過ぎゆく年、新たなる年 (作:石川和久/石宮和美)
ドンドンドン
何かを叩く音がする。耳障りなその音は、絶える事無く続いている。
「う~ん……」
部屋の中で少年はムクリと起き上がった。いつもと変わらない部屋の風景が目に入る。違っているのは、朝早いせいか薄暗いのと、ドンドンと響いている扉を叩く音だった。
年の瀬も近い江戸の朝は肌寒く、もう一度布団に潜り込みたくなる。
「朝倉さま、朝倉さま!」
声の主は自分を呼んでいるらしい。少年は起き上がると扉を開けた。
扉の外には差配人の平四朗が立っている。
「朝倉さま、よかった……。いらっしゃらないのかと……」
「おはようございます、平四郎殿。こんな朝早くに一体……?」
平四郎はこの辺りの長屋を取り仕切っている差配人である。真面目な人物で、長屋の住人からも信頼されている。一人暮らしの美景の所にも、よくおかずを差し入れしてくれるのだ。
その平四郎が顔を真っ青にして、息を切らして立っている。
「た、大変です、朝倉さま。川原でお役人様が亡くなっているんです!」
「えっ!?」
「今大騒ぎになっているところです。朝倉さま、どうか……」
「わかりました、すぐ行きます!」
寝着のまま行くわけにもいかない。少年はとって返すように部屋に戻ると、いそいで着替え始めた。
・
年の瀬も近い江戸の町は、活気に満ちていた。大店は人で溢れかえり、長屋住まいの女たちは年越しの準備に忙しい。
年も暮れようとする大晦日、北町奉行所の吟味方与力・『鬼の大川』と恐れられる大川将俊も、今日は早めに切り上げて、一杯飲みに行こう。そんな事を考えながら自室で机に向かっていた。
「失礼いたします」
声と共に襖が開いた。現れたのは北町奉行所の与力見習い・三瀬忠親である。まだ少年だが、優秀な部下として大川を支えている。
後ろには北町奉行所付き中間・隆之助が控えている。
「将俊さま、おはようございます」
「ああ、お前も早いな」
忠親が早いのには訳がある。お抱えの事件の下手人が、まだ捕まってないのである。口外できる事ではないので、秘密理に捜査を進めているのだが、おそらく年越しだろうと大川は踏んでいた。
「忠親、今日は何か予定があるか?」
「いえ、特にありませんが……」
「ならば、役目が明けたら一杯飲まないか?蕎麦でも奢ろう」
「うわぁ、年越し蕎麦ですか、いいですね。御供します。隆之助、どうだい?」
忠親は笑いながら言う。
「あい、よろしいのでしたら、私も御供させていただきます」
隆之助がかしこまって言った。
「そうか、では……」
だが、ほのぼのとした空気はここ迄だった。
「大川さま!」
同心の一人が大声を上げて駆け込んできた。
「どうした?」
「やられました、例の辻切りです!」
「なに!」
大川はさっと立ち上がると、足早に歩きだす。それに忠親と隆之助が続いた。
「人払いは済んでいるだろうな?」
「はい、自身番から同心を二名、奉行所からも二名行かせています。ですが……」
「どうした?」
同心は言いにくそうに言った。
「発見者が自身番ではなく岡っ引きに届け出たようで、『川沿いの親分』とそれから……」
「それから?」
「……白狼隊が検死に当っているようです」
「片桐殿か……」
大川は軽くため息を吐いた。
・
「ひどいですね……」
少年がぼそりと呟いた。
「喉を一突き、余程の腕前ですね……」
すぐ横で、眼鏡を掛けた男が呟く。いつもは静かな川原も今は野次馬でごった返していた。
「廉次郎殿、隊長はどうしたんでしょうか?」
「実時殿ですか?まもなく来ると思いますよ。連絡は行っているはずですから」
廉次郎と呼ばれた男は、亡骸を見つめたまま答えた。瞳は深い悲しみで満ちている。
「……美景殿、実時殿が来る前に、出来る限りのことはやっておきましょう」
「はい、わかりました」
段々野次馬も増えてきている。今は『川沿いの親分』こと、重春親分の手下の下っ引きが押さえているが、如何せん人数が足りなかった。
検死の役人が来るまでは迂闊には動かせないが、かといって遺体をそのままにもしておけない。とりあえず、人目を避けるためワラを掛けることにした。
「二人とも、早いね」
不意に後ろから声がした。振り向くと、金髪の男が立っている。朝日に髪が光っているように見える。
