背中 (作:ウミネコ)
「…どうした、玲花…?」
男は心底心配そうだった。快活なはずの彼女であるのに、ここのところ元気がない。ため息が妙に増えた。きらきら輝くはずの瞳に、かげりがある。
「ううん、ちょっと…」
言いかけて、彼女はしばらく逡巡していた。確かに弱りきっていたのだ。だが目の前の男にも、何かと心労は多い。彼女は、それをよく知っていた。だから、結局笑顔を作った。己の気力を総動員した。
「…ちょっと疲れてるだけよ。少し休めば治ってしまうわ」
「本当か?」
「本当だってば!」
こうなると女は意固地だということを、男も知っていた。
「ならば良いが…あまり無理をするなよ」
「ありがとう。大丈夫よ」
男と別れて家路につく。けれど、幾らも歩かぬうちに、彼女は足を止めてしまった。体が重い。このところあまり寝ていない…食欲も落ちている。
「でも…無理しないわけには、いかないの」
腕を磨き、彼よりも磨き、誰より優れた術者になる。彼女の周りの人間が、いくら男を厭おうと…彼女の力が男よりも強くさえあれば、それで文句はないはずだから。
男の心配顔を思い出し、女はくすりと笑う。
…あなたは何も気にしないでいて。自分で追いつかなければ、意味がないのだから。
暖かな笑い顔は、すぐに苦笑に変わる。結局、今は及ばないのだ。あの男の才と来たら、まったく、憎らしくなるほど。追いかけるその背が、絶望的なほどに遠くならぬよう…必死にならずにいられないではないか。
「大丈夫、もっと頑張れる。きっと、頑張れるはず…」
空は暗く、細すぎる月が浮かんでいる。それを仰いだ彼女の笑みは、あまりにも弱々しかった。
「…隊長、そっち…!」
そっちから来ます。言い終える前に、その剣は敵を斬り伏せている。
「気を逸らすな、来るぞ!」
逆に叱責が飛んできて、鈴音は首をすくめた。守られにきたわけではない。目前に迫った影に、もちろん鈴音も剣を振るう。だが、彼女が一体を相手にする間に、実時の剣は倍の敵を斬り捨てている。
…さすが、ですね。
鈴音の先に立ち、道を示しながら、その強さは圧倒的だった。気がつけば視界から式神の姿は消え、長い廊下に静寂が降りている。
「お城の中って…広いんですね」
「気を抜くな。…おそらくこの先にもいる」
はいと応えて、鈴音は剣を握り直した。油断しているわけではない。だが、この心強さは何だろう。この人が同行してくれている。それだけのことから生じる、絶対的な安心感。それは未熟な隊士の甘えか。場違いな、女の恋情か。足元が激しく揺れた。幾度目の地震か、それはあまり猶予がないことの証である。
「急…!」
急ぎましょうと言い掛けたところに、再び揺らめく影がある。すかさず、男の剣が動いた。
「急ぐぞ、鈴音」
「……はい!」
事も無げに斬り捨てて、先へと進む男の背を追う。それにしても、と鈴音は思う。やはり、次元が違う。同じ剣の道を歩いていても…この人は、遙か先を行っている。
…見ていてください。私だって頑張りますから。
鈴音の瞳は、まっすぐに前を見ていた。
日はすでに高くなり、日差しは少し強い。
長くもない屯所の廊下を、鈴音は努めてゆっくり歩いた。会合の時刻まで、まだ少し時間がある。部屋にいるのは一人だけ。書類仕事をしているはずだった。
「失礼しまーす…お茶をお持ちしました」
いつものことである。けれど襖を開いたところで、彼女は少し戸惑った。
「…隊長?」
「……ああ、すまんな」
応えが返るまで、妙な間があった。
「お疲れなんじゃないですか?」
「いや…考え事をしていた」
顔をこちらに向けた時には、もういつもの彼である。鈴音の顔が、わずかに曇った。
「…隊長、もしかして…」
「勘繰るな。そうではない」
お上が何か言ってきたのか。幾度目かの同じ問いかけを、実時は即座に否定した。
