かせるや否や、鈴音は全速力で声のした方へと駆け出す。
 人混みの中を懸命に走り抜けていく少女を横目で見遣った青年は、やがて視線を地へと投げ打ち、微小な呟きを巻き起こる春風にそっと乗せた。
「無駄だよ……鈴音。そんなちっぽけなお前の力じゃ、サダメは、変えられない」

 ■

「露草の御心のままに……我は動くのみ」
 息を切らして現場に到着した鈴音を出迎えたのは、目を猛禽の如くぎらぎらと光らせた男の、悪魔の囁きだった。その傍で腰を抜かしているのは、叫び声の主だ。浅く斬りつけられたのだろうか、着物の胸元には既に血がうっすらと滲んでいる。
「お……お前、どうしちゃったんだよ、俺らは唯一無二の友じゃねぇか! 俺が何かやったってのか!? ‘露草’って何の事だ!?」
 がたがたと身を震わせながら後ずさりする男ににじり寄った殺人鬼は、親友の問いに答える事無く、自身の口角を持ち上げながら手中の刃を振りかざした。刃が振り下ろされる事を悟った鈴音は夢中で二人の間へと手を伸ばし、形振り構わず有らん限りの声を絞り出す。
「駄目、……止めて、下さい!!」
 刹那。
 耳にべたりと残る鈍い音が大気に絡みつくと同時に、赤い紅い血が舞った。
 鈴音は目を見開いていた。否、目を瞑る事が出来なかった。自分の瞳孔が、目の前の男が、時間が、全て赤く、紅く染まる。やけに長い一瞬を経た後に、斬られた男はゆっくりと地に伏した。
 騒ぎを聞きつけて現場に足を踏み入れ犯人を奉行へと送った黒虎隊が、倒れている男の横で茫然と立ち尽くしている鈴音の姿を視界に収めたのは、それからまもなくの事であった。一は鈴音の両肩を掴むと、やや乱暴に揺さぶりをかける。
「おい、鈴音! 立ったまま寝てるんじゃないだろうな、しっかりしろ!」
「え……あ、一さん……お兄様達も。私……」
「辛いのは解るけど、今は先にやるべき事があるでしょ? 説明、頼むわね」
 正親の促しに対し首を縦に振り、鈴音は回らない呂律を何とか動かそうと努めた。
「私が此処に到着した時……犯人が『露草の御心のままに我は動くのみ』、って言うのが聞こえて。それから被害者の方に斬りかかろうとしてたので庇おうとしたんですけど、間に合わなくって、それで……」
「その言葉が出たという事はこの近くに月草がいるという事だな? 幸い然程時間は経っていない、隊を分けて捜索に当たるか」
「――山形さん、その必要は無いみたいです。……ほら、あそこに……」
 紫苑の言葉を制した徹平が指差したのは、現場から三、四軒離れた長屋の屋根であった。其処に腰掛けているのは、露草と全く同じ顔と髪とを持ち合わせた青年――‘月草’だ。露草との違いは着合わせている着物の色柄と愛想の良い表情のみであり、その他は秀麗な顔立ちを取っても背格好を取っても露草とまるで違いがない。どうやら向こうも此方に気付いているらしく、気だるげな微笑を口元に浮かべている。睨みを放つ隊士達を面白そうに眺めていたその者は、逃げる事も慌てる事も無く、隊士達を弄ぶかのような台詞を口ずさんだ。
「成程……君達を使って僕を捕らえようとしてるんだね、弱い弱い、僕の生みの親は」
「――貴殿が‘月草’か?我々は、露草殿よりお前を捕縛せよ、と要請されている……答えによってはお前を縄に掛ける事も、厭わん」
 紫苑の毅然とした切り返しに青年はゆっくりと目を瞬いた。そして少しの黙考の後、ああそういう事か、とでも言いたげに手を打つ。
「‘月草’……露草の古の名か。まあ、悪い呼び名じゃないからそう呼んでくれても良いけどね。露草が僕の事をそう呼べ、って言ったのかな? なら彼に伝えておいてよ。――本当の‘露草’は僕だ、ってね」
「な……どういう事だ?」
「どうもこうも、そのままの意味だよ。僕は‘露草’としてこの世に生を受けたんだ……僕こそが‘露草’を名乗るに相応しい器量を持ってる。ただそれだけの事」
 混乱している一の脳内を更に掻き乱すと、月草は腰を上げて隊士達に手を振った。
「じゃあね、君達とまた会う機会があるとは思えないけど。そうだ、露草にもう一つ、伝えて。――今度はちゃんと僕の前に姿を見せて、って。どちらが‘露草’なのかそろそろ決着をつける頃合なんだ……それは僕も、彼も強く感じている事。彼は全てのものから逃げてきた……充分過ぎるほどにね。だからもう逃げてるだけじゃ済まされないよ、って事をその身に刻んでやろうと思ってさ」
 鈴音達が佇立している場所から少し奥の方に目線を投じた月草は、台詞を存分に言い終えるや否や、その姿を大気へと溶け込ませていく。輪郭のぼやけていく青年に向かって、鈴音は憤怒を静かに顕わした。
「一つ、答えて下さい。どうして、こんな事をするんです? 貴方は何とも思わないんですか?」
「こんな事? ……ああ、精神操作の事か。それはね、これが本来の‘露草’の在り方だから。……世の穢れを知らされる事無く大切に育てられ、どんな火の粉からも守られてきた白狼の姫さんには理解できないだろうけどね。ついでに言えば、僕は精神操作する事に対して何の感情も持っていないよ。これで満足?」
 不愉快な発言を受けて顔を歪ませた鈴音を見下し、悪戯っぽく微笑んだ月草は、そのまま大気と同化した。彼を追う術の無い隊士達は暫し重い沈黙を引っ提げたまま彼が消えた場所である中空を睨んでいたが、不意に後方で人の気配を察知する。気配の方へ半回転すると、其処には何時になく厳しい面持ちの朝霧と、物憂げな面持ちの露草の姿があった。朝霧は色の無い双瞳を青年へ向ける。
「あれが‘月草’……間違いないわね、露草」
「……うん、違いない。やけに僕を挑発するような台詞が多いとは思ってたけど、まさか此処にいる事がバレていたとはね……失策だ」
「そうね……此方としても様子見のつもりだったから良いけれど、向こうがああいう風に出てくるとは思わなかったわ。――勝てそうかしら?」
「あいつ如きに手こずるような器量に恵まれた覚えは無いよ。月草は五日後、必ず僕が始末する」
 憎々しげに捨て台詞を吐き閉口した露草から隊士達に視線を移した朝霧は、その足元に横たわる男を見遣り、問いを零す。
「その方は……亡くなられたのですか」
「……はい。何とか食い止めようとしたんですけど、結局……」
「そうですか。まあ、先見で分かっていた事ですからね」
「……貴女がこの人の死を先見しなければこの人が今此処に生きてた……って事は、無いですか」
 飽く迄も冷淡な態度を崩さない朝霧にやっとの事で言い返した鈴音は、言い知れない嫌悪感に身を苛まれていた。この女がどうして人の死をこんなにも粗略に扱う事が出来るのか、鈴音には分からなかった。一方そんな鈴音の気持ちとは裏腹に、朝霧は平常通りの笑みを揺蕩える。
「ええ。どうやら貴女は何か勘違いをしていらっしゃるようですけれど……人には生まれついて背負わされた‘宿命’があるのですよ。私はその宿命の脈を読み取る事が出来るだけ……よって私が先見しようとしなかろうと、この方は亡くなる宿命にあったのです。御気持ちは分かりますけれど、その事で先見を怨むのはお門違いですわ」
 朝霧の答えにがっくりと肩を落とした鈴音を元気付けるように、徹平は励ましの言葉を口にした。
「鈴音ちゃん……鈴音ちゃんは、出来る事を精一杯やり切ったよ。確かにこの人が亡くなったのは残念な事だけど……この人の無念を晴らすためにも俺らが頑張らなきゃ!」
「そうよ。全てはあの、憎き月草の所為なんだから……次にアイツと会った時には、アタシ達でボッコボコにしてやりましょ」
「今すぐに立ち直れ、とは言わねえからさ。ただ治安維持部隊の一員として生きる以上、人の死はどう頑張っても避けられないんだ。何とか俺達で乗り切っていこう、な?」
「それに気分が全快する訳ではなくとも、人に話せば云々、とも言うからな。無理に溜めるんじゃないぞ。何かあれば、私達を頼れ」
 徹平に続いた正親、一、紫苑の言葉に、鈴音は力強く頷いた。挫けそうな心に一筋の光が差し込んできたような、そんな気がしてならなかった。先程に比べて随分と顔色の良くなった鈴音を見て安心したのか、黒虎隊の四名の顔にも笑顔が宿る。一は袖を捲り上げ直すとてきぱきと指示を下した。
「紫苑は奉行の方で、犯人の今の状態を把握してきてくれ。正親と徹平は遺体の身元確認の後、遺族に連絡を。俺は鈴音と一緒に白狼隊の屯所まで行く……実時にこの事、説明しなきゃならないからな。で、朝霧、露草、面倒かもしれないが……お前達には屯所まで付いて来てもらうぜ。今回でまた深まっちまった謎を解くにはお前達の協力が不可欠だし、五日後の事もあるしな」
「分かりました……微力ながら、御手伝い致しますわ」
「よし、決まりだ。じゃあ紫苑、正親、徹平、後は頼んだぞ」
 朝霧の同意を受けた一は満足そうに頷くと、屯所への道を辿り始めた。それに続いた朝霧と鈴音の後姿を幽愁を湛えた表情で眺める露草は、深い溜め息を吐く。
「…………だから嫌なんだ、つるんでる奴らって。見てて、吐き気がする」
 それまでずっと閉口していた青年から紡がれた毒々しい言の葉は、けたたましく音を立てて過ぎ行く風に掻き消されていった。

 ■

 一と鈴音からの報告を受けた実時は軽く唇を噛んだまま暫く閉眼していたが、漸く顔を上げると、眼前に座する四人に焦点を合わせる。
「――そうか。黒虎隊も鈴音も、御苦労だったな。御二方も、疲れているところを引き留めてしまって申し訳無い」
「お気遣い無く、私と露草は結果としてただ傍観しているだけでしたから、実際に疲れているのは寧ろ隊士の皆様の方でしょうし。それでは五日後の件ですが……皆様の方に作戦は御座いますでしょうか」
「確か五日後の事件は近くの山中で起こる、って先見されてたよな。此処から一番近い山っていうと……北西のやつか?」
「そうなるな。しかし問題は山の何処で起こるか、だ。山は町とは違ってただでさえ見通しが悪いというのに、起こる時間帯が時間帯だからな……」
 朝霧、一、実時が話し込んでいる中に、鈴音はどうしても飛び込んでいけなかった。実時や一は長年の経験の賜物でこういった遠隔地で起こる事件を扱う事に手馴れているし、朝霧は隊長二人よりは若く見受けられるものの達観している節があるので、三人で固まって話されると此方としてはただただやり取りを理解する事に徹するしかなくなってしまうのだ。
 思いがけず暇になってしまった鈴音は、同じく話に参加する気の無さそうな露草に話しかける事を決めた。
「露草さんって、お歳はいくつなんですか?」
「何、いきなり。……十九だけど?」
「じゃあ朝霧さんって、お歳はいくつなんですか?」
「お前も、懲りないね。昼間も言ったような気がするけど……それってどっちかと言えば朝霧の方に尋ねるべき質問じゃない?」
「それはそうですし、今此処に朝霧さんいらっしゃいますけど、露草さんの方が暇そうなんですもん。大体女性に年齢を尋ねるのは失礼な事なんですよ!」
「……女性の年齢を本人が知らないところでこっそり聞き出すのは、失礼な事じゃないの?」
「うっ……そ、それは、失礼かもしれないですけど……。全ては露草さんの口の固さにかかってるかなぁ、なーんて……」
 視線を外してどぎまぎする鈴音を横目で眺め遣っていた露草は、口調と声音を和してそれに返答した。
「……変な奴だな、お前。僕の口の固さ、ね……絶対言わないって保証は出来ない、かな」
「保証しないんなら聞きません。朝霧さんにバラされちゃったら後が怖そうですし」
「冗談だよ、言わない。……だって僕も朝霧の本当の年齢、知らないし」
「あれ、ご存じないんですか?」
「僕はお前みたいな物好きじゃないから、朝霧の歳なんて気にした事ない。多分、二十歳は過ぎてると思うんだけど。――ほら、此処の隊士で金髪の……何て言ったっけ?」
「舘羽さんの事ですか?」
「そう、それそれ。その人と同じか、ちょっと上くらいじゃないの」
 舘羽と同じ、もしくは少し上という事は、二十三から二十五くらい、とでも言ったところか。顎に手を当てて考え込んだ鈴音に向かって、露草は物珍しそうな視線を流す。
「そんな事気にするなんて……朝霧の歳に、何か?」
「あ、いや、特別何かがある訳じゃないんですけど。町で聞いたんです、‘先見姫’の特技は人の縁を見る事だ、って。だから朝霧さん自身は結婚してるのかな、と思いまして」
「結婚はしてないよ、絶対。ああ、でも……朝霧が人の縁を見てるってのは事実。基本、僕達は朝霧の先見を人々に売って金稼いで飯にありついてるから」
「やっぱりそうなんですか!? じゃあ若菜さんに知らせないと!」
 縁の話を持ち出した途端に声を弾ませる鈴音。その天真爛漫な様子に、対話していた露草の頬が微かに綻ぶ。彼の細やかな表情の変化に気付いた鈴音は自ら持ち上げた縁の話を打ち切り、露草に笑みかけた。
「昼間も思ったんですけど……露草さん、笑ってた方が絶対良いですよ。顔綺麗なんですから、勿体無いです」
「笑って、る? ……僕が?」
「ええ、笑ってます。まさかとは思いますけど、自覚無いんですか?」
「……無い。そうか、僕、笑ってるのか……」
 鈴音としては思いついたままに言った事であったのに、青年は何故か酷く感慨深げな面持ちをしている。また拙い事を言っちゃったかな、と身構えた鈴音の耳によく通る実時の声が響いたのはそれからすぐの事だった。
「鈴音、少し良いか?」
「あ……はい! 何ですか?」
「五日後の話なのだが……夕刻から白狼隊は山へ巡回に出ることにした。万一を想定して、廉次郎は屯所に残すがな。残りは私と由紀彦、惣助と舘羽、美景と鈴音、朝霧殿と露草殿に分け、それぞれ別の場所を巡回する事で事件の被害を最小限に抑えたいと思う」
「でもそれだと町の警備が手薄になっちゃいますよね?」
「その辺りは抜かり無い。一達が白狼隊の管轄区域も兼ねて警備をしてくれる事になったからな。今の我々としては月草を捕らえるのが最重要任務だ……朝霧殿が五日後は月草を捕縛する最後の好機だと言うのでな。少々手を掛けすぎるぐらいが、ちょうど良い塩梅になるだろう」
「そういう事なら町の方も安心ですね。その案に、私も賛成です」
「ならば良し。山までは距離がある……昼七つには、町を出なければならないだろう。準備だけは怠るな。それと……」
 順調な会話の流れを渋らせた実時に対し、鈴音は首を傾げた。実時は鈴音から目を逸らし、後を続ける。
「一から聞いたぞ。先程、目前で人を斬られたらしいな」
「あ……は、はい。でも大丈夫ですよ、衝撃を受けたのは確かですけど……仕方の無かった事だ、っていうのは解ってますから」
「嘘を吐くな。今のお前はいつもと違う。――瞳が、怯えている」
 きっぱりと実時に言い切られた鈴音は漸く、自分の身体が小刻みに震えている事に気が付いた。手は何時の間にか袴を固く握りしめている。自分ではちゃんと隠していたつもりだったんですけど、やっぱり隊長には敵わなかったですね、と俯く鈴音の細い肩を、実時の大きく温かい手が包み込んだ。
「そうやって無理に笑わん方が良い。死を直視した者は誰しも、恐怖と絶望を感じるものだ。――辛かったな」
 肩に置かれていた手が頭へと移動し、そのまま二、三回、小さい子をあやす様に軽く叩かれる。実時の言葉に涙腺が緩み、必死で留めていたはずの涙が一つ、袴に落ちた。
「私、何とか止めようとしたんです。ただ我武者羅に、手を伸ばして。でも、出来ませんでした。もっと早く行動してればこんな事にはならなかったはずなんです。……あの人はきっと、自分を見殺しにした私を赦してはくれないでしょう。私だって、自分が赦せない……!」
「鈴音……そうやって自分を責めるのは止せ。お前がそうとばかり決め付けてしまっては、亡くなられた御仁も浮かばれないだろう」
 止め処無く溢れる涙を袖で拭い、鈴音は面を上げた。少女が見据えた彼の顔には滅多に発露する事の無い、強い力を秘めた微笑が彩られている。
「先見ではあと二人、死を予言された者がいる。その者達を救う為にも我々は強く在らねばならない……が、強く在ると言う事は無理に自分を偽る事とは別物だ。解るな?」
「はい……解ります」
「自分を偽るくらいならば、泣きたいだけ泣いた方が良いだろう。決して一人で抱え込む事の無いようにな」
 そう言い残すと、実時は座敷の奥へ去っていった。一つ大きな深呼吸をした鈴音は一と露草の姿が無い事を気に留め、机に肘をついて瞑想に耽っている朝霧に問いかける。
「朝霧さん……一さんと露草さん、どうなさったかご存知ですか?」
「槙村様でしたら、随分前に此処を出られましたわ。露草は……つい先程まで此処に居たと思ったのですが。すみません、何処に行ったかまでは……」
「そうなんですか……分かりました。有難う御座います」
 女に頭を下げると、鈴音は屯所を後にした。辺りはすっかり橙に染め上げられ、傾く西日は鮮血のような赤を滾らせている。
 武家地へと足を向けた鈴音は、道の前方を歩く露草の姿を視界に入れた。恐らく彼も宿へと帰るのだろう。途中まで一緒に帰ろうか、と考えた鈴音は急いでその背を追走し、距離を粗方縮めてから、息を整えて彼の肩をつつく。
 それに反応した露草が、ゆっくりと此方を振り向いた――が、その表情を見た瞬間、鈴音は言葉を失った。心臓を強く鷲掴みにされたような気分だった。
 数刻前小さな、しかし確かな笑みをその顔に湛えていたとは思えないほどに、彼の顔つきは冷酷なもので、また嫌忌に満ち溢れていたのだ。殺気にも似た彼の気に触れて硬直している鈴音を嫌厭の視線で突き刺した露草は、押し殺したような低い声を空気に穿った。
「……嫌いだ、大嫌いだ。つるんでる奴らって本当、見てて吐き気がする。たかが人一人死んだだけで落ち込んで、仲間に傷を舐めてもらって仮初の癒しを得て。また傷ついたら互いに馴れ合って一時の安心を得て。結局死という事実は変えられないのに必死でそれを掻き消そうとする。そんな弱い奴の集まりに、僕が協力を請わなくちゃならないなんてね――胸焼けするような気分だよ」
「な……たかが人一人、って……そんな言い方無いでしょう!? あの人は親友に命を奪われたんですよ……その事があの人にとってどれだけ辛かったか、どれだけ怖かったか、考える事くらい容易いはずです! それに私だって……っ、私だって、あの人を助けたかった……!」
「でも結局、彼は死んだ。その事実に変わりは無いだろう? 彼のサダメは、変えようと思えば変えられたはずだ……お前が彼の‘代償’となれば良いだけの事だったんだから、ね。お前は本当に、彼を『助けたかった』の? ……僕にはそうは見えない。助けたいなら何故、自分をかなぐり捨ててでも彼のサダメを変えなかった? ――見殺しにした人の死を見つめようともしないで、ただ逃げて、仲間に縋って……それがお前の、‘人の死’との向き合い方だ。そうは、思わない?」
「貴方は……私に、何を伝えようとしてるんですか。そうやって人の命や死を侮辱して……貴方はそれでも、血の通った人間なんですか!?」
 頭に血が上り、脳が沸騰したように熱くなる。止めたはずの涙が、幾筋も頬を伝う。芯から沸き起こる激昂が少女の身体の全てを支配する。少女の口から少女のものでない他の誰かの言葉が矢継ぎ早に繰り出されていく。
 我を忘れて激しい憤りをぶつける少女を嘲るような冷視で一瞥した青年は、憫笑という名の、酷く美しく、冷血な笑みを零した。
「ああ、そうか……お前はこう慰められるのをお望みなのかな。……変える事の出来たサダメを変えようともしなかった、憐れでちっぽけな白狼の姫君――なんて、可哀相な人なんだ」