「…館羽殿、おはようございます」
「おはよう、美景殿。廉次郎殿。…それで、被害者は?」
「こちらです」
廉次郎がワラを捲る。中から、上等な身なりの男が現れた。
「……この格好、お役人かな?」
「ええ、おそらくは……」
被害者の腰には二本の刀が差してあるが、それに手を掛けた形跡はなかった。恐らく、抜刀する暇もなかったのだろう。
金髪の男・館羽が遺体を調べている間に、今度は若い男が近づいてくる。本来は左腰に差す刀を両方の腰に差していることから、男が二刀流であることが伺えた。
「…惣助殿、おはようございます」
美景の挨拶に、二刀流の男・惣助は軽く手を上げる。
「おう。なんだ、みんな早ぇな」
「ええ、町の人が知らせてくれたんです。僕の家は広場から近いですから……」
美景がそれに答える。
「それで惣助殿、実時殿は?」
廉次郎の言葉に、惣助は頭を掻いた。
「それが、家の前に役人が来てな、急用だってんで奉行所に呼ばれた」
「奉行所に?」
館羽が不信そうに言う。
「奉行所だってこの事件を知ってるだろうに、それよりも大事な用件とは、気になるね……」
白狼隊が再結成されるにあたって、部署も大きく変わった。
以前は治安維持隊としてあやかし相手専門だったのだが、これからは人間を相手にするため、白狼隊は北町奉行所、黒虎隊は南町奉行所お預かりとなっている。お裁きは各奉行所で行われているため、そういう形を採らざる得なかったのである。
各々が考えを巡らす中、突如大きな声が響き渡った。
「おーい!みんなーっ!こっちこっち!」
まだ幼さが残る少年が、橋の上から美景達に向かって叫んでいる。その後ろから、検死方の役人が現れるのが見えた。自身番から来た同心の姿も見える。
「由紀彦ーっ、どうしたの!?」
美景は思いっきり叫んだ。
「みんなーっ、一先ず戻って!撤収!」
「はぁ、どういうことだ!?」
惣助が怒鳴り返した。
「わかんない!ただ、実時兄ぃが、ここは重春親分と奉行所の同心に任せて、白狼隊は栄屋に集まるようにって」
皆が顔を見合わせる。
「どうやら、思った以上に事は重大のようだね」
館羽がゆっくりと呟く。
「とりあえず実時殿の指示に従いましょう。何か進展があったのかも知れません」
副長の廉次郎の言葉に、皆が頷いた。
・
まだ開店前ということで、栄屋は人も少ない。店内に入ると、すぐに娘が近づいてきた。
「美景さま、みなさんも、おはようございます」
栄屋の看板娘・若菜がにっこりと笑った。
「若菜殿、おはようございます。お早いですね」
「いえ、美景さまの方こそ、朝早くからお勤めご苦労さまです」
二人の若者の微笑ましい光景に廉次郎は頬を緩ませた。
「それで、若菜殿。実時殿は……?」
「はい、こちらです」
若菜は先に立って案内をする。通されたのは、普段はあまり行かない奥の座敷だった。
「ちゃんと座敷もあるんですね……」
「それはありますよ!一応食べ物屋なんですから!」
「すみません…」
うなだれる美景を見て、今度は館羽が笑みを零す。
「失礼いたします」
若菜がすっと襖を開ける。中には四人の男が座っていた。
一人は美景達、白狼隊を纏める隊長の片桐実時である。
もう一人はその横で実時に酌をしている男で、身なりからかなり身分の高いお役人のようだ。
その横には、少年が座っている。身なりはお役人そのものだが、歳は美景とそう変わらないように見える。
さらに、そのすぐ横に由紀彦と変わらないような歳の少年が控えている。
皆、笑いながら酒を酌み交わし、おまけに蕎麦まで食っている。
「…た、隊長……?」
美景の言葉に、役人風の男が答えた。
「おや、実時殿。お仲間がいらっしゃったようですな」
「…ああ、揃ったか。みんな」
実時の言葉を聞いて、みな我に返った。
「揃ったか、……じゃないよ実時兄ぃ。ずるいよ!何で一人だけ蕎麦食べてるんだよっ!」
外は凍えそうに寒い。おまけに風も強かった。
「…おまえ、外がどんだけ寒いか知らねぇんだろ?」
惣助も由紀彦に続く。旗色が悪くなった実時に変わって、役人風の男が取り成した。
「すまんすまん、実時殿には私が無理矢理勧めたのだ。一人だけ食べていない者がいては、こちらも食べづらいからな」
そう言って若菜の方を向く。