「遠方から一つ、相談事があったのでな。…それに何度も言うが、お前の気にすることではない」
そう突き放されてしまえば、「すみません」と言うしかない。
…どうして、あなたはそうなんですか。
小さな不満が、胸を掠めた。
…深刻な顔をしていたのに。フェイの絡んだ災厄のことで、もし責任を問われるのなら…気にせずにいられるわけが無いのに。
「……?」
ふと、人の声を聞いて、二人は顔を見合わせた。何やら外が騒がしい。ぎゃあっと、派手な悲鳴が聞こえた。
『化け物!化け物!化け物が出たよお!』
驚くでもなく、鈴音の眉が寄る。やや調子の外れた声に、聞き覚えがあったからだ。湯のみを置いて、実時が腰を浮かす。
「あ、隊長!…私が行きますよ、何も……」
何も隊長が行くほどのことじゃないでしょう。思わず出かけた言葉を、鈴音は慌てて飲み込んだ。
果たして外へ出てみると、なじみの男の姿がある。
「化け物!…ば、化け物!化け物だってばよお!」
わざわざ屯所の前を選んで、この陽気の中で。地面に座り込んでいる本人は、いたって本気のようである。
「あ、あの…大丈夫ですか?」
「化け物だよっ!ほら、さっさとやっつけて!」
じたばたと手足を動かし、近づいた鈴音を睨む。顔が赤い。明らかに酒気を帯びていた。
「お、落ち着いて。化け物って、あれはですね…」
実時が歩み出て、そこにいたものを摘み上げる。
「化け物は捕らえた。安心して帰られるがいい」
真顔でそう告げる男が白狼隊の隊長であると、この酔漢には分かっているのかどうか。そうか、そうかとぶつぶつ言って、それからゆらりと立ち上がる。何事もなかったように立ち去る姿に、鈴音は眉をしかめずにおれない。
「化け物って…フェイの式神のことなんでしょうね」
「そうだろうな」
「…どうして、こうなのかな…」
こんなことが絶えないから、こちらも心配が絶えぬのだ。小さく、鈴音はため息をついた。
春前の大きな災厄を、どうにか鎮めて数ヶ月。表立った大きな事件は起こらず、人間同士の事件もそれほど多くはなく。…それなのに、どういうわけか、『化物』の目撃騒ぎがなくならない。
あの災厄の首謀者は、確かに死んだと。もう、騒ぎは起こらぬと。白狼隊の隊長、片桐実時が、その名にかけてそう報告を為したというのに。
「隊長。それ…屯所に連れ込んだら、怒られますよ」
化け物呼ばわりされた獣は、実時の腕で「にゃあ」と鳴いた。
「辛気臭い顔すんじゃねえ。見間違いが続いたくらいで、いちいちお上は騒ぎゃしねえよ」
先輩壱の意見である。
「被害があれば別だけど…今んとこ、はっきりした見間違いとか、狂言ばっかりだ。あんまり心配ないんじゃないかな」
先輩弐の意見である。
「そうですよ。そんな顔をなさらないで下さい」
看板娘の意見である。
「はあ、そうですか。…そうですよね」
美味いと評判の蕎麦を受け取りながら、鈴音の顔は今一つ晴れない。先輩隊士が顔を見合わせた。理屈に納得しないのは…もしや、拗ねているからか。そんなことを思われた気がして、鈴音は慌てて声を上げる。
「だから…どうしてこうなんでしょう。単純な見間違いが、こんなにたくさん続くなんて」
「見間違いじゃない可能性もある、か?だからいつも、ちゃんと調べてるだろうが。でも、まあ…そういう時期なんだよな」
「前の時もそうだったかなあ」
先輩二人は、少しだけ遠い目をした。
「…どういうことですか?」
「そのうち分かる。ま、俺達は…やれるだけのことをやるだけだ」
先輩壱こと惣助が、珍しく考え深げな顔をした。
「これから寺に行くんだろ?皆を見てればきっと分かるよ」
先輩弐こと由紀彦も、何やら心得顔だった。
「そう言えば、以前にも…怪談の流行った時期があったかな」