 ■

 その夜も、月は雲の衣をしっかりと身に纏っていた。長い瞑想を終えた朝霧は長い一息を吐き出すと、無言で佇立する実時に向かって開口する。
「――見えました。山の中でも町に近い方……特に中腹の辺りだと思います」
「そうか……では、五日後はその付近を中心に巡回するとしよう。すまないな、無理に事件の発生場所を先見させてしまって」
「これくらいの事、御安い御用ですわ。確かに精密な先見にはそれだけの時間と集中力が必要となりますけれど……これも全ては皆様が少しでも楽に任務を進める為。先見するより他に能力の無い私は、このような形でしか御手伝い出来ませんから」
「そう言ってもらえると、此方としても気が休まる。それにしても、もう夜になってしまったな……露草殿が居ない今、貴殿の一人歩きは危険だ。宿まで送ろう」
 そう言って戸口へと向かう実時を、朝霧は慌てて引き止める。
「私なら平気です。夜とは言ってもまだ宵の口……人通りも多いでしょうし、何も送って頂くほどの危険な時間帯では御座いませんわ」
「しかし……」
「私の目を心配して下さるのは、大変有難い事だと存じております。けれど本当に大丈夫ですから。盲目であっても日常生活で困る事など、ほんの僅かなものなのですよ」
 着物の裾についた畳の欠片を軽く払い落とし、それでは失礼致しますね、と一礼した朝霧は、実時が自分をやたらと眺め回している事に気が付いた。
「……私の顔に、何か付いておりますか?」
「いや、そういう訳ではないのだが……朝霧殿は先日、『私に見えない‘先’は存在しない』、と言っていたな。あれは真か?」
「ええ。見えやすい先、見えにくい先などといった性質はあれども、全く見えない先、というものは未だかつて一度も御座いませんよ」
「そうか。――ならば貴殿には、この一件がどう転ぶかも既に見えているのだろうな」
「そうですね、見えています。……と申し上げましたら、貴方様はどうお思いになるでしょうか」
「特に何も思わん。宿命がどうあろうと、我々は我々に出来る事を全うする……それで充分だと解しているのでな」
 細波のような笑いを立てる朝霧に対し端的に応答した実時は、暫し沈黙を据え置いた後、一つ一つを噛み締めるようにゆっくりとした調子で言葉を結う。
「……先に起こる事が何もかも分かっている人生は……楽しいか?」
 その言葉を受けた朝霧は瞳を弓状に細めると、またと無い程に婉美で、それでいてどこか悲哀の映える笑顔を揺蕩えた。
「いいえ、ちっとも。――私にとって先見は、ただの忌わしい呪縛でしかありませんもの」

 ■

 その日――先見の一つ目が成就し、露草が残虐な台詞を捨て吐いた日から四日が経過した。
 この四日間で起こった事件は盗みや酔漢の小競り合いなど些細なもののみで、江戸の町は比較的安穏とした空気が淀みなく流れているようだったが、鈴音の心はいささか晴々としなかった。河原の土手に憂苦の表情で腰掛けた鈴音は、本日何度目になるか分からない嘆息を吐く。
(『見殺しにした人の死を見つめようともしないで、ただ逃げて、仲間に縋って』、か。そんなつもりは全然無かったんだけど……私、逃げてるように見えたのかな)
 あの悪辣な言葉を受け流すほど自分が出来上がっていないのは確かな事であるし、それに反発した自分の了見が間違っているとは思えない。しかし、それでも。
(『変える事の出来たサダメを変えようともしなかった』……露草さんの言う事だって、全部が全部間違いなわけじゃない。確かに私はあの人を助けたいと口にするばかりで、結局何も出来なかった……やっぱり私は、弱いんだ)
 際限無く広がる陰鬱な迷宮に嫌気が差し、膝を抱えて顔を突っ伏した鈴音は不意に、自分の傍に影が落ちたのを察して面をのろのろと上げる。其処には頬を柔らかく形取る朝霧の姿が在った。
「こんにちは。御勤めはもう済まされたのですか?」
「いえ、今日は非番なんです。此処にはちょっと気晴らしに来てるだけで……」
「そうですか……その割には随分と落ち込んでいるように見えますけれど。――露草と何か、ありました?」
「……朝霧さんは、凄いなぁ。先だけじゃなくて、過去も見えるんですか?」
 何もかもを見透かしているような双眸と目を合わせないようにそっぽを向いた鈴音は、再三の溜め息を滲ませる。朝霧は細い笑い声を漏らすと、日の光に輝く川の水面に目を遣った。
「いいえ、過去見など出来ませんわ。四日前、宿に戻ったら露草が随分と不機嫌だったもので……貴女と何か言い争いでもしたのかな、と推測したまでです」
「ばっちり当たってます、やっぱり凄いですよ」
「まあまあ、そう投げ遣りになさらずに。鬱憤の捌け口に私を使って下さって、構わないんですのよ? 病は気から、とも申しますしね」
「……そう、それです。朝霧さんはこうやってお互いに助け合う事を‘傷の舐め合い’だとか、‘仮初の癒し’だとか……そういう風に捉えられますか?」
「? すみません、仰っている意味がいまいちよく分からないのですが……」
 疑問符を投げながら首を捻った朝霧に、鈴音は四日前の事の顛末を掻い摘んで伝えた。昼間に聞いた‘サダメを変える者’の事、露草の小さな笑顔の事、そしてあの、辛辣な言葉を一身に受けた事。全てを聞き及んだ朝霧は静謐な態度を崩さぬまま、眉尻を下げる。
「まあ……露草が、そんな事を……」
「はい。……初めて見た時から白狼隊――というか私を嫌ってるな、っていうのは何となく気付いていたんですけど。少しお話しするうちに、あの人の悪態は本当の悪態じゃなくて……一種の自己防衛、みたいな印象を受けたんです。ちょっとだけでしたけど笑ってるように見受けた事も何度かありましたし、頑張れば上手くやっていけるかな、って思った矢先に散々暴言吐かれちゃいました」
「そこまで露草を見抜かれているとは……驚きですね。――貴女の仰る通り、確かに露草は白狼隊と黒虎隊を嫌悪しています」
 やっぱりそうでしたか、と苦笑する鈴音を、朝霧は厳粛な面持ちで迎えた。
「どうか彼を怒らないでやって下さい……彼も理由無く貴方達を嫌っているわけではないのです。御存知の通り彼は日本中の国の奉行からその身を追われています。奉行の者は皆、集団で罪人を捕縛しに来るでしょう? 彼は今まで幾度と無く、その集団に打ち勝ってきました……そして嘆いていました、『集団で行動する奴らほど弱い人間はいない、一人でも生き抜ける者こそが強いんだ』と。貴女は違うと仰るかもしれませんが、数多の侍を一人で撃破してきた露草の意識には既に‘集団の侍’というのは‘弱いのに強がる者’だ、という式が根強く組み込まれてしまっているのです」
 そこまで言い切ると朝霧は憂げに目を伏せ、辛楚な声音で呟く。
「本当に哀れな子です、露草は。れっきとした人間であるのにその能力は妖魔をも凌ぎ、家では道具として扱われ人格を認められず、外に出ても‘代償’の六人を惨殺した事で疎まれる存在となり、頼みにしていた分身までもに裏切られて。――けれど彼は人を頼れないのです。なまじ力が強すぎる為に、他人とその苦しみを分かち合い、支え合って先に進むという器用な生き方が出来ない。どんなに茨に身を裂かれ血塗れになったとしても、降りかかる重責全てをその背に負って歯を食いしばる事が‘強さ’だと信じて疑う事が出来ない」
 鈴音は朝霧の言葉を黙聴するより他に無かった。何か言おうと思っても、言うべき言葉が見つからなかった。
 鈴音の脳裏に、露草の台詞が閃光となってよぎる。
『ふうん、意外にも早く折れるんだね……面白みの無い女だ』
『そうか、僕、笑ってるのか……』
『……嫌いだ、大嫌いだ。つるんでる奴らって本当、見てて吐き気がする』
『変える事の出来たサダメを変えようともしなかった、憐れでちっぽけな白狼の姫君――なんて、可哀相な人なんだ』
 彼は、孤独なのだ。棘々しい悪態を吐くのは、一人で何でも切り抜けなければならないという信念に加え、実際にそう出来るだけの力を持っているが故に彼の中で作り上げられた矜持を死守したかったからではないか。自分が笑っている事さえ気付けないほどに心が衰弱しているのは、‘能力者’としてではなく‘一人の人間’として生きた事が無かったからではないか。仲間に慰められた鈴音をああまで冷酷になじったのは、彼が人の死を直視した時にその辛苦をたった一人で超克しなければならなかったからではないか。
 ――本当に‘可哀相’でどこまでも寂しい人間なのは他ならぬ、彼だ。
「あ、そういえば……朝霧さんは、何故露草さんについて行く事を決めたんです? 露草さんは『自分が‘サダメを変えた者’だから珍しいんだろう』、っていうような言い方をしてましたけど」
「そうですね、それも理由の一つではありますわ。けれど一番の理由は……境遇が似ているから、でしょうね」
「境遇って……能力の事ですか?」
「ええ。私の出身が下級の武家である事は、もう申し上げましたね? ならば何故高位の武士である皆様とこうして対等に話しているのか、そして町人から‘姫’と称されているのか。――それは私の能力を見込んだ御偉い様が私を養女として家に迎え入れたからなのです」
 自分達を取り巻く重々しい空気を打破する為に質問の矛先を変えた鈴音は、予想外の回答に声を詰まらせた。朝霧は顔を浅瀬に向けたまま、唄うように過去を紐解く。
「私には生まれつき先見の能力が有ったので、幼少の頃から見えた事を口にしては父母を驚かせてばかりいました。今から思えばその時の先見は霧や霞で覆われたような、不透明なものであったのですけれど……五つの時に流行り病で両目の視力を失いまして。五感のうち一つが欠けると他の力が特化する、というのは真の事だったようで……盲目になってからはそれまでと比べ物にならないほどはっきりと、先が見えるようになりましたの」
「それでその評判を聞いたお偉方が貴女を養女に……という訳ですね」
「上臈の御方が下臈の娘を養子にするなど滅多に無い事だそうですが、私の場合は先見、という他の者に無い武器を備えておりましたから。落ちぶれた我が家にとってもこの養子縁組は願ってもない出世の好機でしたので、特に揉める事も無く私は今の家に引き取られたのです。……少し、露草と似ているでしょう?」
 朝霧の問いかけに、鈴音はこくんと頷く。家の再興の為に生まれつきの能力を利用された――力の姿形は違えども、結果を見れば同じ事だ。
「この話には、まだ続きがありまして。武家の娘は政の道具となるのが世の宿命――私もまた然り。私は十六で、義理の家よりもさらに高位の……先見の能力を欲しがっていた武家に嫁がされる事になったのですが、私はそれが嫌で嫌で堪りませんでした。見ず知らずの、さらに年老いた男の嫁になるなんて考えるだけでもぞっとしてしまって……貴女も武家の娘ならこの気持ちに御理解頂けるかもしれませんね。そういう訳で私は嘘の書置きを残して家を出たのです――‘私は私が入水する事を先見しました’、と」
「じゃあ、朝霧さんのご家族は……」
「その当時、私の先見は読んで字の如く百発百中でしたから……家の者は皆書置きを信じ、私はもう入水して死んだと考えている事でしょう。露草と同様家出した私ですが、彼のように家から追っ手が来た事などありませんし。それからは先見を人々に届けながら旅をしていたのですけれど、ふと立ち寄った国で初めて私の先見を露草に変えられまして……そこから先はもうお話しましたわね」
「月草を捕らえる為に二人で旅してきたんですよね。あの、こんな事を言うのは差し出がましいって解ってるんですけど……哀れだと思うなら、どうして朝霧さんは露草さんの支えになってあげないんですか? 二人とも人に無い力を持ってて、家出して旅をしてきた、ってところまで共通している事を考えたら……露草さんにとって朝霧さんは絶好の相談相手になり得ると思うんです」
 朝霧の長い語りを受けている最中に考えを束ねたらしい鈴音が問いを放つと、朝霧は力無く首を横に振る。
「それは出来ない相談ですわ。私達は飽く迄も自分の欲の為にお互いを利用しているに過ぎないのですから。事実、私は彼を‘一人の人間’として認めた事はありません――‘サダメを変えた者’として傍に置いておきたいだけです。彼もまた、私を‘先見の出来る者’としか見做していない――今まで一度たりとも、彼から‘一人の人間’としての扱いを受けた事など無いですから」
 台詞を言い進めると共に女はその見目良い顔を苦笑で染め、河原から腰を上げた。
「尤も、彼は私という人間を嫌っていますし、自分が人間である事さえ厭わしく思っていますからね。相談どころか……普通に会話する事もあまり無いんですのよ」
「そうなんですか……あ、もう一つだけ、質問いいですか?」
 先程よりも少しその息吹を強めた風を全身に受けながら、朝霧は真剣な面持ちの女武者に向かって肯定の意を示す緩い微笑みを呈した。
「朝霧さんは‘人の死’を先見する事について……どうお考えでしょうか」
「人の死、ですか。最初に死を先見した時は……そして先見した人が実際に亡くなっていくのを知った時は、本当に身を裂かれるような思いをしたものです。何日も眠れず、何も食せない日々が続きました。けれどそれを何十回も、何百回も繰り返しているうちに……何かが自分の中で変わっていったような感覚を覚えましたわ」
「死を見る事に慣れてしまった、という事ですか?」
「いいえ、慣れとは違います。今も勿論、人の死を先見するのが恐ろしい事であるのに変わりはありませんし、慣れようとは露ほども思いませんし。何と表現すればよいのでしょうか――そう、敢えて言うならば……諦観の念が心の大部分を占有するようになった、という感じです」
「諦観……諦めの気持ち、ですね」
 ‘諦め’という単語を口にした鈴音の眉根には、浅い溝が刻まれている。その固い雰囲気を察知したのか、朝霧は鈴音に背を向けながら静かに自身の声を風に委ねた。
「幾度も幾度も手を伸ばしたけれど、やはり死に逝く者に私の手は掠りもしなくて。――だから私はこんなにも‘サダメを変える者’に固執しているのかもしれませんね」
 そう言って河原を立ち去る朝霧の背には普段の自信と清雅さとがすっぽりと抜け落ちているかの如く、ただただ空虚だけが彩られていた。その姿を目にした鈴音は今まで二人を測ってきた自分の定規がいかに浅薄なものだったかに思い及び、悔悟の面持ちでそっと目を伏せる。
(そうか、そういう事だったんだ)
 ‘月草’という犯罪者の存在を創り出した責任と、サダメを捻じ曲げた為に散った侍の命の重みと、家から逃げ出してしまった自分の弱さを厳責する思いとを独りで抱え込む事で今にも潰れてしまいそうな自身を必死で奮え立たせている露草。
 先見で未来が全て分かるが故に、どう足掻いても成就する宿命を身を以て体験してきたが故に、自分ではサダメを変えられないと悟ったが故に自身の無力感を強く苛み続ける事で不条理な宿命に抗う気力すら起こせなくなってしまった朝霧。
 あの二人の思考や物言いがどこか退廃的で、儚みを含んでいるのは、‘能力者’としてしか物事を捉えられないから――‘一人の人間’の感情を以て物を見る事が出来ないからではないか。
(二人とも人間が持ち得ないような強い力を持ってるから……周囲の人も、自分自身もその力をどう扱えばいいのか分からないから、露草さんも朝霧さんも自分の能力に振り回されて、人間として生きる事が出来なくなってしまったんだ。――だけど、それは……)
 それは、哀しい事だ。
 仲間と助け合いながら、時にはぶつかり合いながら共に成長していく喜びを知らない露草は。
 助けられるかもしれない人を『宿命だから』と言って見捨て、傍観を決め込む朝霧は。
 二人は、この世界に何を見ているのだろう。
 ――そう問いかけてみるけれど、応えてくれるものは何も無い。
 抱えていた足を前方に解き、徐に天を仰いだ鈴音の瞳には、碧空に弧を描いて飛び去る小鳥の群れが鮮やかに映し出されていた。