「若菜殿、開店前に申し訳ないのだが、あと蕎麦を五つ、お願いできるだろうか?」
「はい、かしこまりました」
若菜は軽く一礼すると、奥の厨房に引っ込んでいく。
「……お久しぶりです、大川殿」
廉次郎が笑いながら言う。
「久しぶりですな、長谷部殿」
役人風の男・大川は目を上げると、懐かしそうに言った。
・
「皆に紹介しておく」
実時が周りを見渡して言う。一つの大きな卓袱台を、男九人が囲んでいる。大川の計らいで、後からやってきた五人には、暖かい蕎麦が振る舞われた。
「食べながら聞いて頂きたい」大川のその言葉を合図に、皆貪るように蕎麦を食い始めた。冷えた体が芯から暖まっていく感じがする。
「皆も知っていると思うが、こちらは北町奉行所・吟味方与力の大川将俊殿だ」
「…吟味方?」
思わず声が出ていた。皆が美景の方を向く。
「…吟味方与力とは御前様と共に奉行所を取り仕切るお役目で、大川殿は北町奉行所で一番の実力者、江戸の町に睨みを利かせている御方だよ。美景殿、まさか知らないのかい?」
館羽の言葉に、美景は顔が赤くなっていくのを感じた。
「…由紀彦、知ってた?」
小さな声で、隣の由紀彦に問い掛ける。
「えっ、うん。有名人じゃん」
「……」
言い訳のしようもない。
「気にしなさるな、朝倉…美景殿……でいいのかな?初対面だ、互いに知らなくて当然だ」
大川が自分の名前を知っていたことで、ますます肩身が狭くなる。
ため息を吐いて、実時が話を続けた。
「…それから、横にいらっしゃるのが与力見習いの三瀬忠親殿、そして中間の大川隆之助殿だ」
それを聞くや否や、隆之助が声を上げた。
「あいすみません。片桐さま、よろしいでしょうか?」
「あ、ああ。構わないが……」
「あいすみません。私は中間、片桐さまの様な身分の御方に『殿』を付けて頂くような者ではございません。どうか呼び捨てになさって下さい。皆様も、どうぞそのように……。」
まだ由紀彦と同い年くらいの少年とは思えない口調だ。当の由紀彦は、食べるのも止めびっくりしたように隆之助を見つめている。
「…だが我々も奉行所お預かりの身、立場的には変わらないと思うのだが…?」
「いえ片桐さま」
隆之助はさらに続ける。
「片桐さまは元々、将軍様への謁見を許されたお旗本、私は武士とはいえ、元は商人の出です。どうかお聞き届け下さい」
頭を下げ続ける隆之助を見て、実時は再びため息を吐いた。
「隆之助がこう言っているのだ。一つ、聞いてやっちゃくれないか?」
大川が小さな声で言う。
「……わかった、中間の大川隆之助君だ。…これでよいか?」
実時は隆之助の方を向いた。
「あい、あいすみません」
隆之助が再び頭を下げた。
「…それでだ。集まって貰ったのは他でもない。こちらの大川殿から任務がある」
珍しいな、美景はそう思った。
白狼隊は北町奉行所お預かりだが、同心、特に下級役人の者からは、はっきり言って目の敵にされている。理由は、御前様が白狼隊のことを高く評価し、今迄通り自由に活動できるよう取り計らってくださったからだ。よって、白狼隊が奉行所から指示を受けて動くというのは、めったにないのである。
「ただ今紹介に預かった大川将俊だ。よろしく頼む」
大川が頭を下げる。
「三瀬忠親です。よろしくお願いします」
続いて少年・忠親が頭を下げた。顔を上げる時に美景と目が合い、軽く微笑んでくる。
「中間の大川隆之助でございます。御用の際は遠慮なくどうぞ」
最後に隆之助が頭を下げた。
「それで我々のお役目とは?」
廉次郎が真っ先に尋ねる。
「うむ、簡単に言えば、私の護衛をしてほしいのだ」
「護衛?」
「先程の川原の事件、あれに関係することなのだよ」
「先程の事件の下手人が、大川殿を狙っているのですか?」
「簡単に言えばそうなのだが、少々事情が込み入っていてな。君達の力を借りようというわけだ」
「……やはりね」
館羽が我が意を得たりというように呟く。
ここで忠親が口を開いた。
「川原で殺されていた男は、南町奉行所の同心・古屋吉三郎とわかりました。同心殺し。これだけでも十分大事件ではあるのですが、…実は、同心が襲われた事件はこれだけではないのです」
忠親の言葉に、一同に緊張が走る。