「怪談、ですか」
鈴音の嫌そうな顔に、先輩参は笑い声をあげる。
「以前って…九尾の大火の時ですか?」
横を歩く先輩四も、興味深そうではある。その頃江戸を出ていた彼、箱入り娘であった鈴音。共に当時の世相には疎い。
「枯れ尾花、というべきか。びくびく生活していれば、そりゃあ何でもお化けに見えるさ」
「もう事件は解決したのに…皆、まだ怖がってるんでしょうか?」
「それだけ怖い思いをした、ということかもしれませんね」
四こと美景が沈痛な顔をすると、三こと舘羽は肩をすくめた。
「恐怖というものはぶり返す。くだんの、馴染みの酔漢殿も…花町通いのお大臣だそうだけど、春からこっちは、無茶な飲み方ばかりしているそうだから」
「さすがにお詳しいんですね」
鈴音の声が、棘を含んだ。花町という言葉に敏感なのは…潔癖な乙女の特徴であるのか。誰を思い出したか、美景は引きつった笑みを浮かべた。舘羽は面白そうに続ける。
「いや、そのあたりは…隊長から聞いたんだけど」
「ふうん、隊長が…」
はたと、鈴音の顔色が変わった。
「どうして隊長がそんなこと知ってるんですか」
「どうしてって、…そりゃあ、伊織殿のところで聞いたんじゃないかな」
「い、イオリさんて誰なんですか!?」
何か言おうとする美景の口を押さえて、そこから先は笑うばかり。
舘羽が説明せぬものだから…鈴音が想像をたくましくしてしまったのは、また別の話である。
「世が落ち着いてきたからこそ、怖いということもあります」
先輩伍は、謎賭けのようなことを言った。
「平穏な今を、身にしみて大切に思う…だからこそ、それを脅かす兆しを恐れる。分かりますか?」
「…何となく」
あいまいに頷く鈴音の傍を、僧の一団が通り過ぎる。場所柄に似合わずに、寺はずいぶん賑やかだった。近隣の寺から来たらしき僧たち。境内を掃除している近所の者たち。寺の一大行事を数日後に控えて、手伝い志願が多く出入りしている。
「有り難いことです、本当に。昨年のご開帳の日から…もう、一年経つんですね…」
穏やかに、僧が笑う。
どんがらがっしゃんと、派手な音が響き渡った。しん、と辺りが静まり返る。皆の視線を集める中、手伝いらしき僧が小さくなっていた。…何か落としたものらしい。振り返ると、こちらの僧の表情が一変していた。浮かんだ笑みを強ばらせ…顔色がひどく悪い。
「…円良さん…」
「…すみません、大丈夫です」
見渡せば…周囲で働く僧達が、みな体を強ばらせている。
「大丈夫ですよ、皆さん。白狼隊の方々が、今年は警備をして下さいます」
聞いて…あっ、と思い当たった。昨年のご開帳の日とは…この寺の宝であった仏の像が、賊の手によって損なわれてしまった日でもある。
先輩伍こと廉次郎は、優しい顔で頷いてみせた。
「…我々は、できることを精一杯やるだけです。白狼隊がいるのだから、安心していて良いのだと…せめて信じてもらえるように」
「…はい」
見れば掃除をしていた民も、顔色無くした者がいる。頭を抱えている者。子を抱き寄せ、身を硬くする者。つまりはそういう者たちが…こういう時に、幻の式神を見ている。
今は無い物、もう済んだ事。それをいまだに怖がることが、意味の無い恐怖だと…一体誰が言えようか。
「…私、この辺りを見てきます」
円良たちに一礼して、鈴音はその場を離れた。
相手が酔漢だからとて、その怯えが本物でないと…一体、誰が言えようか。
…「化け物は捕らえた」と、彼は大真面目に言って聞かせた。
『何も、隊長が行くほどじゃないですよ』
言葉を飲み込んだのは、説教を食らいたくなかったからでしかない。
「…かなわないなあ…」
寺の敷地を見回りながら、鈴音の肩が落ちる。背中を見、だが追いつけずにいるというのは…剣に限った話ではなかった。