 ■

 翌日、茜と紫の雲で飾られた太陽を山肌の近くに感じながら、廉次郎を除いた白狼隊の隊士と朝霧、露草は斜面を注意深く登っていた。
 先頭を務めていた実時は麓と頂上のほぼ真ん中辺りで歩みを止め、後方を歩む朝霧に呼びかける。
「朝霧殿、町に近い方で中腹……というのはこの辺りで良いのだろうか?」
「はい、おそらくは。これは先見でなく私の勘ですが、この近辺に何か嫌な気の流れを感じますわ」
「僕も……何となくですけど、負の力が蠢いているような、そんな感じがします」
 朝霧の勘に同意した美景の顔は、負の力に中てられたのか心持ち青白くなっている。実時は隊士と二人を集結させると、作戦を手短に伝達する。
「これからこの付近を巡回する事になるが……この先は日が落ちて、より一層視界が悪くなる。闇雲に探し回っていたのでは埒が明かぬし、何より私達にも危険が降りかかる恐れがあるだろう。――そこで、見回る区域を大まかに二分し、二組で行動しようと思う」
「一組二人だから、二組って言うと……四人で行動しろ、って事?」
「四人はちょっと多いんじゃねえか? 二人でも充分な気はするけどな」
 隊長の作戦に疑問符を返した由紀彦と異議を申し立てた惣助の双方が納得するように、朝霧は詳細を話し始めた。
「今回が月草と相見える最後の機会である事……そして露草に及ばないものの月草にも精神操作能力がある事を考えれば、油断は禁物でしょう。四人で一隊を組み二方向を探すというのには次のような利点が有るのです。一つ目は、どちらかが事件現場に遭遇した時、一組をその現場に残し、あとの一組でもう一方の隊を探す事が出来ます。此処は山中……現場から目を離さずに他方の隊を合流させるにはこの方法が一番効率が良いのですよ。そして二つ目……四人だと、視界をより明るく保つ事が出来ます」
「成程……二つの灯りより、四つの灯り。単純に、提灯の数の問題だね」
「そうですわ。私は元より盲目ですので然程昼と差はありませんけれども、皆様の目にはやはり明るさが必要でしょうから。それに、より遠くを見渡す為にはそれなりの数の提灯が揃わなければなりませんしね」
 舘羽の台詞に続けて理由を挙げた朝霧は、実時に向かって軽い会釈を投げる。実時は懐から短刀を取り出すと、それを鈴音に手渡しながら説明を引き継いだ。
「それでは組の方だが……私、由紀彦、惣助、舘羽は此処を境にして右側を見回る。美景、鈴音は朝霧殿と露草殿に同行して左側を巡回するように。鈴音にはその際、この小刀で木に印を付けておいて貰いたい」
「どちらかがもう一方を探す時の目印にする、って事ですね」
「そうだ。同じところを何度も回らない為の情報にもなるからな……頼んだぞ」
 鈴音がしっかりと首を縦に振ったのを見た実時は眼光に矢のような鋭さを湛えると、清閑な、それでいて剛強の篭る声音を発した。
「それでは各自、くれぐれも気を抜かずに任務に当たれ。――解散!」

 ■

 秋に作られた枯葉の敷物は冬を経るうちに随分と薄くなり、春の新芽がその合間から若緑を覗かせている。
 紫から紺へと衣を変えた雲の下で段々と悪くなっていく視覚を総動員しながら、鈴音はすぐ近くの幹に印を刻み込んでいた。しかめ面で樹木と格闘している鈴音の手元が、不意に光の温かさに包まれる。振り返ると、其処には提灯を掲げて微笑む美景の姿があった。
「鈴音殿、上手く印、付けられそうですか?」
「あ……美景さん! それが上手くいかないんですよ~。浅すぎると目立たないし、深すぎると木を傷つけちゃいますから……加減が難しくって」
「そうやって直角に当ててしまっては、なかなか傷は付きませんよ……ちょっと、貸して下さいね」
 鈴音から小刀を受け取った美景は刀身を斜めに傾けながら幹を巧みに彫りつけ、鞘に戻して鈴音へと返付した。自分よりも数段早い仕事ぶりに、鈴音は小刀を腰元に差し戻しながら感嘆の息を漏らす。
「美景さん、上手いんですね! ちょっと吃驚です」
「各地を旅している時に身につけた、言わば雑学の一種ですよ。それよりも急いで戻らないと……どうも露草殿、顔には出してませんけど気が立っているようですから、あまり待たせては悪いですし」
「そうですね……今日が月草を捕まえられる最後の日なんですもん、気が張ってしまうのも当然ですよね」
 談じながら二人が方向を変えた時、此処からそう遠くは無い場所で青年の怒声が起こり、刀の交わる音が木々の間を疾走した。下方から息を切らせて走り寄ってくる女に、鈴音は大声で問いかける。
「朝霧さん、何かあったんですか!?」
「ええ……月草本人が、私達の前に現れました。彼の挑発に逆上した露草が応戦を始めてしまって。……しかしこれは月草の、露草を抹殺しようとする策略……罠です。何はともあれ、片桐様方にお伝えしなくては……!」
「分かりました。では朝霧殿、貴女は僕と一緒に隊長達を呼びに参りましょう。鈴音殿は露草殿を見失わないように、急いで追って下さい」
 美景の指示に頷くや否や、鈴音は全速力で山を駆け下り始めた。足がもつれて転びそうになるのを必死で留めながら、二人の‘露草’から繰り出された刀のぶつかる金属音だけを頼りにただただ走り進む。
 坂の傾斜が極端に緩くなると共に、鈴音の眼には足場の良さそうな開けた山肌と露草の姿とが飛び込んできた。
「露草さん! 大丈夫ですか、月草は!?」
「ああ……お前か。ちょっと、拙い事になった」
 畳み掛けるように質問を口走る鈴音にちらりと視線を遣ると、露草は自身の前方を苦虫を噛み潰したような表情で睨んだ。状況を瞬時に理解した鈴音は露草と背中を合わせ、静かに刀を構えて開戦の準備を整える。
「前からも後ろからも刺客が……挟み撃ち、ですね」
「そう。逃げようったって前後は敵、右は崖、左は山の登り斜面……つまり、かなり追い詰められた状況になってる、って訳」
「これは……美景さんと朝霧さんが隊長達を連れてくるまで何が何でも生き延びなくちゃなりませんね。それにしても数が多い……何人いるんですか?」
「僕の前に九、お前の前に六、合わせて十五。……自分が不甲斐無いよ、挑発に乗って月草を追ってきたら当の本人は姿くらましてるし、おまけにこんな罠に掛かっちゃったし」
 露草が憎しみを込めて言葉を発する間にも、剣客達はじりじりと二人ににじり寄っている。とうとう一人が狂ったように叫呼ながら露草に向かって刀を振り上げた――が、転瞬、露草の白刃一閃によって胸元から血飛沫を上げ、地でのた打ち回る。
 刀に付着した血糊を服の袖で投げ遣りに拭った露草は、背合わせの少女に警告を打った。
「最初に断っとくけど、こいつら皆、もう人間じゃないから。――月草の精神操作で修正が効かないほどにイカれてる……人の皮を被った、化け物だ。‘戦るなら殺る’くらいの気でいかなきゃ……多分死ぬよ」
「…………分かり、ました」
「……怖い?」
 暫しの沈黙の後に発せられた鈴音の肯定の意志を試すかのように、露草はしっとりとした声音で問いを結う。鈴音は汗ばむ手で刀の柄を握り直すと、目前の敵に向かって構えを定めた。
「怖くない、って言ったら嘘になりますけど。でも、負ける気はしません……私も、白狼隊の端くれですから」
「……そう、それは頼もしいね。――なら、背は任せたよ」
 『背は任せた』――露草のこの言葉を合図に、二人は群を成して息巻く刺客達の中心へと飛び込んでいったのだった。
「それで……十五を相手にたった二人で戦ったと……そういう訳だな?」
 応援に駆けつけた実時は、眼前に累々として横たわる狂人達を目下に見遣ってから、盛大な溜め息を吐いた。
「全く……二人とも無事だったから良かったようなものの……これでもし何かあったらどうするつもりだったのだ!」
「はあ……す、すみません、つい夢中だったもので」
「まあ、良いんじゃない。しぶとくもこうして生きてるんだし、結局返り討ちには成功したんだし」
 珍しく声量を上げた実時に対し、鈴音と露草は縮こまって肩を竦める。反省の色が見えない二人に、由紀彦と惣助も非難の目を向けた。
「そういう問題じゃないって! ったく、二人とも無茶するなよな~」
「本当にな。こんなに傷作りやがって……この状態で十五人の精神を一度に破壊する月草なんかに攻撃されたら、お前ら共倒れになってたぞ」
「――そんな不意打ちみたいな攻撃なんかしないよ。だって僕が望んでいるのは露草との公明正大な戦いだけだもの……姑息な手は、使わないって決めてるんだ」
 軽快な調子の声が、隊士と女、青年を取り巻く。
 声の発生源を辿るように目を差し向けた一行は、すぐ近くの巨木に寄りかかって佇む露草の片割れ――月草を捉えた。瞬く間に表情をきつくする一行を目にした月草は、嘲笑いをけたけたと零す。
「やだなあ、そんな怖い顔しないでよ。僕は白狼の皆さんと争う気はさらさら無い……用があるのは其処の臆病者だけなんだから。それにしてもこいつら、全然役に立たなかったね……十五人もいるんだから誰か一人くらい、露草の手足を狩ってくれても良かったのにさ。ま、小手調べ程度には頑張ってくれたからそこまで無下にはしないけど」
「……随分と、饒舌だね。その余裕がいつまで続くか……確かめてみるかい?」
「じゃあ逆に聞くけどさ。白狼隊こそ、こんな所で油売ってていいのかな? これから人が二人死ぬっていうのに」
 刀を引き抜いた舘羽を始め、戦闘態勢を取った隊士達に向かって、月草はやる気の無い笑みを浮かべながら此処よりも少し下にある山道を顎でしゃくった。其処では山菜を摘みに来たのであろうか、大きな籠を背負った仲睦まじそうな夫婦と、小さな手に沢山の若草を握り締めている五、六歳くらいの子供が和気藹々と談笑している。
「月草、貴方、まさか……!」
「そう、その『まさか』だよ。あの男の精神は既に僕のもの……僕がこんな風に力を込めれば――ほら、ね?」
 激昂の意を戦慄かせた美景の前で、月草は手の平を軽く握り、拳の形にする。その拳を中心に、辺りの負の気が轟々として集まり始めた。魔の気が月草の拳に集結するにつれ、笑顔であった男の顔が次第に歪められていく。夫の急変に驚いたのか、妻である女は夫の顔を心配そうに覗き込んでいるようだった。
「――急ぐぞ。まだ、間に合うはずだ!」
 そう声を上げた実時に続き、白狼の隊士五人は下の山道へと駆け下りていった。
 残された露草と朝霧が自分に向かって視線を放っている事に気付いた月草は、巨木の枝へと飛び移る。
「待って、月草。――三年ぶりの再会なんだ……逃げるなんて事、しないよね?」
「君じゃないんだからそんな腰抜けな事しないよ。でも……もうちょっと、待っててくれる? 僕、白狼隊の無駄な足掻きを見届けたいんだよね……戦いはそれからでも、遅くないでしょ?」
 幼子のような邪の無い笑い声を立てた月草は、眼前で殺気を立てている露草を一瞥する事も無く、五日前と同じように大気の中へと姿を紛らわせていった。朝霧は何時に無い冷厳な面持ちで、舌打ちを零す露草の肩にそっと手を置きながら、諫めるような言の葉を呈す。
「月草がああ言っている以上、今此処で彼を探すのは得策じゃないわ。……私達も、皆様を追いましょう」
「……解った。行こう」
 互いに頷き合うと、二人は失神している狂人達の転がる山肌を小走りで後にしたのであった。