「先月から今日まで、同心が襲われる事件が合計六件起きています。死者は今日を含めて四名、重傷者が二名、やりたい放題なのですよ」
「……!!」
美景は言葉に詰まった。
「…たが大川の旦那、同心が斬られたなんて話は、巷じゃ全然聞かないぜ」
惣助が確かめるように言った。
「箝口令を敷いているからな、噂が広まれば民衆に不安を与えることになる」
「それに、お上にとっちゃ不名誉極まりないからね」
館羽の言葉に大川は苦笑する。
「まったく以てその通りでな。奉行所のバカ共はそれしか頭にない」
同心が連続して殺されるとは、確かに歴史に残る失態だろう。
「それで、下手人の手がかりってのはないのかよ?」
これまで黙って聞いていた由紀彦が初めて口を挟んだ。
「三つほど挙がっています。一つは小柄な人物であること、生き残った同心が証言しています。『子供のようだった』と」
「子供……」
だからどうしたと言われるかもしれないが、犯人が子供だというのはあまり気分のいいものではなかった。美景の表情を見て、宥めるように大川は言った。
「まだ子供と決まったわけではない、男か女かもわからんのだ。そんな顔をするな」
「…はい」
「二つ目です、襲われた同心達には共通点がありました。いずれも博打、女などで借金を重ねていたり、人傷沙汰を起こしていたりと、まぁ、はっきり言ってしまえば、みな問題のある人物です」
「役人に相応しくない人物が斬られた、ということだな」
「ええ。残念なことに、奉行所の中でも辻切りを擁護する声もあります」
実時の言葉に、忠親は憎々しげに答えた。
「三つ目です。襲われた同心には、犯人から文が来ていました。お前はこれこれ罪があるからお役目を退くように、という内容です。さもなくば天罰が下ると……」
「下手人は神様気取り、という事ですか……」
廉次郎か呟く。
「はい。手がかりは昨日の時点ではこれだけでした」
「昨日まで……ですか?」
美景の言葉に、大川は懐から紙を取り出した。
「これは、今朝私に届いたものだ。今迄、同心たちの蛮行を見逃した罪でお役目を退け。そう記されている」
周りの空気が引き締まる。
「いいか、これは絶好の機会だ。犯人が自ら私の元に近づいてくるのだからな」
大川の目が輝いた。
「つまり、大川殿自ら囮になると……?」
「そうだ、私の護衛を頼みたいとはこういう意味だ」
忠親がこれに続く。
「現在、北町奉行所内で一番の剣の使い手は貴方達です。同心達ではもはや太刀打ちできないのが現状なのです」
「……なるほど、理由はわかった。だが、護衛が急に増えたとあっては、下手人も現われないのではないか?」
「心配はない」
実時の言葉に大川は笑みを浮かべる。
「君達の中におるではないか。外見は幼く、まだ子供のように見えながらも、実際はもの凄い剣豪、というぴったりな者が二人もな」
「…美景と、由紀彦か……」
「その通り、下手人ををおびき寄せ、捕らえるにはこれが一番だと思うが?」
いきなり自分の名前が出て、美景は驚きを隠せなかった。隣の由紀彦も目を丸くしている。
二人は隊長の言葉を待った。
「…美景、由紀彦、出来るか?」
「うんっ!」
「はい!任せてください」
「……では大川殿。二人を護衛に付けよう」
「かたじけない、実時殿。協力を感謝する」
・
「それで、我々はどうすればいい?」
二人きりになったところで、実時は大川に話し掛けた。
「奉行所内に不穏な空気がある。北町に限らず、南町にもだ。それを調査して頂きたい」
「南町か……、黒虎隊に協力を頼んでもよいか?」
「かまわん、実時殿のやりやすいようにやってくれ。なんなら、君達付き忍、彼らにも協力を頼めるといいのだが……」
「…話は通しておこう」
大川は深くため息を吐いた。
「…すまないな、実時殿。私はこれ以上仲間を失いたくないのだ…」
「…大川殿、まさか、まだ三瀬殿のことを……」
「すまない……」
大川は頭を下げると、店の外に出ていった。
「実時殿……」
気がつくと後ろに廉次郎か立っている。
「廉次郎か……」
「大川殿は未だにあの事件のことを引きずっているのですね……」
実時は黙って頷いた。
「……廉次郎、我々ものんびりしている暇はないぞ」
「…はい」
二人は顔を見合わせると、奥の座敷に引き返した。
・