寺の周りの道や境内、庭までくまなく見回って。気が付けば、墓地の中まで入りこんでいる。日は傾きかけて、じきに暗くなるだろう。
「…ええと…バチが当たるかな?」
来た道と行く道を見比べて、やはり行く道を選んだ。もう少しだけ先へ進めば、塀に突き当たる。そこから塀ぎわの通路をたどり、更に奥へと進む先に…罪人の墓があるはずだった。心楽しいことではないから、そこを顧みる者は少ない。そのうちの一つの墓が、実は空だと知る者は…更に少ない。
…フェイ。墓があるなんて知ったら、どんな顔をするだろう。
友人の顔が思い出される。別れてだいぶ久しいが…生きていることが世間に知れたら、それこそ信用どころではない。それでも元気でいて欲しいのだから、勝手な話ではある。
ちらりと、白いものが見えた。
「…えっ?」
どきりとした。
犬か猫ほどの大きさの獣が、墓碑をぬってちらちら見える。だが、夕暮れの光の中で…自ら光る犬などいない。
「…まさか…!」
まさかと思う。だが現に、光る獣が悠然と進んでいく。墓場の道を奥へ、奥へ。鈴音は追う足を速めた。その先に…重罪人の墓がある。鈴音の記憶をたどるかのように、獣はそこを目指していた。ざわざわと、胸がざわつく。角を曲がり、視界が開けた。
「……!?」
獣の姿は消えていた。まるでその代わりのように…女が一人、たたずんでいる。この国に身寄りのあろうはずの無い、天下を騒がせた罪人の…粗末な、小さな、形だけの墓標の前。鈴音の足が、止まった。
女は異国の服をまとい、見慣れぬふうに髪を結っていた。体はだいぶ痩せすぎて、ずいぶんと頼りなげに見える。少しばかりやつれているが…どこかで見た顔をしている。
息を飲み、鈴音は頭をめぐらせた。…異国の服。その形は、あの友人の国を連想させる。
『…やはり。よく似ている』
むかし、よく似た知人がいたと。彼は…確かそう言っていた。
女は身動き一つせず…小さな墓標を眺めている。ゆるりと、頭が上がった。鈴音の顔を見て、目を見張る。
…やっぱり。「その人」だ。
毎朝鏡で見ているものと、良く似た顔が、そこにある。
「こちらに、妙な生き物が来ませんでしたか」
「…放ったまま、忘れていた。…さっき戻したところです」
「この地の者は…式神を怖がります」
「…ああ、迂闊でした…」
信じられぬという風に、鈴音の顔を見つめたまま。女は律儀に言葉を返す。
「…あの、私…白狼隊の…」
びくりと、肩が動いた。
「知っているんですか」
「噂を聞いたから。…そう、あなたが?」
頬が歪み、眉が寄る。くすくすと、うつろな笑いが耳に響いた。
「ならばこの人、さぞかし悔しかったでしょう。裏切り者が、また敵とはね」
「あなたは…」
「…古い、知り合いでした」
…知っています。
夢で見たなどと…言うべきか、どうか。迷っている間に、女は笑いを収めた。小さな墓標に、視線が移った。
「弱さの報いを受けに来た。だけど、この地にいないのならば…会いに、行かなくてはね」
こちらを向いて、また笑う。鈴音は言葉を失った。
沈む日の、橙色の光を受けて…瞳がやけに輝いている。頬はほころび、親愛らしき感情を乗せて…さっきよりもずっと優しい。だがやはり、眉はぎゅっと寄っていた。瞳がきらきらして見えるのは…溜め込まれた涙のせいなのだ。
…なんと悲しい笑み。
女の手が袖を探るのを見て、鈴音ははっと我に返った。短刀を抜いた手を、すんでのところで押さえつける。
「ちょっと…」
「会わせてください」
「だから、ちょっと待って!」
気押される。
鈴音は必死に力をこめる。打って変わって意志の強い目が、こちらを睨みつけていた。
「会えます。きっと、会えますから…死なずに龍を探してください!」
ふっと、女の力が抜けた。
「…龍?」