 ■

 半ば転がり落ちるような勢いで一本下の山道に到着した白狼隊の耳に、頭を抱えて呻く男を心配した女の悲痛な叫び声が突き刺さってくる。
「あなた、どうしたんです!? 具合が悪いなら、早く薬師様に……歩けそうですか!?」
 何も事情を知らない女は、夫が何かの病によって苦しめられているものと考えているらしい。背負っていた籠を地に下ろし、男の背を擦ったり励ましの言葉を口にしている。仲間より一足早く現場に降り立った鈴音は、苦渋に満ちた表情の男の手にしっかりと握られている――月の光でその刃を煌かせている鎌に気が付き、女に向かって絶呼した。
「お願い……逃げて下さい! その人は、貴女の知ってる旦那様じゃありません!!」
 鈴音の声が届いたのか、女ははっとした様子で夫から飛び退こうとする。――が、次の瞬間。
 それよりも一歩早く踏み込んだ男に狩り取られた女の首が、昇り始めた満月の下で舞った。
 その首は熟れすぎた果実のような鮮紅の血を引いて転がり、彼女の子供の足元で漸くその動きを止める。
「……酷えな、これ……精神操作ってのは、ここまで人を廃人にしちまうもんなのか……!」
「月草……なんて事を……!」
 やり場の無い怒りを身体中に滾らせた惣助と美景が歯軋りと共に言葉を震わせた。他の隊士達も二人同様に息を呑み、何処からともなく迫り来る悪寒に打ち勝とうと勇み立っている。
 山頂から吹き降りる風に晒されて立ち尽くす鈴音の意識は一瞬にして、五日前の露草とのやり取りと、昨日の朝霧の台詞とに飛んだ。
『助けたいなら何故、自分をかなぐり捨ててでも彼のサダメを変えなかった? ――見殺しにした人の死を見つめようともしないで、ただ逃げて、仲間に縋って……それがお前の、‘人の死’との向き合い方だ。そうは、思わない?』
『ああ、そうか……お前はこう慰められるのをお望みなのかな。……変える事の出来たサダメを変えようともしなかった、憐れでちっぽけな白狼の姫君――なんて、可哀相な人なんだ』
『――そう、敢えて言うならば……諦観の念が心の大部分を占有するようになった、という感じです』
『幾度も幾度も手を伸ばしたけれど、やはり死にゆく者に私の手は掠りもしなくて。――だから私はこんなにも‘サダメを変える者’に固執しているのかもしれませんね』
(もう、こんなのは嫌だ)
 少女の瞳に、猛火が宿る。
(五日前のように、人を見殺しにするなんてもう嫌だ。死んでいく人に手が届かないから諦める、なんて絶対に嫌だ)
 血を渇望する獣と化した男の目はゆっくりと、惨烈な現実を把握しきれていない子供を捉える。
(サダメは、変えられる。――変えてみせる!)
 足を竦ませている幼子に向かって鎌を振り上げた男の腕を狙い、鈴音は先程実時から手渡された小刀を無我夢中で投げた。肩を勢いよく掠めた小刀に男が気を取られている寸秒の間に、身体を震恐させる子供を抱え上げて右方にそびえる崖へと立つ。仲間達から放たれる必死な制止の言葉も、少女の耳には届いていなかった。
(ちょっと高さがあるけど……でも大丈夫、平気。前に惣助さんと飛び降りた崖の高さに比べたら、こんなの全然怖くない――この子の命を守る為には、こうするしかない!)
 自分を奮い立たせて思いっきり息を吸い込むと、鈴音は軽く足元の地を蹴る。彼女と幼子の身体は重力に逆らう事無く、崖下へと急降下していった。
 慌ててその姿を追った由紀彦は、崖から身を乗り出して呼号を響かせる。
「鈴音! 鈴音ぇー! ……駄目だ、声届かないし、下も真っ暗で全然見えない」
「そうか……美景、山を下りて鈴音の様子を見てきてくれ。此処は私達で何とかする」
「はい、分かりました! 隊長達も、お気をつけて!」
 実時の指示を受けた美景は踵を返し、下りの山道へと走り去っていった。美景の姿が完全に暗闇と同化したのを確かめてから、実時は目前で怒り狂う男を見据えて残った隊士三人に小声で意を伝える。
「彼を捕縛する――が、精神があれ程まで蝕まれている以上、傷をつけずに昏倒させるのはまず不可能だろう。私が囮になる……奴が私の方に意識を集中した隙を使い、大腿の筋を浅く斬って動きを封じろ。但し決して深い傷を負わせる事の無いように」
 隊士達が目を配り合ったのを合図とし、実時は男の前へと躍り出た。殺傷衝動に駆られている男は鎌を滅茶苦茶に振り回し、野獣のような吼え声を轟かせる。実時はその一閃一閃を確実に見切り、刀で跳ね返すか身を躱すかを繰り返していたが、小さな間合いの綻びを掴まれた一瞬のうちに鎌で脇腹を微かに抉られた。
 斬られた脇腹を押さえながら後方へと飛んだ実時に覆いかぶさろうとした男は突然大腿に走った激痛に顔を歪ませ、数秒の後に地へと倒れこむ。その後ろには惣助、舘羽、由紀彦が構えを取ったまま佇立していた。隊士達は暫くその構えを崩さなかったが、男が動けなくなった事を悟ると各々に刀を鞘に戻し始める。舘羽は倒れた男越しに、実時へと声をかけた。
「一応成功……かな。隊長殿、怪我は?」
「少し、脇腹をやられた。……深くはない、直に治るだろう」
「お前が傷をつけられるなんて珍しいな。ほら、手当てするから腹見せろ」
 由紀彦と舘羽が男の腕を縛り上げている横で、惣助は懐から応急処置の道具一式を取り出すと慣れたような手つきで薬を塗り、包帯を大雑把に巻いていく。処置を終えた実時が着物をしっかりと着直した時、後方の木々から女と青年が姿を現した。
「お見事でしたわね。私達が出てはかえって邪魔になるだけだと思いまして此処で控えておりましたが……皆様方の剣の筋が良いのは遠目で見ても分かりましたもの」
「褒め言葉として受け取っておこう。――月草は、どうした?」
「皆様が去られた後、『白狼隊の無駄な足掻きを見届けたい、戦いはそれからでも遅くないから』と言って姿を消しましたわ。……それにしても」
 実時へ返答する言葉を途中でぷつりと切った朝霧は、独り言のような声量で、誰に問うているのか分からないような質問を口ずさむ。
「先見では、あの子供は死ぬはずだった。でも鈴音様が抱えて飛び降りたから、どうなったか分からない……あの子は、死んだのでしょうか」
「死ぬ訳がないよ。鈴音殿が身体を張って守っているんだし、この高さなら落ちても命に別状は無いだろうし。……鈴音殿も子供も、二人とも無事に違いない」
「そうだよ! 美景もすぐ行ってくれたし、大丈夫に決まってるって! ……へへっ、先見が成就しなくて良かったな」
 自信に溢れた舘羽と勝気に笑う由紀彦の物言いを受けた朝霧は、盲目の双眸をゆったりと閉じた。
「そう、ですか。――貴方達白狼隊も、‘サダメを変える者’だったのですね……」
「お前の先見は確かによく当たるが……俺達のように先見に盾突く者がいる以上、完全に成就する事なんか無えからな。ま、先見先見で生きてるお前にとっちゃ良い経験になっただろ」
 冗談めかした台詞を放った惣助も顔面に笑みを彩っている。それぞれが束の間の穏やかな空気を満喫している中、一人だけ浮かない顔で辺りの様子を伺っている者がいた。その様子に気を留めた実時も、立ち上がって左右に視線を巡らす。
「露草殿、どうした? 何か……」
「しっ……ちょっと、黙って。――月草が、来る」
 台詞を発しかけた実時を制して露草は前方へと進む。数歩歩いたところで立ち止まると、青年は腰の左に挿している自身の刀を鞘から滑り出させた。
「月草? ……此処にいる侍達の目は誤魔化せても、生みの親たる僕の目には効かないよ……お前が言ったんだろう、『今度はちゃんと僕の前に姿を見せて』、『どちらが‘露草’なのかそろそろ決着をつける頃合なんだ』と。――僕はこうして、決着をつけに来た」
 強い口調で言い放った露草に導き出されるようにして、月草はその姿を闇から現す。――転瞬、瓜二つの容貌を持つ者達の刀が交わり、刃のしなり合う金属音が辺りにこだました。互いが互いの刀を弾き合う事で広い間合いが出来上がった為、二人は構えを定めながら相手の出方を探り合っている。長きに渡る睨み合いの沈黙を裂いたのは、露草だった。
「‘寂助’を返して、月草。その刀は、お前が僕の代わりとなる事を前提として託したものだ……こうして無関係の人々を死に追いやっていく為に授けたものじゃない」
「代わり? ……ああ、あの家の事か。本当に嫌な所だったよ、あの家。口を開けば誰某を操作しろ、命令に従え、挙句の果てには侮蔑の罵り。君が家を出たくなる気持ちも凄くよく分かる……だからこそ、僕もこうして家を出た。僕が僕として生きる為に、ね」
「僕を殺せば、その願いは満たされるの?」
「そうだよ。君が世にいる以上、僕は‘露草’であって‘露草’じゃない存在なんだ。‘露草’として生きるように創られたのに本当の‘露草’じゃないから、結局自分が何者なのか分からなくなる。――君を殺せば、君という存在が無くなってしまえば、僕は本当の意味で‘露草’になれるんだ……言ってる事、解ってくれるよね?」
 月草の淡々とした、それでいて物悲しさを孕んだ台詞を、隊士達は息を詰めて聞き入った。応答しない露草を突き動かすようにして、月草の語りは尚も繋げられていく。
「家の奴らの口振りから察するに、君、家の命令に……誰某を操作しろ、っていう命令にずっと背いていたんだろう? だから僕はこうやって、見本を見せてあげてきたんだよ。心を握り潰して人に絶望を与える事こそが‘露草’の存在意義なんだって事、君も気付いているんだろ? 精神操作の能力を持ってるから、今まで君は存在する事を許されてきたんだ。精神操作の力を発揮しない‘露草’は、この世から求められてない……そうだろう?」
「じゃ……じゃあお前……被害者にとって親しい人ばっかりを狙って操作してたのは……」
 思わず口を挟み入れた由紀彦に向かって、月草はからからと乾いた笑い声を立てた。
「最も親しい人から命を狙われたり、盗みを働かれたりしたら……そうじゃない人にやられるよりもずっとずっと、傷つくよね? 絶望するよね? 立ち直れなくなるくらいに心が引き裂かれるよね? ……だからだよ。僕は人の苦しむ様を見るのが楽しくて仕方ないんだ」
 魔に魅入られた狂者の言い草によって、隊士達の全身は怒気に支配された。憤慨の声を上げかけた惣助を遮るようにして、露草の、心底から湧き上がる憂憤の台詞が木々の間を縫う。
「ごめん、月草……お前をそういう風に創ってしまったのは僕だから。僕は僕が大嫌いだったから、この能力が大嫌いだったから、分身にはそんな思いをさせないように僕とは正反対の……よく笑ってよく喋って、この能力を好む性格を持った奴にしたい、って願ってしまったんだ……まさか、こんな事になるとは思ってもみなくて。――だから、お前は悪くないんだ、悪いのは全て僕なんだ。本当に、ごめん。……だけど」
 言葉を切った露草の端整な顔には、心火が轟音を立てて燃えていた。周りの樹木は露草の人並みならぬ気に反応し、ざわめきを零している。
「だけど……、ううん、だからこそ、此処でお別れだ、月草。僕はもう、逃げはしない……お前は安心して、僕の中に還ればいい」
「冗談は止しなよ、露草。身代わりに能力やら家の事やら全部押し付けといて、自分は楽する事しか考えてない……そんな弱虫に、僕が負けるわけないじゃない。それに考えてもみなよ? 君はここ数年ずっと能力を使ってない……でも僕はこの世に生を受けてから五年間、こうして能力を行使してきた。錆付いた君と磨かれた僕との力の差は、火を見るより明らか……僕の操作に、君の精神は耐えられるかな?」
「井の中の蛙が大海を知らない、ってのは事実みたいだね……。如何にお前の力が強かろうと、所詮は僕の複写、紛い物でしかない。――本物の‘精神操作’を、三年ぶりの僕の本気を、その身に刻んであげるよ」
 台詞を捨て置くと、露草は長い睫毛を携えた瞼をそっと下ろす。そしてゆっくりと開かれた彼の瞳には、人間のものではない別の‘何か’が渦巻いていた。彼の足元を中心として鋭い風が巻き起こり、その身体には肉眼で見えるほどまでに凝縮された妖しの気がどす黒い霞となって纏わり付いている。
 身を突き破るような負の気を前にただただ圧倒されている隊士達に向けて、朝霧は警鐘を打った。
「皆様、もっと後ろへ退いて下さい。片桐様、御怪我は痛みますか? 動けそうでなければ御手伝い致しますが」
「いや、平気だ。しかし、あれは一体……」
「あれが露草の、本気です……かく言う私もここまで凄まじい彼を見るのは初めてなのですが。とにかく退却しましょう――此処に居ては、露草の妖力の波動に精神を喰われてしまいますから」
 朝霧に促され、隊士達四名は露草から距離を取って成り行きを黙視した。その間にも露草の周りには夜よりももっと深く、もっと大きな漆黒の怪物が形を成し始めている。
 予想だにしない‘本物’の威力を目の当たりにし、月草も慌てて自身の力を最大限まで引き上げて負の結晶を練り上げようとした。しかしそれもすぐに露草の纏う禍々しい衣へと吸収され、燃え盛る彼の気の中で灰燼と化す。
 力を結う事の出来ない月草は歯をぎりぎりと鳴らしながら、何時の間にか額に発露した、緩やかな筋を引いて滴り落ちていく冷や汗を乱暴に拭い取った。
「露草、君は……これだけの能力を持ってて、何故、それを使わない? 僕には、解らないよ……」
「――もう一度言う。‘寂助’を返して、月草。お前の役目は、もう終わったんだ」
「……嫌だね。この刀は‘露草’でありながら‘露草’でない、中途半端な存在の僕を‘僕’として認めてくれる、唯一のものなんだ……そう易々と、返せない……!」
「そう。……こんな形で力を使う事になるとは夢にも思わなかったけど……‘主’である僕の命令が聞けないなら、致し方ないね。……今まで有難う、そしてごめん。お前を創ってしまったのは決して許されない事だけど、それでも僕は、お前と会えて良かったと思ってる。それじゃ――さよなら、月草」
 『さよなら』、と別離の台詞を口にした露草の顔は、宿敵を眼前にしている者とは思えぬほどに、憐れみと慈しみとに満ち溢れている。慈悲の微笑みを揺蕩えたまま、遠方で震え立つ月草に向かって手をかざすと、露草は呪言を小さく、しかしはっきりとした声で唱え始めた。
「我が血に息吹く混沌と絶望を司る魔魅。破滅の力よ――かの者の理を終焉へと導け!」
 宿り主の言葉に引き寄せられるように、露草を取り巻いていた邪の妖気が月草へと絡みつき始め、彼の精神を侵食し始める。その光景は見る者全てに寒気を催させるほど酷悪であり、まさに惨憺たるものだ。
 妖怪の如く蠢き続けていた暗雲が漸く晴れた時、其処には先程と同じように直立している月草の姿が在った。が、数秒の後、しっかりと握り締められていた‘寂助’が派手な音を立てて彼の手から滑り、それに続くようにして彼も地へと崩れ落ちる。
 露草は落とされた刀を右の腰元にしっかりと挿すと、瞳に空ろな光を灯す月草の顎に手を掛けた。そのまま月草の顔を自分の方へと引き上げると、残酷なまでに優しく嗤う。
「月草? 聞こえる? ――僕に忠誠を、誓って」
「…………」
「‘主’の、命令だよ。――誓って?」
 長い永い沈黙を経た後に、完全な操り人形となった月草の唇からは、露草に忠義を尽くす‘あの’囁きが零れ落ちた。
「……露草の御心のままに、我は動くのみ……」