「…すると、忠親殿は大川殿の屋敷で暮らしているのですか?」
「はい、もう随分になります」
美景の問いに、三瀬忠親は笑いながら答えた。
護衛の任を受けた美景と由紀彦は、奉行所へ戻る大川に付き添って街を歩いている。年の瀬ともあって、街は賑わいを見せていた。
「隆之助も、共に将俊さまのお屋敷で暮らしております。ああ、ちなみに隆之助が大川と名乗っておりますのは、将俊さまの養子となったからでして、私とはいわば兄弟みたいなものです」
後ろを見ると、由紀彦と隆之助が喋りながら、仲良く歩いているのが見て取れる。由紀彦と目が合うと軽く手を振ってきた、美景も手を振り返す。
「…隆之助はお役目柄、友人というものに恵まれてないのです。由紀彦殿と気が合ったようでホッとしました。美景殿、もし宜しければ、隆之助と親しくして頂けませんか?」
「ええ、僕でよければ、よろこんで」
「美景殿、ありがとうございます」
忠親は嬉しそうに笑った。
「しかし、お二人はなぜ大川殿のお屋敷に?」
武家では跡取りがいなくなると、商人や他の武家から養子を貰うというが、その類かと美景は思った。
「……ああ、私たち二人は身寄りがないのですよ。両親も亡くなりましたので」
「えっ……」
一瞬だけ、忠親の顔に影が差したような気がした。
「……すみません、失礼な事を聞いてしまって……」
「いえいえ、気にしないでください!」
美景がうなだれたのを見て、忠親が慌てたように言う。
「別に隠しているわけでもありませんから、どうかお気になさらずに……」
忠親は一旦言葉を切った。
「……私の父は同心で、将俊さまの友人でした。父はある事件に巻き込まれ、それが原因で母も弟も死んでしまって……、将俊さまが身寄りのない私を引き取ってくださったのです。…隆之助も同じです。あれは、とある大店の跡取りだったのですが、強盗に入られまして……。店は番頭に乗っ取られ、座敷牢の様な所で暮らしていたのを将俊さまが引き取ったのです。勿論、毎月の上がりはちゃんと持って来させてますがね」
忠親は笑みを絶やさず、楽しげに言う。
「忠親、あまり口外するな。それこそ私の首が飛ぶ」
「いやー、いまでも覚えていますよ。将俊さまが店の中に乗り込んでいって、奥に居た番頭に刀を突き付けてですね。『やい、番頭。恩を仇で返すとはまさにこの事だ。まさかおめぇ、この大川の目が黒いうちに、お店乗っ取りなんてぇ蛮行を見逃すと思ったかぁ、あぁ?』と凄んで番頭を脅しつけましてですね、それから……あでっ」
忠親の冗舌もそこまでだった。大川に殴られた忠親は、頭を押さえて踞っている。
「美景殿、今聞いたことは内密にお願いします」
「は、はい…」
通りのど真ん中で話しておいて、いまさら内密もないなと美景は思ったが、とりあえず頷くことにした。
「……して、大川殿。本日はどちらに行かれるのですか?」
「ええ、午前中に南町奉行所の方へ顔を出します。後は北町奉行所に戻って書類書きですな」
となると、危険なのはお勤めが終わった後の帰り道ということになる。考え込む美景に向かって、大川はつぶやくように言った。
「……美景殿、確かに我々は、民の平穏な暮らしを守るためにいる。だか、私は仲間の平穏な暮らしも守りたいのだ」
「…大川殿……」
「……美景殿、私が下手人と向かい合います。その際はよろしくお願いしますぞ」
「…はい、任せてください」
美景の言葉に、大川は軽く笑みを零した。
・
「へぇーっ、じゃあお前、色々ついて回ってんだ」
「はい、将俊さまと忠親に……いえ、忠親殿について、事件の捜査を行っております」
由紀彦の言葉に、隆之助は丁寧な口調で答えた。
「今は立場上、将俊さまの養子という形で、中間の仕事を手伝っております」
隆之助はかしこまって言う。
「…なぁ……」
「はい」
「その口調、どうにかならないのかよ?同い年くらいなんだし、その喋り方やめてくれよ」
由紀彦の言葉に、隆之助は目をぱちくりさせた。
「ですが……」
「ほらっ!」
隆之助はしばらく下を見ていたが、やがて観念したように口を開いた。
「…オイラ、商人の子だったから……」
「そういえば、養子だって言ってたっけ……」
隆之助が頷く。
「前に、間違って素で喋って、それで怒られて……」
「大川殿にか?」