「火の龍です。…あの人と、最後まで共にいたのは…異国の、赤い龍でしたから」
「火の龍、…そう、あの龍はまだこの国に在るか」
…ルーイェン、と。女がそう呟いたのを、鈴音の耳は確かに捕らえた。
「確かにね。あの龍に裁きを請えば…会えるところに行けるでしょう」
「あ、あのですね。あの人は…」
「ありがとう」
既に瞳は乾いている。女は墓標を一度だけ見やり、すぐにくるりと向きを変えた。それっきり、振り向かない。
「…ちょっと待ってください、あの人は…」
足早に歩く女を、慌てて追ってみたものの…角を曲がると女の背は、信じられぬほど遠くなっていた。
「あの……!」
立ち止まらずに、姿が消える。
「…話を聞かない人だなあ……」
痩せすぎた体のどこに、そんな活力があったものか。
「あれ、私に似てる?…どこが?」
しばし佇み、呆れた後で…鈴音はため息をついた。
『…愛していたわ。この上ないほど、…愛していた…』
今まで正直、半信半疑ではあった。けれどあの夢は、本当の本当に真実だったのだろう。
彼女の吐いた言葉まで、本当の本当に。
「生きてるって、…伝え損ねちゃった」
…でも、きっと会えますよね。
誰にともなく、鈴音は祈った。
勝手な話だろうと思う。それに彼らの行き先は…もはや誰にも分からない。
けれど、彼女はここに来た。何の手段によってかは知らない。それでも海を越え、この江戸の地を突き止め、この寺までもやってきた。ならば、あるいは。
祈るくらいは許されよう。
人よりも猫の数が多いと、一部では評判の屋敷がある。その庭に、木刀のぶつかる音が響いている。幾匹かの見物猫を横に、男と女が木刀を振るっていた。日は昇りきったばかり。 光が辺りに満ちている。
「…はあ。ありがとうございました」
玉の汗を拭って、鈴音は息を吐く。一方の男はと言えば、せいぜいうっすら汗ばむ程度。特に疲れた様子も無い。…相変わらず、次元が違う。
…けっこう頑張ってるのにな。
精神のありようと違って、こちらはとても分かりやすい。分かりやすいから…切なくもなる。
「そんなとこまで…似てたのかな」
夕闇に消えた細い背が、鈴音の脳裏に思い浮かぶ。
『…あなたの才能が、怖かった』
慕う背は、はるかに遠く。どこまで行っても先にある。
「どうした?」
「あ、いえ。その…ちょっと思い出したことが」
『…ごめんなさい。私はもう、耐えられなかったのよ…』
憎々しく聞こえた声は、少し震えてはいなかったか。逆光に隠れた顔は…泣いていたのではないのか。
疲れ果てたゆえの殺意も、死を望むほどの絶望も。鈴音は経験していない。
「何というか…人って、難しいですね」
「何かあったか」
寄って来ようとする猫を制して、真摯な顔がこちらを向いた。
『そうではない。…人に助けを求めることは…弱さではないのだ』
頼れ、助けを求めよと。
他ならぬこの人が、繰り返しそう説いてくれたのだ。鈴音には、いつも見守る目があった。
「世間のことも、人のことも、ずいぶん知ったつもりでした。だけど、まだまだだなぁって。昨日…そう思いました」
なればこそ。
助けられながら進む身は、自他へ問い続けねばならない。はたして、この目は澄んでいるのか。思い上がってはいないのか。
「私、もっと頑張らなきゃ」
今一度、と構えた鈴音に、だが、実時は応じなかった。
「…やはり、お前が適任か…」
「え?」
鈴音の顔を見返す目が、切なげに揺れたように見えた。
「隊長?」
「…いや、何でもない」
やや不自然に、視線がそれた。だがそれもまた、一瞬だけのことだった。
「まだ本決まりではないのだが…近々、お前に大きな任務を任せるかもしれない。心に留めておいてくれ」
はいと応えて、鈴音は背筋を伸ばした。その任務の中身にまでは、まだ考えも及ばない。