 ■

 急いで坂道を下った美景は提灯を高く掲げながら左右に目を凝らしていた。鈴音と子供が落下した位置を大まかに見定め、その直下を中心に捜索を続けていたのだ。
 生い茂る雑草を踏み分けて前へ前へと進んでいた美景は不意に、提灯の光で朧気に浮かび上がった少女と幼子を視覚に収める。それが鈴音とあの子供だと認識した美景は急いでその傍に走り寄り、大声を投げた。
「鈴音殿……鈴音殿! しっかりして下さい、目を開けて下さい!」
 肩を強く叩かれた鈴音は、鉛のように重たい瞼をやっとの事で抉じ開けた。その瞳孔に、必死に自分を揺する美景の姿が映る。
「あれ……美景さん……? 私、……い、痛たた……!」
「駄目ですよ、いきなり動いては! 今は安静にしてて下さい……あんな崖から飛び降りたんですから痛いのは当たり前です。全くもう、ひやひやさせないで下さいよ……」
「そ、そうですよね。ごめんなさい……自分でもちょっと、やり過ぎたと思ってます」
 咎めるような目つきの美景に対し、鈴音は頭を垂れてうなだれた。子供を救う為とは言え、かなりの無茶をした事は事実だ。帰ったらきっと隊長や仲間達からの叱責が飛んでくるだろう。
 美景は溜め息を一つ落とすと、子供をしっかりと抱え持つ鈴音の肩を支えながら苦笑を浮かべた。
「まあ、こうして無事でしたから僕はこの際何も言いませんけど……これからはもっと、ご自愛して下さいね。とにかく鈴音殿に何事も無くて良かったです」
「肝に銘じておきます……すみません、心配かけて。――そうだ、この子は……」
「あ……鈴音殿は酷い打ち身ですからそのまま動かずに。僕が診ます」
 鈴音の腕から子供を抱き取ると、美景はその額に手を当てて熱を測り、袖を捲って傷があるかどうかを確かめる。‘死’を先見されていた子供の様子を不安げに見守る鈴音に向かって、幼子の心音を聞き取り終えた美景は晴れやかな笑顔を見せた。
「多少手足に痣ができてますけど、大したものではないと思います。心臓の音もしっかりしていますから……大丈夫ですよ。この子は、生きてます」
「そうですか……良かった、良かったあ! この子が無事で、凄く嬉しいです」
「ええ、本当に。この子がこうして生きていられたのは全て鈴音殿のお蔭ですよ……お手柄でしたね」
 二人の和悦の声が耳に入ったのか、子供は美景の腕中で少し身じろぎをすると、ゆっくりと目を開く。その様子に気付いた鈴音は真っ先に子供へ話しかけた。
「あ、大丈夫? えっと……お名前、言える?」
「……うん。ぼく、隆春」
「隆春くん、ね。どこか痛いところ、あるかな?」
「無いよ! ぼく、いっつも元気だもん。病気だって、今まで一度もかかった事無いんだ」
 無邪気な幼子の笑みを前に、鈴音と美景の表情もふっと和らいだ。隆春と名乗った幼子は目前に座する傷だらけの少女と自分を抱える少年を交互に見ると、顔をきらきらと輝かせる。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん……もしかして、はくろーたいの人?」
「え……ええ、そうですが。よく知っているんですね」
「もちろん! ぼく達の間ではすっごく有名なんだよ、はくろーたいとこっこたい。カッコいいし、強いし、優しいから。父上と母上もはくろーたいとこっこたいを頼りにしてる、って言ってたし……」
 美景に返す言葉に‘父母’を出した隆春は、語尾を下げて俯いた。そして徐に美景の着物を強く掴み、その胸に顔を埋める。子供の変化を見た美景は慌てて子供の背を軽く撫でた。
「どうしたんですか? やっぱりどこか痛いですか?」
「……ううん、痛くないけど……怖いの。さっきね、ぼく、嫌な夢を見たんだ」
「嫌な夢、ですか」
「うん。……父上がね、化け物みたいに怒っちゃって……それで、母上を死なせちゃう夢」
 隆春の言葉に、二人は身を硬くした。――この子供は、今さっき起きた現実を、夢と思い込んでいるのだ。
「父上、いつも優しいんだよ。怒っても、最後には必ず笑ってぼくの頭をくしゃくしゃしてくれるんだ。なのにね、夢の中の父上はずっと怒ったまんまなの……。それでね、それでね、死んじゃった母上の顔がぼくの足にぶつかって止まったの。すごく、怖い夢だったの」
「そう……その夢がどんな風に終わったか、隆春くんは覚えてる?」
 躊躇いがちに質問を出した鈴音を前に、隆春は顎に手を当てる仕草をして考え込んでいたが、やがて首を左右に振る。
「あんまり、覚えてないかも。なんかね、ふわ~って感じがして、そのまま」
 ‘ふわっとした感じ’とは先程の、鈴音と飛び降りた時の事を指しているのか。
 いたたまれない様子で顔を見合わせる二人に向かって、隆春は尚も話を繋げた。
「怖い夢だったけど……でもぼく、父上がそんな事するわけないって分かってるから、今はもう平気。聞いて、お兄ちゃん、お姉ちゃん。母上がね、今日はぼくの誕生日のお祝いの為にとびきりのご馳走を作ってくれるって言ってたの。だからこうやって、みんなでご飯の材料になるお野菜を探してたんだ――ほら、見て!」
 そう言って広げられた小さな紅葉手には、しっかり握られていた所為でぐしゃぐしゃになってしまった春の若草が緑を煌かせている。
 屈託の無い笑顔で得意げに若草を見せる隆春から目を逸らし、鈴音は静かに涙を零した。
 もう、彼の父親は人の精神を持っていないというのに。
 もう、彼の母親は首を斬られて死んでいるというのに。
 隆春にその現実を突きつけるのが酷な事であるのは確かだ。けれどもういない父母の幻影を追い求める彼の姿はあまりにも純粋で、あまりにも綺麗で、あまりにも無惨で。
「……そういえばぼく、さっきまで父上と母上と一緒にいたのにな……どこではぐれちゃったんだろ。お兄ちゃん、お姉ちゃん、父上と母上のいるところ、知ってる?」
 はたと思いついたように無垢な質問を投じた幼子の瞳に映ったのは、肩を震わせて泣く少女と、沈痛な面持ちで目を伏せる少年の姿だけであった。

 ■

「い、痛い痛い、痛いです! うぅ……もっと優しく手当て出来ないんですか、惣助さん!」
「文句言うな! 元はと言えば誰が悪いんだ、あぁ!?」
「ま……まあまあ、鈴音殿も惣助殿も落ち着いて下さい。もうこんな時分ですし、近所迷惑になりますよ」
 大声を出して揉める女隊士と古株の隊士を宥めるように、廉次郎は二人の間に割って入った。しかし二人は野生本能を剥き出しにしたまま、廉次郎を挟んで睨み合いを続けている。その様子を至極面白げに眺め回しているのは舘羽と由紀彦だ。
「いやはや、見ていて飽きないね、鈴音殿と惣助殿は」
「同意しちゃ駄目だとは思うけど……確かに飽きないかも。鈴音も惣助兄ぃも気ぃ強いからな~、ぶつかるといっつも平行線になるんだもん。あ、実時兄ぃ! 怪我、どう?」
 由紀彦は座敷の隅で美景の本格的な手当てを受けている実時に向かって声をかけた。実時は身体の方向を変えず、首だけを由紀彦へと差し向ける。
「ああ……元々そんなに酷い傷ではなかったからな。今後数日は様子を見る為にも激しい動きを控える必要があるが、それ以外は何ともないぞ」
「隊長の瞬発力の高さがここまで傷を浅くしたのでしょうね。当たり所が悪ければいくら隊長とは言えども危なかったでしょうから」
 そう言いながら薬や包帯を棚に戻し終えた美景が座するのを確認した廉次郎は、和順な面持ちで事の成り行きを問うた。
「皆さん、今夜は本当にお疲れ様でした。月草の一件は、纏まりを得ましたか?」
「何とかやっと、と言ったところか。私も傷を負ったし……鈴音に至っては全身打ち身で帰還だからな」
 実時の厳しい視線に射抜かれ、鈴音は包帯だらけの身を縮こまらせた。その様子に、廉次郎も苦笑いを浮かべる。
「まあ、万事が上手く運べばこの上なく良い事であるのは確かですが……そうは中々いきませんからね。それで、どうだったのでしょうか?」
「えーっとね、最初は八人を二組に分けて――あ、二組って言うのは実時兄ぃ、惣助兄ぃ、舘羽兄ぃと俺で一組、美景、鈴音、朝霧、露草で一組だったんだけど――それで山の右と左を巡回しようって事になって……。その後、数刻くらい見回ってたら美景と朝霧が走ってきて『月草が現れた』って言うもんだから、慌てて美景達と合流したんだ。それで山の台地っぽいところに行ったら、鈴音と露草が十五人いた刺客をこてんぱんにしてたんだよね」
「刺客十五人を二人で……鈴音殿、災難でしたね。その者達は月草の関係者だったのですか?」
 由紀彦の説明を聞いた廉次郎は鈴音へと問いかけた。鈴音はそれに首を縦に振って答える。
「露草さんが言うには、『修正が効かないほどに月草の精神操作を受けている』との事でした。私は精神操作の事は分かりませんでしたけど、とにかくあの人達の目が尋常じゃなかったので応戦したんです。私は六人と戦って、一応皆気絶させました。露草さんは九人と戦って……多分、相手にした者は全員皆殺しにしていたと思います」
「それで私達が駆けつけた後、それまで姿を消していた月草が現れたんだ。月草と戦おうとした私達を遮るようにして、彼は下の山道にいた男の精神操作を始めた……そうだったね、惣助殿」
「ああ。先見じゃ二人亡くなるって話だったからな、俺らは急いでそれを阻止しに行ったんだ。だが女の方は、首を斬られて……俺らが現場に着いた時には、もう死んでた」
「そうでしたか……ご冥福をお祈りしなければなりませんね。それで、もう一方の子供の方は鈴音殿が抱えて飛び降りる事で助けた、と……そういう事で宜しいですか?」
 鈴音の後を継いだ舘羽と惣助の発言を噛み締めた廉次郎は、事を束ねて美景へ尋ねる。
「はい。鈴音殿のやり方はかなり強引でしたけど、結果として鈴音殿も子供も大事ありませんでしたから……こうやって先見を良い方向に覆せた事は喜ぶべきところだと思います。それと、子供の方は一応彼の親族の所で預かってもらう事になりました。……隊長達はその後、どうなされたんですか? 僕、すぐに崖下に向かったので上で何が起こっていたのか知らないんですが」
「あ……私も飛び降りた後の事はさっぱり分からないので……出来ればお話、聞きたいです」
 質問者の廉次郎に加わった美景、鈴音の要求に対し、黙座していた実時は言葉を無理矢理引き抜くようにして開口した。
「精神操作された男は私達が捕縛した。作戦の成功率を上げる為に私は囮となったのだが……その際、脇腹を少々抉られてな。まあ、此方も結果として上手くいった以上、あれこれ言う必要は無いだろう。……そしてその後、再び月草が姿を現したのだが……はっきり言って、そこから先は私達が介入出来るような話ではなかった」
「それには同感だね……結局私達は月草と一回も刀を交えていないし、交えられるような空気でもなかったから」
「……と、言いますと?」
「何て言やぁいいのか……とにかく、‘凄まじい’の一言に尽きるな。月草の精神操作も恐ろしいもんだとは思ったが、露草のは次元の違う強さだった。あんな邪気を行使出来る人間、初めて見たぜ」
 実時に順じた舘羽に問いかける廉次郎に向かって答えを返したのは惣助だった。傍に座する由紀彦も眉を寄せる。
「俺ら、朝霧に言われて大分後ろで様子を見てたんだけど、それでも身震いがしたもん。あれじゃ家で化け物扱いされてる、ってのも納得できるよ」
「え……と、それじゃあ、月草は……」
「――ああ。露草に精神を操作されて、廃人と化した。例の言葉も言っていたぞ、『露草の御心のままに我は動くのみ』、とな」
 美景が発しかけた質問に端的に応答した実時は、腕を組んだまま黙思した。それに釣られるようにして屯所も静けさを取り戻す。事の経緯を聞き終えた廉次郎は、自身の声を屯所の冷たい空気に添えた。
「今回の任務は‘月草を捕縛する手伝い’――それを踏まえれば、月草の一件はこれで収束を得た、という事になるのですね。露草殿の力など、どうにも煮え切らない節はありますが……皆さんもお疲れでしょうから、今日のところは深く考えるのは止した方が良いでしょう。では私は今から茶を出してきますので、一服したらお開きとしましょうか」
「あ、いいですね。それなら僕も手伝いますよ」
 廉次郎と、手伝いを申し出た美景は襖の奥へと引っ込んでいった。由紀彦は一息を吐くと、大きく伸びをする。
「あーあ、なんか長い一日だったな~。お茶飲んだら早く帰って早く寝ようっと」
「由紀彦はいいよな、帰った後にする事が寝る事しかなくて。俺には洗濯の残りと明日の朝餉の下ごしらえと動物の餌やりが待ってるってのに」
「そうか……大変なのだな、惣助は」
 陰鬱に愚痴を零す惣助に向かって、実時は如何にも他人事な言い回しを投げた。すました表情の実時を見て腹が煮えくり返っているのか、惣助はこめかみに青筋を立てている。
 片桐家の三人による漫才のようなやり取りを横目で流しながら無言で目を伏せた舘羽に気を留めた鈴音は、驚かせないようにそっと声をかけた。
「舘羽さん、何かありましたか?」
「ん……ああ、鈴音殿。別にどうもしないけど……どうしてだい?」
「え、いや、舘羽さんがずっと黙ってるなんて珍しいなー、と思いまして」
「君は遠慮を知らないというか……いや、正直で良いけどね。――ちょっと、月草の事で」
「月草ですか? 露草さんが彼を操作してる以上、これから町の皆に被害が出るとは考えにくいと思うんですけど」
「違う違う、そうでなくて。……彼が言っていたんだ、『僕は‘露草’であって‘露草’でない存在だ、‘露草’として生きるように創られたのに本当の‘露草’じゃないから、結局自分が何者なのか分からなくなる』、とね。彼のやった事は紛れも無い犯罪だし、許すつもりは毛頭無い。だけど……彼の言っている事は、理解できる気がするんだ」
「……月草がそんな事を言っていたんですか?」
「まあね。でもさっきも言った通り、私達は後ろで成り行きを見ていただけだから、盗み聞いた、と言った方が正確かもしれないな。彼は自分の存在を必死で確立させようとしていた……結局それが精神操作、という形で表に出た事で、こういう終末を迎える事になった訳だけど。彼の気持ちは、痛いほどよく解る――自分の存在が分からないという事ほど、辛い事は無いからね。彼は、哀しい人だ」
 そこまで一気に言い切ると、舘羽は頭を混乱させている鈴音に向かって小さく微笑んだ。
「それにしても鈴音殿、よく生還したね。てっきり崖下でくたばっているかと思っていたよ」
「な! くたばるって……舘羽さんは相変わらず不躾ですね! これでも身体は丈夫な方なんですよ!」
「分かった分かった、あんまり騒ぐと傷に響くよ。あれだけの高さから落ちて打ち身だけで済むなんて、全く悪運が強いというか何と言うか。本来なら複雑骨折しても可笑しくないところだったというのに」
「あの時は隆春くんを助ける事で頭が一杯だったので彼是考えてる暇なんて無かったんです。良いじゃないですか、こうして無事だったんですし」
「いや、良くないよ。鈴音殿は可愛いからね……君に傷がつくのは私が嫌なんだ。こうして痣ばっかり作ってちゃ折角の君の白い肌も台無しになってしまうし。――私と逢引する時に傷が目立ったら、鈴音殿だって嫌だろう?」
「なっ……あ、あ、あ、あいびき……!?」
 耳元で色っぽく囁かれた舘羽の突拍子もない台詞に目を白黒させた鈴音は、数秒の後、それが舘羽の性質の悪い冗談である事に漸く気付く。からかわれた事に対し顔を赤くして頭から怒りの湯気を出している少女を見た舘羽は、声を立てて笑った。
「相変わらず鈴音殿は面白いね。本当に、見ていて飽きないよ」
「……舘羽さん、今、自分がすっごい意地悪な笑顔をしてるって自覚、ありますか?」
「凄く清々しい笑顔をしてると、自覚しているけど。――何なら本当に、逢引する?」
 またしても冗談をけしかけられた鈴音は怒りの言葉を爆発させながら屯所を飛び出す。
「っ……誰が! 舘羽さんと!! 逢引なんか、するもんですかー!!!」
 少女が放ったとんでもない大声は、眠りの影を落とし始めている閑静な江戸の町に広く広く響き渡ったのだった。