「いいや、他の同心の人達。大川さまのお供でいるなら、喋り方を気を付けろって……」
隆之助は小声で言う。
「大川さまは、この喋り方でいいって仰ったけど、今度はそれで大川さまが陰口を言われ始めて、それで、オイラ……」
「あのバカ丁寧口調になったのか?」
「あれはこっちが卑屈に見えるけど、嫌な気になる人はいないから……」
「俺はやだよ」
由紀彦の言葉に、隆之助はさっと顔を上げる。
「俺は、隆之助が俺にあの喋り方で話すのは嫌だ。なんか他人行儀じゃん?今の方がずっといいよ」
隆之助はじっと由紀彦を見ていたが、やがて嬉しそうに笑った。
「……ありがとう、えっと……由紀彦…」
「うん。その方がずっといい」
由紀彦は隆之助に笑いかけた。隆之助も由紀彦に笑い返す。
隆之助が本当に笑っているところを始めて見たな……、由紀彦はそう思った。
ふと前を見ると、美景がこちらを振り返っているのが見て取れた。同心の三瀬忠親と親しげに歩いている。軽く手を振ると、美景も答えて手を振り返してきた。
「仲良いんだな……」
「うん、なんか、年の近い兄貴みたいなんだよね」
「オイラにとって、忠親もそうだ……」
隆之助が小声で言う。
「忠親はまだ若いから、同心の中に話の合う友人ってのがいないんだ。美景殿なら年もお役目も近いし、仲良くなってくれると良いな……」
隆之助はゆっくりと言った。
「由紀彦、出来たら、お前も忠親と仲良くしてくれよ……」
「うん、いいよ」
「ありがとう……」
隆之助は嬉しそうに言う。
「なぁ、隆之助。中間って大変なのか?」
「うん」
隆之助は小さく頷く。
「オイラ、体力ないから……。ボーッとしてて、いつの間にか知らないところに立ってるって事が、最近ある」
「最近?」
「ここ一、二ヵ月くらいで……」
ゴン
鈍い音がした。見ると、忠親が大川に殴られている。
「…ごめん、なんでもない……」
その後、隆之助がその話題に触れることはなかった。
・
「立派な建物ですね……」
「奉行所だからな、粗末では威厳に係わる」
美景の言葉に、大川は軽く答える。先程までいた北町奉行所も立派な造りだったが、南町奉行所もそれに劣らず立派な造りだ。
大川が奉行所内に入ると、顔見知りらしい同心が話し掛けてくる。先程の事件の影響だろうか、奉行所内からはピリピリとした、緊迫した空気が流れていた。
「どこか、北町と空気が違いますね」
忠親に小声で話し掛ける。北町奉行所はどちらかというと、もっとのんびりしていたような気がする。
「ええ、うちは温厚な者が多いんです。奉行さまと大川さまがあーゆー人ですから」
美景は先程まで御前さまと会っていたのだが、想像を超えた温和な老人だった。大川のあだ名・『鬼の大川』というのも聞いたが、どちらかというと『仏の大川』の方が正しいと思う。
忠親といい、隆之助といい、美景が抱いていた同心の印象とはかけ離れていて、むしろ南町奉行所の同心達の方が、想像通りといえた。
「こっちだ、美景殿。遅れないようについて来てくだされ」
大川が先頭に立って長い廊下を歩いてゆく。何度か角を曲がり、突き当たりまで来ると、大川はそこの襖を開け中に入った。中には誰もいない。
「さらに奥の部屋に御前さまがいらっしゃいます」
隆之助が小声で言った。
「北町奉行所吟味方与力・大川将俊、ただ今参りました」
大川が平伏した。それに合わせて美景達も平伏する。
「入られよ」
中から声がした。大川が立ち上がる。それに合わせて美景も立ち上がろうとしたが、大川に止められた。そして、小さな紙を渡される。
『ここで、中に居る奉行様と吟味方与力・桜田の言動に注意し、何か不審な点がないか注意せよ』
「…気付かれぬ様にな」
小さな声で、はっきりと大川は告げた。大川、忠親、隆之助が中に入る。美景は由紀彦に紙を見せると、閉じた襖に耳を寄せ、中の様子をうかがった。
「……大川殿、お久しぶりです」
年老いた老人のような声がした。
「桜田殿、年の瀬というのにお互い大変ですな」
「フフフフフ、それは言いますまい。お役目ですからな」
「奉行様のご様子は?」
「見ての通りでございます。お役目には差し支えないとはいえ、療養した方がよいのは明白なのですが……」
「何かの病では?」
「医者もさじを投げてしまって……」