…もっとあなたに頼られたい、と望むには…私はまだ、子供でしょうか。
迷いの消えた男の顔が、鈴音には却って寂しい。けれどその背が、自分を置いていく背ではないことを、彼女はよく知っている。
…見ていてください。私、もっと頑張りますから。
数匹増えた見物猫の前で、木刀のぶつかる音がまた響き始めた。
どことも知れぬ山奥に、ひっそりと建つ庵がある。夜中というのに戸を開け放ち、月を見ている男がいた。
「まだ眠っていなかったのか」
「一度は寝たが、目が覚めてしまった」
満月と三日月のちょうど中間。中途半端な太さの月が、奇妙に明るく見えている。
「夢を見た」
傍らに立つ龍の化身は、はっきりと眉をしかめた。だが、「忘れろ」とは…もう言わぬ。
「また、泣いていた」
「また、か」
嘆息するのを我慢している、というところだった。男の心身をかんがみて、良い兆しなのか、そうでないのか。龍には今一つ判じかねる。
「許すと決めた…それはいい。だが、少しばかり…あの者たちに毒されすぎたのではないか?」
「あの者たちに、な」
男はわずかに顔をゆがめて、どうやら苦笑の態であった。たかだか「知人」に殺されかけて、それを許す女もいる。白狼隊の隊長でありながら、陰謀の首謀者を見逃した男もいる。かつて愛した女を案じてみるくらい、どうということも無かろう。
「悩みの種の男が消えて…だいぶ経つ。清々したと笑っていると…そう思うか?」
戮焔は答えない。出来れば思い出したくない、乗りたくない話でしかない。だが男の目は遠くを見て、夢の続きが気になってならぬようだった。
「どう思う」
「……」
この男と、常に共にいた龍である。覚えていないわけではない。あの女の勝気な瞳。「何でもない」と強がる笑み。あの悪夢のような日から、ふと我に返ることがあったなら…平気で笑える女だったか。
「…心を潰し、歪める程に…無理する必要は無かったのだ。出来なければ出来ぬと…辛ければ辛いと、頼ってくれば良かったものを」
「だから、あいつは鈴音では無い」
それが玲花だった。追い詰められても、疲れても、助けてくれとは絶対に言わぬ。男を思えば思うほど、自分ひとりで戦おうとする。それが玲花だったのだ。きらきらと、輝く瞳は同じでも…そこが、決定的に違った。
「挙句の果てが、逆上か。世話は無い」
聞いて、男はまた笑った。毒されたのはお互い様ではないか。龍の顔には、言葉ほどの険は無かった。
「…あいつには…鈴音のようなしなやかさは無かった。俺もあの男のようではなかった。だが…」
男は言葉を飲んだ。
「よそう。確かに、毒されすぎたようだ」
「それがいい。…もう、眠れ」
離れた場所から、ささやき声が聞こえる。
『次の行き先、清かもしれませんね』
ごん、と鈍い音も聞こえた。声が大きすぎたのは誰か、それを小突いたのは誰か。確かめずとも察せられるが、男はあえて口にしない。ただ、そちらにも聞こえるよう、声を高めて言ってやった。
「戮焔、俺は海は渡らぬ。この地への贖いというものを…まだ済ませてはいないからな」
…だが、我々には我々の在りようが、きっとあったはずなのだ。
いつの日か、再び顔を見たいと言ったら…彼女は嗤うか。それとも、泣くのか。
「玲花、今はどうしている…?」
神ならぬ身に、それを知るすべはなかった。
ざわざわと、草の激しく揺れる音がした。風が強く吹き始めた。
「…ところで、隊長。イオリさんって誰なんですか?」
女の焼き餅などという…扱いなれぬ代物に。実時が困惑したのは、また別の話である。
- 終 -
- 作者様より -
玲花って、頑張って頑張って折れちゃった人だと思います。
隊長ルートの鈴音だと、「なんか凄い人を好きになっちゃった人」って所が対になるっぽいかなと。
微妙な出来ですが、全力尽くしました…捏造ごめんなさい。