 ■

 舘羽のからかいに逆上して屯所を飛び出した――そこまでは、良かったのだが。
「どうしよう……何か、屯所に入りづらくなっちゃった……」
 屯所の入り口前で行ったり来たりを繰り返していた鈴音は、後先を考えずに突っ走ってしまった自分の行動を深く悔いて溜め息を吐いた。今屯所に入っていったら、舘羽がうそ寒げなほどに似つかわしくない爽やかな笑顔で、他の隊士達が意味有り気なにやけた顔で出迎えをしてくれる事だろう。あれだけ盛大に飛び出したのだ、きっとそうなるに違いない。勇気を出して入ってしまえばそれなりに何とかなるのだろうが、鈴音の奥底にある女の意地は、頑なに屯所へ戻らない事を言い張って聞かなかった。
「元はと言えば舘羽さんがからかうからいけないのよ! ま、まぁ、それを真に受けちゃった私も私だけど……」
 誰もいない虚空に向かって一人愚痴を呟く鈴音は、先程の舘羽の台詞――月草についての見解を思い起こした。
 自分はその場に居なかったのでどういう状況だったかは分からないが、それでももし、彼がそういう類の台詞を口にしていたというのなら。
(舘羽さんの言う通り、月草も‘哀しい人’だったのかもしれない。彼も露草さんや朝霧さんのように、力に振り回されて生きる事しか出来なかったのかもしれない)
 自分には自分を大切にしてくれる父母と、姉と、仲間達がいる。自分が存在する意味は常に家や仲間と共に在ったものだし、これからもずっとそうであるだろう。
 しかし、それが無くなってしまったら。露草達のように人ならざる力を持った者が、力の無い自分は誰からも必要とされていないという事を知ったとしたら。――やはり、自分に宿る強大な力に縋り付く以外に存在を確立する方法は無いのだろうか。
 ぼんやりと黙想していた鈴音は、何かが自分に向かって語りかけているような感覚を覚え、不審に思って辺りを見回した。が、夜もたけなわに差し掛かっているこの時間帯に、出歩いている者など一人もいない。
(何だろう……耳で捉える外的な音じゃないみたい。どっちかと言うと頭の中に直接響いてくる感じがする……ええい、こうなったらこっちからも念じてみるしかない!)
 鈴音は意を決すると、頭の中に流れ込む不思議な声に全神経を集中した。すると朧気であった声の輪郭が、段々とその形を現し始める。念じ始めてから数分経って漸く、鈴音は声の主が話している内容をはっきりと自分の脳内に映し出す事が出来た。
〔良かった……やっと繋がった。さっきぶりだね、白狼の姫さん〕
「その声は……露草さんですか?」
〔あー……そうだけど、そうじゃない。僕は、君達が呼んでいるところの‘月草’だよ〕
「月草!? でも隊長が言うには『月草は露草さんに精神操作されて廃人になった』って……」
〔うん、ほぼ廃人になった。もう僕の心は九割九分九厘方、露草に握られてるからね……けど、僕に残された最後の一厘の心力を振り絞って、今こうして君の精神に語りかけてる。――ああ、心配しないでいいよ……もう僕には精神を操作するだけの力なんて全く無いから〕
 予想だにしない人物からの念力に戸惑いを隠せない鈴音は、深呼吸をして火照った思考回路を冷却すると、状況の把握に勤しむ事に決めた。
「貴方がこうして私に語りかけてくるって事は……露草さんについて何か重大な話があるって事ですか?」
〔……うん、そうだよ。何時までこの心力がもつか分からないけど、可能な限り話すから、ちゃんと聞いててね。結論から言うと――露草は、‘妖魔’になろうとしてる〕
「――え?」
〔聞こえなかった? 彼は僕を体内に還したら、‘妖魔’になるつもりでいるんだ〕
「だって、露草さんはれっきとした人間ですよ? そんなの出来る訳ないじゃないですか」
〔確かに露草の身体は人間だ。でも彼の持つ力は妖魔と同等、或いはそれ以上。僕という分身を創り出せるほどの高度な呪術力も持ってる――それは君も解ってくれるよね?〕
 頭の中に響いてくる声に対し、鈴音はこくんと頷く。それを知ってか知らずか、月草は言の葉を紡ぎ続けた。
〔露草が連れの女――先見姫、とか言ったっけ? と話してるのをさっき聞いたんだ。それによるとどうやら妖魔になる事こそが彼の長年の悲願だったらしい〕
「そ、そんな……どうして……」
〔彼の妖力は人間のものじゃない……彼にとって人間の身体は、自分の力を拘束する枷でしかないんだ。だけど妖魔になれば、その身体に強大な妖力が宿っていても何ら不思議じゃないだろ? それに人間であるが故に、彼はずっと‘家’というしがらみから抜け出す事が出来なかった。人間である事を止めれば、もうそういった煩わしいものとは一切関係がなくなるからね……。僕は彼の気持ちが解るよ。分身だから当然だと思われるかもしれないけど、でも本当に解るんだ。彼はもうこれ以上、人間でいたくないんだよ〕
 月草の衝撃的な発言を聞いた鈴音の脳裏には、露草と朝霧の、ある言葉が鮮やかに浮かび上がる。
『まさか。むざむざ命を棄てるほど、僕は馬鹿じゃないよ……まだ達成してない望みだってあるし』
『尤も、彼は私という人間を嫌っていますし、自分が人間である事さえ厭わしく思っていますからね』
『僕はもう、逃げはしない』
 ‘まだ達成していない望み’というのは、人を捨て、妖魔になる事だったのか。
 ‘自分が人間である事を厭わしく思っている’という朝霧の言葉は、事実だったのか。
 ‘逃げはしない’と言い切った彼の瞳が澄んだ湖のような深みに満ちていたのは、今まで逃げてきた自分の力と向き合う為に妖魔になる、という決意の所為だったのか。
「私、露草さんを止めます。私に……私達に、何が出来ますか?」
〔露草が妖魔になる事は、もう先見で分かっているらしいよ? あの女が、そう言ってた〕
「先見なんて関係ありません。私は先見を――隆春くんのサダメを変えました。サダメは変えようと思えば、いくらだって変えられる……露草さんはそれを、私に教えてくれたんです。私は必要であるならば、何度だってサダメを変える者になる覚悟があります」
〔……サダメを変えるには、‘代償’が必要だ。さっきの子供のサダメを変えた‘代償’は、君の全身に及ぶ怪我と白狼隊隊長の脇腹の傷……ここまで‘代償’を最小限に押えた事は褒めてあげたいけど。でも、次に払う‘代償’が今回と同じように軽いもので済む保証は何処にも無いんだよ。今度は君の命かもしれない。君の仲間の命かもしれない。――それでもサダメを変える者になる、って断言出来る?〕
「出来ます。白狼と黒虎は、不条理なサダメに牙を剥いて噛み付いて、引きちぎるだけの信念を持っているんです……何もしないのはもう嫌だし、諦めるのも絶対に嫌ですから。だから、教えて下さい。私達に、何が出来ますか? 貴方は彼に、何を望んでいるんですか?」
 強い意志を灯す鈴音に対し暫く静黙していた月草は、やがて彼女の心に向かって震え声で語りかけ始めた。
〔僕が、露草を苦しめ続けてきたこの僕がこんな事を願うのは勝手だって、分かってる。……でも僕は、露草に幸せになってほしい〕
「…………」
〔だって露草は僕の、親だから。僕は人間じゃないし、露草の分身としてしか価値の無かった存在だけど……それでも彼が僕の生みの親である事は紛れも無い事実だから。彼が妖魔になる事を望んでいるのは分身としてよく解ってるつもりだよ。……けど僕は、妖魔になった露草が本当の幸せを得られるとは、絶対に思わない〕
「……月草、さん……」
〔――露草を止めて、白狼の姫。露草のサダメを変えてあげて。僕もその手助けをしたかったけど……もう、消えてしまうから〕
「ちょ……待って下さい、消えるってどういう事ですか!?」
〔……今、露草は僕を妖力に還元する術式を行使してるんだ。僕は露草の力の結晶体だから、この術式を受けてる以上、もう幾何も経たないうちに、彼の体内を廻る妖力に戻ってしまう。そうしたら僕は本当に、露草の為にならない存在のまま消える事になってしまうから……だから今、こうして君に話しかけて、露草の真実に気付いてもらおうとしてる。だけど……もう、限界みたいだ〕
 月草の苦しそうな言葉は途切れがちになり、その声質も弱々しくなっている。――彼の最期が、迫っているのだ。
 今にも泣き出しそうな鈴音をその精神から感じ取ったのか、月草はか細い笑いを転がした。
〔……やだなあ、泣かないでよね。僕は本来、この世に在るべき存在じゃない、ただの妖力の塊なんだからさ。僕は露草に迷惑をかける行動しかしてこなかったけど……最期にこうやって、彼の幸せの為に行動する事が出来たのを、とても嬉しく思うよ。人を絶望に追いやるのが大好きな性分の僕がこんな事するなんて、……可笑しいかな〕
「可笑しくないです! 可笑しくないですから……消えないで下さい、露草さんの為にももっと生きてて下さい!」
〔……有難う、姫さん。でも無理なんだ……露草の精神操作を受けてる今、こうやって自我を保てるのは、あとほんの僅かの時間しかない。白狼隊と黒虎隊の皆さんに、礼を伝えておいてくれるかな……皆さんのひたむきな心のお蔭で、僕は最期に自分が本当にやりたかった事……こうして君に真実を伝えて、露草を救う事を決められました、って。……それじゃあ、さよならだ〕
「! 月草さん!?」
〔君達に全てを託してしまう事、本当に申し訳ないと思ってる。でももう、手足が吸収されてしまって……動けないんだ。こうする事しか出来ない僕を、赦して……。僕が彼の妖力の一部に還ったら……彼はすぐにでも、妖魔になる為の術を始めるだろう。そうなる前に、どうか……どうか、露、草を…………〕
 『どうか、露草を』――その一言を残し、鈴音の心に流れ込んでくる言葉が、ぷつりと途絶えた。
 月草は今、‘主’である露草の幸せだけを願って、この世から消えたのだ。
 刹那、北西の山の頂上から、轟音を立てて一筋の白く太い光の柱が立ち上がる。何時の間にか涙を零していた鈴音は袖でその跡を拭うと、息を呑んでその柱を見つめた。その波動はびりびりとした大気の痺れとなり、眠りに落ちた江戸の町を覆いつくし始めている。
(あれは……露草さんの、妖魔化の光……!? どうしよう、もう術が始まっちゃってる……!)
 愕然としてその場に立ち尽くす鈴音は不意に、屯所に向かって走ってくる四人――黒虎隊の足音を耳に捉えた。息を荒げた一は入り口に佇む鈴音を見つけると、大声で問いかける。
「鈴音! これ……ヤバいぜ、何が起こってるんだ!? 実時達はこの事、知ってるのか!?」
「隊長達はまだ、ご存知ないです。何が起こっているのかはきっと私しか知らないと思いますから……とにかく屯所に入って下さい、手短に説明します!」
「分かったわ、じゃあお邪魔させてもらうわね」
 鈴音に促された正親達黒虎隊四名は、錯愕の表情で屯所の中へと駆け込んだのだった。

 ■

 黒虎隊を迎えて少し狭くなった座敷の中心に座す鈴音は、たった今自分に語りかけてきた月草の事を話した。隊士達は皆、信じられないとでも言いたげな面持ちで終始聞き入っていたが、月草の最期の台詞を受け取ると哀悼の意を滲ませた。
「そうか、月草殿が……。五日前に相見えた時は何と非道な人物だ、と思ったが……彼もまた、精神操作という力に振り動かされた被害者に過ぎなかったのだな」
「ええ……彼の最期の願い、必ずや俺達が叶えなければいけませんね。今現在、露草さんは北西の山の頂上にいる――それに間違いはないんでしょうか?」
 紫苑に続いた徹平の質問に頷いたのは、実時だった。その眉根には、深い皺が刻まれている。
「十中八九、そうだろう。先程露草殿が月草を捕らえたのはあの山であるし、何より頂にある強い光は……鈴音の言う‘妖魔になる術’で引き起こされたものと見て良いだろうしな」
「隊長達が山を下りる時、あの二人は一緒でなかったんですか?」
「うん、朝霧が『月草を早急に処分する故、私達は先に山を下りますね』って言ったから特に疑問も持たずに其処で見送っちゃったんだ。その後下るどころか頂上まで登ってただなんて、想像もしなかったから」
 真剣な表情で問うた美景に返答する由紀彦も、悔しさをその目に宿らせた。惣助はじれったそうに言葉を走らせる。
「で? どうするんだ結局。もう露草は妖魔になり始めてる可能性がある……行くなら早くした方がいいと思うけどな」
「そうですね……私もそう思います。問題は誰が行くか、という事ですが……」
「――いや、皆で行こう。白狼、黒虎の全員でだ」
 台詞を切った廉次郎の後を遮るようにして指示を下した実時に対し、舘羽は訝しげに眉をひそめた。
「隊長殿……それは得策でないと思うけれど。町の方に人手がないと何かあった時に対処出来ないし、何より今、隊長殿と鈴音殿は手負いの身だ。危険な賭けになる」
「何も全員其処で留まる訳ではない。今の私達には情報が少なすぎる……町を守る為にはどういう状況であるのかを正確に把握する必要があるだろう。もし露草殿が妖魔となっていてあまりにも危険であったら、全員で応戦する。そうでなければ頂上に留まる組と町を守る組に分けて、後者を早急に下山させる」
「そういう事ならアタシは賛成よ。どっちにしたってやらなきゃいけない事はただ一つ……露草ちゃんを止める事、でしょ。大変な任務だけど決して無理難題なものじゃないわ」
「あの山はそこまで傾斜がきつくないですしね。多少時間がかかるとは言っても、町の皆を確実に守るにはそれが一番だと思います」
 実時の提案に順従した正親と徹平に続き、鈴音も大きく頷いて腰を上げた。
「それじゃ……早速行きましょう! 急がなきゃ手遅れになっちゃいますし」
「……いや、お前は待機だ、鈴音」
 意気込んだ矢先にその決意を実時によって制された鈴音は、思わず反意の声を上げる。
「隊長……どうしてですか!? 皆で行くって、今、そう仰ったじゃないですか!」
「自分の現状をよく見ろ。――そんな打ち身だらけの身体で戦えるのか?」
「た、戦えます! 戦えますから、連れて行って下さい……お願いします!」
 紫苑は憂げに瞼を閉じると、必死になって上司に縋る妹に的然な現実を突き刺した。
「鈴音……聞き分けろ。片桐殿を困らせるんじゃない」
「お兄様まで……私も、私も行きたいのに……!」
「その身体では戦うどころか、山も満足に登れないだろう。足手纏いだ」
「そうですけど、でも、月草さんに頼まれたんです、露草さんを止める事! 私が行って、露草さんのサダメを変えなきゃならないんです!」
 一生懸命に説得を試みる鈴音は、消え逝く自我の中で月草が自分に託した言葉を思い返す。
『……うん、そうだよ。何時までこの心力がもつか分からないけど、可能な限り話すから、ちゃんと聞いててね。結論から言うと――露草は、‘妖魔’になろうとしてる』
『僕が、露草を苦しめ続けてきたこの僕がこんな事を願うのは勝手だって、分かってる。……でも僕は、露草に幸せになってほしい』
『……最期にこうやって、彼の幸せの為に行動する事が出来たのを、とても嬉しく思うよ』
 薄れていく自分の精神を振り絞って敵であったはずの白狼隊隊士に語りかけてきてくれた、月草は。
『――露草を止めて、白狼の姫。露草のサダメを変えてあげて』
『……有難う、姫さん』
『君達に全てを託してしまう事、本当に申し訳ないと思ってる。でももう、手足が吸収されてしまって……動けないんだ。こうする事しか出来ない僕を、赦して……』
 礼を言い、自身の願いを掠れた細い声で訴えてきた、月草は。
『どうか……どうか、露、草を…………』
 自身の存在が無に還る事に対して一つの文句も零さず、最期の最期までひたすらに露草を案じ続けた、月草は。
 ――彼はもう、この世にいない。
「月草さんは消え逝く者として、必死の思いで私に話しかけてきてくれたんです。だからどんなに辛くても……私は月草さんの役目を果たさなくちゃならないんです!」
 目尻に水滴を溜めた鈴音を見遣った隊士達は互いに戸惑い顔を見合わせた。
 とその時、座敷に降りた暗色の羽衣を振り払うような、威勢のいい手打音が二、三回後方で鳴らされる。何事かと隊士達が音の方向に首を向けると、其処には座敷の隅に座する一の姿が在った。
「確かに鈴音の怪我の状態を見りゃ、戦場に行くなんざ到底無理な話だとは思うけどよ。これだけ頼み込んできてるんだ……連れて行ってやろうぜ」
「一! お前は何て事を言い出すのだ……第一戦場に行くと言えども、鈴音は山すら登りきる事も難しいのだぞ!」
 即座に飛んできた紫苑の叱咤の声に対し、一は手をひらひらと振って肩を竦める。
「全く紫苑は本当、頭が岩石のように固いのな~。妹が全身全霊で使命を果たそうとしてるってのに……兄としてちょっとは応援しろよ」
「応援できるか! 私は鈴音の身を最優先に物を言ったまでだ」
「はいはい……だからさ、登りきれればいいんだろ? 山。――俺が負ぶっていってやるよ」
「え……一さん、いいんですか!?」
「おう。っつっても、最低限の道はちゃんと歩いてもらうぜ? 怪我が痛んでどうしても駄目だって時になったら、俺に言ってくれ。これでも体力には自信があるからな……お前一人くらい何とかなるだろ」
 声音を弾ませた鈴音を横目に収めると、一は悪戯を目論む子供のように笑った。
 その明鏡な笑顔を前に、他の隊士達の緊張もふっと解れ、柔らかい空気が出来上がる。躊躇いがちに紫苑へ視線を投げた鈴音は、押し黙っている姉の唇が小さく‘勝手にしろ’と形取っている事に気付き、心の中でその優しさに感謝した。胸が一杯になるような思いだった。
 呆れたように事を見守っていた実時は一つ、大きな溜め息を吐く。しかし彼の顔はその仕草とは裏腹に、とても晴れたものであった。
「では……決まりだな? それではすぐに出発するとしよう。鈴音、とにかくお前は本来動ける身ではないのだから……決して無茶をするんじゃないぞ。此方が無理だと判断したら、そこで下山させる――良いな?」
「はい、お約束します」
 鈴音のきっぱりとした受け答えを事の纏めとし、隊士達は各々の刀を腰元に据え付けて山への道を辿り始める。
 先程山際に姿を見せていた赤みを帯びる満月は、すっかり天高くへとさし上がっていた。