当たり障りのない会話が続く。
じれったくなったのか、由紀彦が小声で話しかけてきた。
「おい、美景っ、美景っ。不審な点ってなんだよ?」
「えっ、僕に聞かれても……」
「ぜんっぜん、どこも不審な点なんかないじゃんか……」
「…うん?そこに居るのは誰だ?」
二人は慌てて口を閉じた。
「桜田殿、いかがなされた?」
「大川殿、どうやら次の間に誰かおるようですが……」
完全にばれているようだ。
「どーすんだよっ、美景っ」
「しっ、静かに……」
とりあえず大川に判断を任せるしかない。突如、大川は笑い声を上げた。
「ど、どうなされた、大川殿?」
「はっはっは、いや、失敬。貴方が余りに慌てなさるもので、少々驚きました。…次の間に控えているのは、私の部下でして…二人とも出てきなさい」
美景はさっと襖を開けて平伏した。
「この者達は……あー…私の小姓でして、身の回りの世話などを……」
「…小姓!?俺達は小姓なんかじゃ……ふぐっ」
余計なことを口走りそうな由紀彦の頭を押さえ付ける。
「あれ、大川殿にはそこの隆之助君がいるのでは?」
「隆之助は私付きの中間でして、将俊さま付きの者はいなかったのですよ」
忠親が巧く言い逃れた。
「そうか、お主ら、名は何という?」
美景はこっそりと横を見ると、大川に小声で尋ねる。
「……本名で構いませんか?」
「…構わん、どうせ名前までは知らんだろう」
美景は顔を上げると、桜田の顔を正面から見た。
「…朝倉美景と申します」
言いながら男の様子を観察する。先ほど聞いた声の感じより、ずいぶん若い感じがする。その事に少し違和感があった。
隣には年を取った老人の姿が見える。おそらく奉行さまだろう。しわしわで、どこを見ているのかわからない様子だった。
再び桜田を見ると、その目線とぶつかった。
桜田は美景をじっと、食い入るように見つめている。
「…高田由紀彦です」
由紀彦の声で、桜田ははっとしたように目線を逸らした。
「…お二人ともお若いな」
「親戚筋から頼まれまして……、まだ礼儀も何も知らん者達なので次の間に控えさせていたのです。すまないな、驚かせて」
「いえいえ、こちらこそ。事情も知らずに……」
それからの会話の中で、桜田の目線が美景を向くことはなかった。
・
「どうだったかな?美景殿、由紀彦殿」
北町奉行所の自室に帰ると、大川はさっそく切り出してきた。
「はぁ、何となくなんですが、声とお顔の印象が随分違う気がしました」
「あ、俺もっ!なんか喋ってるのは別人、って感じがした」
「やはりそうか……」
大川はじっと考え込む。
「……もしかしたら、将俊さまの予想が当たっているのかも知れませんね」
忠親がボソッと呟いた。
「だとすると最悪だな……」
大川の目は暗い。
「……あの、それで、先程の指示は一体……?」
「ああ、いきなりですまなかったな。驚いただろう?」
「ええ、まぁ……」
「俺は小姓って言われたほうが驚いたけど……」
由紀彦の言葉に、大川は軽く笑みを零す。
「すまない、すまない。あそこはああ言うしかなかったのだ。桜田に、私の護衛が増えたと知られるわけにはいかなかったのでな」
「桜田殿にですか?」
「ああ、君たちに余計な先入観なく彼を見てもらったのはその為だ」
「つまり、大川殿は桜田殿を疑っているのですか?」
大川は数秒間弧空に目をやった。
「…今回の事件、被害者の同心は、実はもっと色々な問題があってな。商人と繋がって金を受け取っていたり、解決しそうもない事件の下手人を無理矢理作り出したり。そんな事まで調べられるのは、奉行所の人間しかおらん。そして……」
大川はそこで言葉を切った。
「いや、先入観は危険だ。……ところで君たち、お腹がすかんかね?」
急に明るい口調で大川は言った。
「えっ?」
「今朝行った店、あそこで蕎麦でも食おうと思うのだが、どうだね?」
「奢ってくれんの?」
「もちろんだ」
「やったぁ!」
由紀彦が無邪気に喜んでいる。
「年越し蕎麦、いかがですか?」
忠親がほほ笑みながら言った。
「……そうですね……じゃあ、ご馳走になります!」
「うむ、では行こうか」
みなは暖かい蕎麦に有り付くため、奉行所を後にした。
・
「どうでしたか?」
「どうもこうも、きな臭い連中がはびこってやがるみたいだ」