 ■

 曲がりくねった山道を早足で登り終え、頂の土を踏んだ隊士達が見たものは、大きな光の柱の中で咆哮を上げる妖魔の姿だった。妖魔の足元には、複雑怪奇な紋様の円陣が緻密に描かれている。妖魔から放出される巨大な負の気に圧し負けまいと一歩一歩を踏みしめていた鈴音は、柱の中の妖魔に視力の無い瞳を向けている女に大声で呼びかけた。
「朝霧さん! ……何で、どうしてこんな事を見放しにするんですか!」
「ああ……皆様でしたか。こうなる事は全て先見で分かっていましたからね……露草が妖魔になる事も、皆様がこうして駆けつけてくる事も。私は此処で、宿命が成就するのを見届けているだけですわ」
「何が『見届けているだけ』だ! 貴女なら露草さんを止められたはずなのに……こんな事をしても露草さんは幸せになれないって事くらい、貴女ほどの人なら分かっているでしょう!? こんなの……こんなの、酷過ぎますよ!」
 朝霧の氷塊のような台詞に激怒した徹平は、朝霧に掴みかかるような勢いで言葉を口走る。
 徹平の言う通り、妖魔と化した露草の姿はまさに‘酷い’の一言に言尽きるものであった。きっちりと一つに纏められていたはずの濃紺の髪は獅子の如く逆立ち、形の良い唇からは長い犬歯が突き出している。手足の指は鋭い鉤爪となり、漆黒の瞳にはどろどろとした妖気の流れが渦巻いていた。
 露草が獣のような声を上げる度に巻き起こる砂煙を袖で防ぎながら、美景は気にかかった一つの事を口に出した。
「これで完全に妖魔になっているとしたら……ちょっと変ですね。確かに部分部分を見ると獣みたいになってますけど、全体としては人間の形を留めたままだ……九尾の妖孤のように、全て獣の形をしていない」
「それはそうですわ――先見によれば、露草の妖魔化は失敗に終わりますから」
「失敗……!? じゃあお前は失敗するって分かってても尚、露草の術を止めなかったのか!」
 湧き上がる怒りのままに声を張り上げる一に向かって、朝霧はこの場に似つかわしくないほどまでにふわりと微笑う。
「ええ。彼には失敗の事は告げないでいました――彼にとっては今日この日こそが五年間待ち望んでいた時だったのですから、‘失敗する’と言って希望を打ち砕いてしまっては可哀相でしょう? それに彼が幸せかどうかなんて私には分かりませんわ……少なくとも、術を行使する前の露草はとても満ち足りた表情をしていましたけれど」
「最悪だな、お前……! 奴は人間だろ!? 人間として生きていく事が一番幸せな事だと、何故気付かねえんだ!」
「人が死んでも『宿命だから』、用心棒を務めてくれてた子がこんなになっても『先見で分かってたから』……貴女、人生観が相当狂ってるわ……!」
「――――皆様に、私達の何が解るのですか?」
 一と同じように罵りをぶつけた惣助と正親に対し、朝霧は笑んだ頬を崩さぬまま逆に問いを宙に放った。
 女と十一の侍の間を、冷やりとした風が耳障りな音を立てて疾駆する。
「何も御存じないのに出過ぎた口を挟むのは、止めて下さいまし。露草にとっても私にとっても、人間の身体とは力を拘束する忌まわしいものに過ぎないのです。力を持った者が人間で在る事にどれだけ辛い思いをしているか、皆様には見当もつかないのでしょうね。……片桐様達は御覧になったでしょう? 人間でありながら邪の色で染め上げられた強大な力を使う、露草の姿を。その力に押し潰された、月草の姿を。――露草は妖魔になる事で自分の力に打ち勝とうとしているだけなのですよ」
「自分に打ち勝とうとした果てが、失敗に因る中途半端な妖魔化と、理性の崩壊か。皮肉なものだね」
「まあ、結果から申し上げればそういう事になりますけれど。……ほら、彼を御覧下さいまし。術式が終わったようですわ」
 眉目秀麗な顔を歪ませた舘羽の台詞に同意しながら、朝霧は円陣の方に視線を遣る。
 白い光を失った円陣の中には、瞳に殺戮の色を灯らせた妖人――露草が牙を剥いて立っていた。
 大きい咆哮を辺りに響かせると、露草は両腰に提げた刀を引き抜き、そのまま隊士達の中へと突進する。間一髪のところでその攻撃を躱した侍達は各々に刀を取り、応戦体勢を作った。朝霧はその光景を盲目の双瞳で見つめたまま、澄んだ声音を鳴らす。
「折角露草が本気で戦うようですから、皆様でお相手なさったら如何でしょう。きっと露草も喜びますよ」
「無論だ――私達は露草殿を止める為に、此処に来たのだからな」
 紫苑の返答を皮切りとし、半人半妖の露草と十一の侍達の死闘が始まった。
 数多の刀のぶつかり合う音を耳にした朝霧は、朱の色を湛える満月を仰ぐと、何処へ宛てるでもない呟きを小さくそっと、紡ぎ出す。
「淀みなく流れ続ける宿命の中で、足掻けるだけ足掻いて見せなさいな……そして先見という名の呪いを覆して下さいな、‘サダメを変える者’達よ――」

 ■

 失敗したとは言えども、術式を施した露草の身体能力は確実に増大していた。腕力も脚力も普通の人間とは桁違いに強い彼と隊士達が何とか対等に渡り合う事が出来たのは、彼が完全に理性を失い、本能の殺傷衝動のままに動いていたから、そして彼自身の精神が崩壊していた為に精神操作を受ける事が無かったからだ。
 しかし此方にとって有利な状況であるというのに、隊士達は一向に露草の暴走を抑える事が出来なかった。二本の刀から繰り出される太刀は素早く、見切るのも躱すのも労力を要す。露草と同様の二刀流使いである惣助は応戦する手を休めないまま苛立たしげに言葉を吐いた。
「いい腕を持ってやがるな、こいつ。月草に向かってやけに『刀を返せ』って強調してたから不思議だったんだが……その訳がやっと分かったぜ。本来は二刀流の剣士だった、ってか」
「惣助殿、二刀を操る者の弱点は何なのでしょう? それが分かれば、此方も対応し易くなるのですが」
「廉次郎、お前、二刀流の俺にそれを聞くのか……まあ状況が状況だ、この際利点でも欠点でも何でも答えてやるよ。二刀を扱う者が第一に気を払うのは……‘均衡’だ」
「均衡? 何、それ?」
 廉次郎に返答した惣助の横で疑問を呈したのは由紀彦だ。先程からの激しい戦闘の所為で、頬には掠り傷が出来ている。露草の一閃を打ち返した実時は、惣助の説明の先を続けた。
「要するに‘身体の釣り合い’だ。私達一刀を使う者は空いた方の腕で釣り合いを取っている……刀を振り回していてもよろめいたりしないのは、片腕と両足で無意識に均衡を保っているからだ。しかし二刀を使う者は両手を塞がれる――つまり釣り合いを取る為には足腰のみに頼るしかない。必然的に、均衡が取り辛くなるという訳だ」
「じゃあ……露草さんの均衡を崩せば、俺らにも勝ち目はあるって事ですね。でも、どうやって……?」
 眉を吊り上げて考え込んだ徹平の隙を突き、露草の太刀が彼を目掛けて振り下ろされた。その刀筋を払い落とした紫苑は、部下に厳しい言葉の鉄拳を食らわせる。
「ぼんやりするな、徹平……此処は戦場だぞ。露草殿に隙を作らせる為にはまず、この俊敏な太刀を何とかするより他にあるまい。これを相手取っているだけで今の私達は精一杯だからな」
「そうね、このままじゃ埒が明かないわ……早めに片を付けないと。アタシ達の体力も何時までもつか分からないしね」
「よし、それじゃ間合いを取って、廉次郎、美景、舘羽、徹平は右腕を、紫苑、正親、惣助、由紀彦は左腕を押えてくれ。くれぐれも気をつけてな! その間に俺と実時が拘束を試みる! 鈴音、お前は怪我があるから……この作戦からは外れてくれ。いいな?」
「はい、分かりました!」
 正親の台詞を受けて即座に作戦を練った一の指示に従い、鈴音は仲間の輪から身を退いた。
 広い間合いを取った隊士達はじりじりとその距離を詰めると、目配せを合図に右腕と左腕に飛びかかる。両腕を押えられた露草は釣り合いを崩し、一際大きい咆哮を上げてその場でのた打ち回った。露草の均衡の崩れを見取り、実時と一は足に縄を掛けようとする。これで全てが上手くいく――はずだった。
 しかし次の瞬間、腕を押えていた隊士達八人の身体が宙を舞い、遠方へと弾き飛ばされる。筋力強化された露草の腕が大小八人の侍達を薙いだのだ。次いで露草の腕は、目前の一をその剛力で突き飛ばす。咄嗟に一を庇って共に飛ばされた実時の脇腹からは、じわりと鮮血が滲み出た。
「実時……お前、傷口開いてるじゃねえか! ったく、無理しやがって!」
「いや……平気だ、このくらいの怪我ならどうとでもなる。それより、露草殿は……、!」
 はっと息を呑んだ実時の目線を追った一も、呼吸を詰まらせる。
 侍十人をこうして弾いた以上、彼が次に狙うのは残る一人しかいない――怪我で殆ど身動きを取る事が出来ない、鈴音だ。
 半妖怪化した露草の気迫に圧されて戦慄く自分の唇をしっかりと噛み締めると、鈴音は痛む身体を動かしやっとの事で構えを定めた。一瞬とも永遠ともつかないような静寂の後、二人の刀が高い金属質の音を立てて衝突する。完全な、一騎打ちだ。
 露草の太刀に死に物狂いで応戦する鈴音は、瞳に殺意を滾らせる猛禽と化した露草に向かって声をぶつけた。
「露草さん……露草さん! 正気に戻って下さい! 露草さんがこんな風になっちゃったら、月草さんが可哀相です!」
 ‘月草’という単語に反応したのか、露草の動きが鈍くなる。それに気付いた鈴音は、‘月草’という言葉を引き出せるだけ引き出して露草に語りかけた。
「月草さんが言ってました、『僕は、露草に幸せになってほしい』って、『妖魔になった露草が本当の幸せを得られるとは、絶対に思わない』って! 露草さんがどういった過去を歩んできたのか私には分かりません……きっと私みたいな小娘なんかじゃ理解も出来ないような、凄く辛い日々だったんでしょう。だから露草さんが人間を憎むのも仕方がない事だとは思います。でも貴方が創った分身は、月草さんは、最期に貴方の名を呼んで消えていったんですよ!? 確かに月草さんは何の罪も無い人達を沢山殺して、露草さんに重責をかけてきた存在だったかもしれませんけど……最期は貴方の本当の幸せだけを願って死んだんです! 彼は貴方の事をこんなにもきちんと理解してたのに、どうして貴方はその気持ちをも踏みにじってしまうんですか!?」
 畳み掛けるような鈴音の言葉を聞いた露草は苦しそうに頭を左右に振っていたが、その迷いを消し去るように吼え声を轟かせると駿馬の如き速さで鈴音に向かって斬りつける。連斬を受け止めていた鈴音の刀はとうとう、彼の最後の一振りによって手の届かない所まで飛ばされた。その反動で鈴音も足首を強く捻り、地へと倒れ込む。何とか立ち上がろうと腕に力を入れるが、鉛のように重たく、また打ち身の熱で火照った鈴音の身体はもはや戦う機能を全て失っていた。
 狂人となった露草は、丸腰になっても尚自分を睨み続けている少女を憎しみの篭った瞳で一瞥すると、二本の刀――‘侘助’と‘寂助’を月に掲げ、そのまま勢いをつけて少女に突き刺す。
 粛然とした空気が、彼らの時を止めた。

 ■

 最初に気付いた事は、自分の手から生温い血が滴り落ちている事だった。
 次に気付いた事は、自分の縹色の着物と深い青鈍色の袴が血飛沫で見事なまでに赤く染め抜かれている事だった。
 最後に気付いた事は、自分の手や着物に在る大量の血潮が自分のものではなく、眼前に立つ女のものであるという事だった。
「――あ、あさ、ぎり……さん?」
 酷く鉄臭の香る大気の中で、鈴音は女に恐るおそる声をかける。露草と鈴音を隔てる壁のようにして立ち尽くしていた朝霧は糸の切れた操り人形の如く、乾いた大地へと崩れ落ちた。
「朝霧さん……朝霧さん!? え、やだ、何で……何で、こんな事に……」
 女の身体を抱き起こして声をかけ続ける鈴音の前で、露草は茫然としてその奇妙な光景を瞳に映し取る。その瞳は、数秒前までの狂気がまるで嘘であるかのような静けさを併せ持っていた。何時の間にか長い犬歯も、鉤爪のような指も元通りになっている。事を悟った露草は、その場にがくりと跪き、虫の息となった朝霧の手を取って必死にその身体を揺り起こそうとした。
「……朝霧、返事してよ。僕が……僕が間違ってた。だから起きてよ、朝霧……――っ、朝霧!」
 遠方で見守るより他に無かった隊士達も慌ててその場に駆け寄り、女と鈴音、露草の周りを囲む。仲間よりも一呼吸遅れて現場に着いた実時は、自分の肩を支えていた一に軽く謝すると朝霧の傷の具合を丹念に調べた。涙の溜まった目で自分を見上げる鈴音に気付いた実時は、顔を背けて力無く頭を横に振る。
「まだ一応、脈はあるが……傷はかなり、深い。出血も酷い故、助かる見込みは……皆無だ」
「そんな……そんな事って……!」
「…………いいん、ですのよ……これは、私が望んだ事、なのですから……」
 残酷な現実を知らせる実時の言葉に惨慄した鈴音は、胸から腹にかけてざっくりと斬られた女のか細い声を聞き取り、その穏やかな表情を見つめた。
「……貴女も露草も、‘サダメを変えた者’……だからきっとこのサダメも変えてくれる、と思って、成り行きを見ていたんですけれど。どうやら宿命が成就してしまいそうでしたので、私が無理矢理、変える事にしたのです」
「どういう事ですか? 宿命が成就、とは……?」
「私の先見では……白狼隊か黒虎隊の皆様のうち一人が妖魔化に失敗した露草と戦って、死ぬ宿命に、あったのです」
 廉次郎の問いに答えた朝霧の言葉に、隊士達は皆身体を強張らせた。鈴音の涙が朝霧の血塗れの着物に落ち、小さな染みを作る。
「――私が死ぬ宿命にあった、と……そういう事ですよね? だから朝霧さんが私の命の‘代償’になった……」
 呟き言のような少女の質問に、女は微かに首を縦に振る事で答えた。その様子を見た鈴音は女を抱え起こしていた手を固く握り締め、感情を爆発させる。
「……どうして、こんな事したんですか! 私が生きてても朝霧さんが死んじゃったら何にもならないじゃないですか! どうして、……どうして!」
「だって貴女……いつも一生懸命で、私には思いも寄らないような行動ばっかりするんですもの。初めて会った時から、そう……正義感に溢れてて、剣の筋も良くて、なのに笑うと普通の女の子で。……全てを諦めていた私にとって、貴女は、眩しかった」
 朝霧の瞳孔がふっと緩み、血で濡れた唇から囁きのような微笑が零れ落ちた。絶句して佇立する隊士達を気にかける事無く、朝霧は空ろな言葉を紡ぎ続ける。
「……最初は、貴女の行動が可笑しく見えて仕方なかったんですの。無駄な事に精一杯努力して、無駄だと分かった後も徹底的に噛み付く行動が理解出来なかったから……。でもそれと同時に、サダメを変えようと躍起になっていた若い頃の私を見るようで、くすぐったいような、こそばゆいような感じが致しました。……そんな真っ直ぐな子を死なせてしまうのは、あまりにも忍びなくて……こうして咄嗟に、身体が動いてしまって……」
「でも……何も朝霧さんが命を捨てる事、ないじゃないですか。私も朝霧さんも生きていける道が、何処かに絶対あったはずです!」
「……さあ、どうでしょうね。現実はそう、甘くない……誰かが生きる時、他の誰かが死ぬのはそう珍しい事ではありません。……どうか、怒らないで下さいな。私は貴女の代わりに死ぬのなら、それも本望だと思っていますから。露草、……露草は、此処に居ますか?」
 宥めるような視線を鈴音に遣ると、女は青年を傍に呼び寄せる。自分が斬った相手に微笑まれた青年は、肩を震わせて俯いた。
「朝霧……ごめん。謝って済む問題じゃないのは解ってる。けど、謝らせてほしい。――本当に、ごめん。僕は……僕は、何て事を……!」
「……顔を上げなさいな、露草。此方こそごめんなさいね……私は貴方を、‘サダメを変える者’としてしか見てこなかった。貴方をその枠組みにはめ込む事しかしてこなかった。きっと私のそういう態度が、貴方の悲願を……妖魔になりたいという願いを促進させてしまったのでしょう。……でも、これで貴方も痛感しましたわね、妖魔になるという事がどれだけ危険で、馬鹿げた事であるかが。皆様がいらっしゃらなければ、今頃貴方、殺戮衝動を押えられない半妖魔として江戸を荒らし回っていたでしょうから」
「うん……僕も、そう思う。人間の身体はやっぱり嫌だけど……でも、もう妖魔になるなんて事、絶対にしない」
「そう……それを聞いて、安心しました。……白狼隊と黒虎隊の皆様……短い間でしたが、貴方達と共に行動するのは、とても楽しかったですわ。――本当の事を申し上げますと、最初のうちは‘露草の目的を達成する為に皆様の事を上手く利用できれば良い’とだけ考えていたのですけれどね。町の者が言うように貴方達は強い……それは剣術だけではなくて、温かい家族のような結びつきの事なのだと、この一週間で漸く理解する事が出来ました。……私達の頼みを快く引き受けて下さった事、心より、御礼申し上げます」
 これから死に逝く者の謝礼に対し、一は何を言うべきか迷っていたようだったが、やがて陽のような明るい笑顔を浮かべる。
「気にすんなって。俺らは治安維持部隊……困ってる奴がいたら力になるのが当たり前、だからな。俺も存外に楽しかったぞ! まあ、大変だったのは事実だけどさ。な、紫苑?」
「ああ。所詮儚い人生だ、先見を使える者と会う事など後にも先にもこれっきりだろうしな。……貴殿からは色々な事を学ばせてもらい、良い経験になった。此方こそ、礼を言う」
「朝霧ちゃん、さっきは酷い事言って、ごめんなさいね。……またいつか、会いましょ? 絶対よ」
「俺も……最初は朝霧さんの事、誤解してました。でも今はこうやって分かり合う事が出来たから、凄く嬉しいです。是非俺からも、お礼を言わせて下さい。……有難う御座いました」
 深々と頭を下げた紫苑、正親、徹平の言葉を、朝霧は目を伏せてしみじみと聞き入った。次いで白狼隊の面々も、各々に最期の別れを告げる。
「朝霧殿、お疲れ様でした。私達と貴女が相見える事が出来た奇跡に、感謝致します」
「ま、何だかんだ言ってこの一週間は世話になりっぱなしだったからな……一応、礼は言っとくぜ」
「……死なないで、っていうのは無理な頼み、なんだよね。それじゃあ……良い夢見ろよな、朝霧」
「私は正直言って、君に対するいけ好かない感情を全部払拭出来ていないけれど、見方は随分と変わったよ。……勿論、良い方向にね」
「たった一週間しか行動を共にする事は出来ませんでしたけど、僕は貴女や露草さんも大切な仲間だと思っています。もし貴女も僕達の事をそう思って下さるなら……僕はそれだけで充分です」
「死を直前に控える貴殿にとっては不快な言葉になるかもしれんが……白狼隊の隊長として、どうしても礼を申し上げたい。――我が隊の隊士の命を救ってくれた事に、深く感謝する」
 廉次郎、惣助、由紀彦、舘羽、美景、実時の礼をその身に受け取った朝霧の頬に、一筋の涙が走る。その面持ちが先程よりも弱々しく儚げなのは、彼女の生命の鼓動がその速度を徐々に落とし始めているからだろう。
「……皆様、本当に、本当に、有難う御座います。人の心がこんなにも温かい事に、どうして私はもっと早く気付けなったのかが、今となっては唯一の悔やみですわ……。――露草、最期の頼みがあるのですが……聞いてくれますか?」
「……うん。何?」
「他人の生命を慈しんでこなかった私が浄土を願うのは到底無理な話でしょうし、御仏もきっと私を見放しておられるでしょう……。ですが、せめてもの情けを私にかけると思って、墓標の代わりになる位牌を作ってもらえるようにしてほしいのです。そして、駿河に――私の生家に、その位牌と骨とを葬ってほしいのです」
「ああ、……約束する」
「頼みましたよ。……その後は貴方の自由になさい。家に帰るも良し、旅を続けるも良し……ただし何処に行ったとしても、‘一人の人間’として、世を生きるのですよ。もう‘能力者’として生きる必要など、貴方にはありませんから」
 露草に死後を託し終え、ゆっくりと冷たくなっていく女に、鈴音は精一杯の笑顔を手向けた。
「朝霧さん。貴女は自分では先見が変える事が出来ないから、『‘サダメを変える者’に固執してる』って言ってましたよね。でもこうして、私の宿命を変えてくれたじゃないですか。――貴女も立派な、‘サダメを変える者’です。……私の所為で朝霧さんがいなくなってしまうのはとても辛い事……今だって、どうして朝霧さんはこんな事をしたんだ、って思ってます。だけど、助けてもらった事には本当に感謝していますから。だから……有難う御座いました、朝霧さん。私、貴女の分まで生きます。どんなに見苦しくても、足掻いて生き続けます」
「ええ……貴女がそうしてくれるなら、私も心残りはありません……。……そうですわ、貴女に私の最期の先見を一つ、差し上げましょう」
 吃驚した表情の鈴音に対し静息の微笑を揺蕩えた朝霧は、小さく口を動かしてその意を零す。
「御心配なく、悪い先見ではありませんよ。――縁です」
「縁……ですか?」
「露草が言ってきたのですよ、自分が人の縁の話を持ち出した時、貴女がとてもはしゃいでいた、と。……聞きたくは、ありませんか?」
「……じゃあ……お願いします」
 鈴音の承諾を受け取ると、朝霧は閉眼して意識を集中する。数十秒後、朝霧は空ろな色彩を湛える双眸を開いた。
「――見えました。……貴女は近い将来、とても良い方と恋仲になるでしょう。その方を伴侶としていけば、貴女の行く先に怖いものはありません」
「ほ、本当ですか……!?」
「ええ……‘先見姫’の、名にかけて。貴女も私の先見の的中率は、御存知でしょう? ――この期に及んで‘私’の言葉を疑いますか?」
「……いいえ。先見姫の……朝霧さんの仰る事ですもん。勿論、信じます」
 茶目っ気のある自然な笑いを転がした女は、その瞼を閉じて、消え入る声で最期を紡いだ。
「……それでは……私は先に、参ります。……あわよくば、いつか、また何処かで、相見えましょう……」
 小雨のような声が途絶えた瞬間、強い春風が隊士達を取り巻いて大空へと舞い上がっていく。温血のような赤で染まった明月の光は、隊士達の足元に漆黒の影を捧げている。
 少女の腕の中で眠りに落ちた女の色の無い瞳はもう二度と、少女を映し出す事は無かった。

 ■

「露草さん……本当にもう出て行っちゃうんですか?」
「うん。……それにしてもこんな町外れまで、皆で見送りに来なくたっていいのに。十九にもなって恥ずかしいんだけど」
 つんけんした言動とは裏腹に頬を赤らめて口を尖らせる旅装束の露草に対し、隊士達はその様子を微笑ましげに眺め遣る。――月草が消え、朝霧が死んだ日から、三日が経過していた。
 いくらなんでも早すぎじゃないですか、もうちょっと江戸にいればいいのに、とぼやく鈴音に向かって、露草は否定の意を示すように首を振る。
「もうお上の方まで凶悪犯罪者‘露草’の名は知れ渡ってるんだろう? これ以上お前達に匿ってもらってたら迷惑になるって事くらい、よく解ってるからね」
「そんなの、お前が気にする事じゃねえのに。……これから、どうすんだ?」
「まずは朝霧の遺言通り、駿河に向かって彼女の生家を探すよ。これ、渡さなきゃならないし」
 惣助に応答した露草は、左手に持っていた風呂敷包みを軽く持ち上げる。中に入っているのは生前に比べ随分と小さくなってしまった朝霧と、円良によって戒名が刻み込まれた質素ではあるがしっかりとした作りをしている木彫りの位牌だ。
「そうか……その後はどうするのだ? やはり、旅を?」
「――ううん。朝霧の遺言を果たしたら、僕は、家に戻る」
「ご実家に、ですか。……しかし、それでは貴方が……」
「そうですよ! 家に戻ったら露草さん、また保護下に置かれちゃうんじゃないですか?」
 紫苑の問いに答えた露草の言葉を聞き、廉次郎は眉の端を下げた。分身を創り上げて逃走する程までに嫌悪している実家に戻るという事は、彼にとって最も辛い事の一つであるだろう。廉次郎と同じ事を考えたのか、徹平も不安そうな表情をしている。露草は口角を持ち上げると、視線を横へ逸らした。
「うん……寧ろ、保護下に置かれるなんて生半可な仕置では済まないだろうね。多分……いや、絶対、僕は殺されるだろう」
「それじゃあ家に帰るのは死にに行くのと同じって事じゃない! 止めなさいよ露草ちゃん、そんな自爆みたいな事……月草ちゃんや朝霧ちゃんが浮かばれないわ」
「確かにそうかもしれない。――でも僕はもう逃げないって決めたんだ。それは妖魔になる事で力を統御するって意味じゃなくて、一人の人間としてあの家と決着をつけなければならない、って意味での‘逃げない’だよ。よく考えてみたら、僕は今まで家の者に本音を言った事が無かったからね……きちんと自分の気持ちを伝えようと思って。それから向こうがどう出るかは分からないけど……大丈夫だよ。いざとなったら、また旅に出てやるさ」
「……何か露草、随分と明るくなったよな~。最初見たときは鬱の塊みたいな奴だったのにさ。舘羽兄ぃもそう思わない?」
「確かにね。……まあ、彼も成長した、って事かな」
 正親の反論をやんわりと制した露草の表情が晴々としている事に気付いた由紀彦と舘羽は、彼に悟られないような小声でそっと笑う。
 それぞれの隊士達に一礼をしていた露草は鈴音の前まで歩み出ると、そのまま何かを言い淀むようにして目線を彷徨わせていたが、漸くあの、春に咲き誇る花のような笑顔を零した。
「……お別れする前に、鈴音にはちゃんと謝っておかなきゃね。前は、言い過ぎたよ――ごめん。あの時は頭にきてて自分でも何言ってるかよく分かんなかったけど、物凄く酷い事を言ったって、今なら分かる。お前はあの子供を見殺しにする事無く、身を呈して助けた。見事にサダメを変えた。……お前はちっぽけなんかじゃない、本当に強い侍だ」
「私こそ、あの時は失礼な事を言い返しちゃいましたから……ごめんなさい。私、露草さんに色々言われて初めて気付いた事、沢山ありました。露草さんがあの時憤りの言葉をかけてくれなかったら今の私は此処にいなかったかもしれません。――あ、そうだ、一つだけお聞きしたいんですけど。前に朝霧さんから聞きました、露草さんは白狼隊と黒虎隊を嫌ってるって。……やっぱり今も、仲間を持つ侍は、嫌ですか?」
 表情を固くして躊躇いがちに問うた鈴音に対し、露草は静慮していたが、やがてその優美な造りの顔を綻ばせる。
「嫌……だよ。つるんでる奴らは弱いって決め付けてる僕が今もいるのは、事実だから。でも、別に仲間も悪くないんじゃないか、って思うようにもなった。十五の剣客とやり合った時……お前を背にして戦った時は、後ろを任せられる、って思ってとても安心出来た。僕は‘仲間’ってどんなものなのかまだよく解らないけど……きっとこういう風に心の在り様を強くしてくれる存在なのかな、って思う。……つるんでる奴らが皆お前達みたいな部隊ばっかりだったら、良いのにな」
 そう言って身体を反転させる彼の背がどこか物寂しげなのは、これからの長い道程をたった一人で乗り切っていかなければならないからだろう。駿河までの道は短くない――道中、家や奉行から遣わされた侍達との衝突は避けられないだろう。今まで仲間を毛嫌いしていたとは言え、彼には三年間ずっと、朝霧がついていた。しかし彼女が死んだ今、彼は本当に一人ぼっちで数多の敵に立ち向かわなければならなくなったのだ。
 それじゃあこんな所で長々と立ち話しているわけにもいかないから、と手短に別れの言葉を置いて江戸の町から立ち去っていく細い青年の背に、一は大声で呼びかけた。
「露草、お前、寂しくなったら何時でも江戸に戻ってこいよー! 俺らはちゃんと、待っててやるからなー!」
 露草は後方から投げかけられた一の言葉に対し暫く沈黙を呈していたが、ゆっくりと此方に向き直って片手をひらひらと振ると、若草の生い茂る道を振り返る事無く歩み始める。彼の姿はどんどん小さくなり、やがて地平線の向こうへと消えていった。
 息吹を強めた風は、隊士達の髪を思いのままに乱れさせている。小さく口元を緩めた実時は、青年を見送った場所に静然として直立する隊士達に向かって一つ、言葉を結った。
「――帰るか、町に。私達には為さねばならぬ仕事が、まだ沢山残っている」
 隊士達は皆温柔な笑顔で頷くと、一人、また一人と町への道を辿っていく。 
 しかし鈴音は最後まで一人その場に残り、青年の背が消えた地平線の先を見据えていた。
(……これでやっと、終わったんだ。随分長いように感じたけど……たった一週間しか経ってないのよね。それだけ中身の濃い事件だった、って事かな)
 男に絡まれていた朝霧を助け、巷を騒がせる‘露草’の真相を知り、目前で人が死んでいく事に対して絶望し、仲間に励まされて希望を持ち直し、それを露草に罵られ。露草と朝霧の哀しい生き方を感じ、露草と二人で大群を相手取り、子供のサダメを変えて欣喜し、諸悪の源だと思っていた月草に使命を託され、半妖魔化した露草と対峙して。
 そして、自分の‘代償’として朝霧が死んで。
 この一週間はまるで、人生で味わう感情を全て嘗め尽くしたような怒涛の日々であった。
 
(色んな事があったけど……この事件を乗り切れたのは私一人の力じゃない。白狼隊と黒虎隊の皆と協力して助け合ったからこそ出来た事なんだ。……それに、こういった出会いがあるから……私達人間は前に進み続けていく事が出来る、変わり続けていく事が出来るって、やっと解った気がする)
 仲間と共に在る事を頑なに拒む露草に触れて、‘一人’という強さと‘仲間’という強さについての自分の了見をはっきりと確かめる事が出来た。既に敷かれた旋律をなぞり唄う事しかしない朝霧に触れて、不条理な宿命に抗い続ける――そして‘代償’を強いてもその宿命を変えていく事の大切さを知った。
 あの二人もまた自分達――白狼隊と黒虎隊に出会って大きく変わったというのも、相違ない事であろう。
『でも、別に仲間も悪くないんじゃないか、って思うようにもなった』
『僕は‘仲間’ってどんなものなのかまだよく解らないけど……きっとこういう風に心の在り様を強くしてくれる存在なのかな、って思う』
 支え合いを蔑んでいた青年が、こうして心を柔らかく持ち、‘一人の人間’として生きるようになった事。
『町の者が言うように貴方達は強い……それは剣術だけではなくて、温かい家族のような結びつきの事なのだと、この一週間で漸く理解する事が出来ました』
『……皆様、本当に、本当に、有難う御座います。人の心がこんなにも温かい事に、どうして私はもっと早く気付けなったのかが、今となっては唯一の悔やみですわ……』
 宿命だからと諦め、傍観する事しかしなかった女が、最期に‘人間の心’を知って死んでいった事。
 自分達が二人の固く閉ざされた‘人間性’を解き放つ存在となれたのは、二人が変わるきっかけとなれたのは、とても嬉しい事だ。
「鈴音殿……鈴音殿ー! そろそろ行かないと、皆さんに遅れを取ってしまいますよー!」
 遥か後方で自分の名が呼ばれ、長い黙想から引き戻された鈴音は声のした方へ顔を差し向ける。其処には頬に満面の笑みを湛えて大きな呼び声を立てる美景の姿が在った。
 それに軽く頭を下げて呼応した鈴音はもう一度蒼穹の下に広がる悠久な地平線へ目を遣り、言の葉を紡いだ。
「私、最初はサダメを変えるなんて一部の凄い人だけが為せる業だと思ってました。……でも、違うんだ。強い想いが在ればいつかきっと、サダメを変える事が出来る……誰だって、‘サダメを変える者’になれる。そうですよね、露草さん、月草さん、――朝霧さん」
 ひゅう、とその言葉に応じるような温かい風が、少女の耳元を掠って天高くへと昇っていく。
 少女は西へ走り去っていく風並みを仰ぐと、晴れやかな心持ちで江戸へ――仲間の待つ場所へと駆歩していった。

 春。各々が各々の道を選び取り歩み始める、希望と試練の詰まった季節。
 去年より一回り大きくなった少女と‘一人の人間’として旅立っていった青年の新たな物語が今、幕を開けた。


- 作者様より -
 Physical Room C.S.K.様、3周年本当におめでとう御座います!

 昨年に続き今回もオリジナル要素の強いSSとなりましたが、白狼と黒虎のキャラを大切に一筆入魂致しました。

 白狼隊と黒虎隊が強いのは目に見える力の強さではなくて、目に見えない結束力や想いの強さの所為なのだろうという事、自分の信念を貫き通す為宿命に抗う事を形に主軸にして書き上げましたこのSS、とにかく長さが半端ないですが…気が向かれた方、どうぞ感想をお願い致します!

 拙文ではありますが、3周年企画に少しでも花を添える事が出来たなら…とても嬉しいです。


○周年記念企画

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