廉次郎の言葉に、惣助ははき捨てるように言う。北町奉行所を調べていた惣助と館羽は、廉次郎達より早く戻ってきていたのである。
「きな臭いとは?」
「大川の旦那の周りには、反対勢力だらけだ。旦那が引退して、あの三瀬ってぼうずが跡を継いだら、即刻飲み込まれちまうだろうよ」
「大川殿はかなり厳しい御方で、同心達からも恐れられているからね。今は表だって反抗してないけれども、大川殿になにかあれば、御前さま一人じゃ押さえきれないと思うよ」
惣助と館羽の言葉に、実時は顔を曇らせる。
「事態は思ったより深刻か……」
「ええ、敵が多すぎます」
「民の為に動く者は、周りから疎まれやすい。吟味方が大川殿になって奉行所も大分改善されたが、未だに敵対勢力は多いのだな……」
「…でも敵を作りすぎだろ、もう少しやり方ってもんがあるだろが」
惣助が呆れたように言った。
すると
「おーい、実時。いるかー!?」
店の入り口から、大きな声が聞こえてくる。
「一、こっちだ」
実時の声に導かれ入ってきたのは、黒虎隊長・槙村一である。
「後のお二人はどうしたんです?」
「俺たちも暇じゃないんだ、俺だって何とか抜けてきたんだぜ」
廉次郎の問い掛けに、なぜか誇らしげに一は言った。
「んで、話ってのは?」
「うむ、南町奉行所で最近何か変わった事がないか教えてほしい」
「変わった事?」
実時の言葉に、一は腕を組む。
「……最近だろ?うーん……変わった事といえば、御前さまが廃人みたくなったのと、吟味方与力の桜田が別人みたくなったことかなぁ……」
「廃人に別人?」
館羽が聞き返す。
「ああ、御前さまは仕事はしっかりやるんだけど、会話が出来なくなったし、桜田はなんていうか……口調というか、声の質というか……別人が話してるみたいなんだよな……」
実時は眉を潜める。
「実時殿……」
「……大川殿はお役目が明けたらここに来ると言っていた。対応はそこで協議しよう」
「…ところでこれ、何の話なんだ?」
一人何も知らない一が、不思議そうに聞いた。
・
江戸の町は不思議な所で、一本通りをずれるだけで不思議と人通りがなくなったりする。栄屋に向かう一行かこの通りに差し掛かった時、美景はなぜか悪寒に襲われた。
ドサッ
前を歩いていた隆之助が突如倒れこんだ。
「お、おい。大丈夫か?」
由紀彦が助け起こす。
「ごめん、由紀彦。……ありがとう」
隆之助は起き上がると、あっ、と叫び声を上げた。
「将俊さま、申し訳ありません。忘れ物をしてしまったので、取りに戻らせて頂きます」
「そうか、気を付けろよ」
「はい」
美景はふと違和感を感じたが、何かはわからなかった。
「では私もついて行きますね。隆之助一人では心配ですから……」
忠親も後を続く。
三人になった一行は、再び歩き始めた。
「なぁ、美景。何か変じゃないか?」
「うん、そういえば……」
さっきより辺りが暗く、空気が淀んでる気がする。
「大川殿、気を付けて……」
言い掛けた美景は言葉を失った。大川が刀を抜いている。そうして後ろを向くと、由紀彦に目がけて斬り掛かった。
「うわっ」
咄嗟のことで、由紀彦は刀を抜くのが遅れた。大川の刄が由紀彦の上に振り下ろされる。
「由紀彦っ!」
ジュバッ
何かが切れる音がした。
「……あれ?」
由紀彦が頭に触れて、自分の無事を確かめる。
「後ろだ!」
大川が叫んだ。とっさに由紀彦は刀に手を掛けると、やみくもに後ろに振り回した。
ジュバッ
何かを斬った音がした。
「ギュアァアァ」
おたけびが聞こえて、後ろの物体が動かなくなる。そのまま地面に落ちた。
「これは……あやかしか?」
大川が呟く。
「…そんな、まさか……これは『かまいたち』……?」
美景は信じられないといったように呟いた。
こんなところに妖怪がいるはずないのだ、妖怪はすべて消えたはず……。
そこまで考えて、美景はハッとした。
確かに前の事件、西原殿によって呼び寄せられていた妖怪は、すべて消えたと思われていた。
だが、それの生き残りがいたとしたら?
剣の心得がある同心が、刀を抜く間もなく殺されている。
子供のような下手人。
これはもしかして、妖怪が子供に憑依していたのではないか。そうして街を守る同心を殺して、街の人の不安を増大させる。
不安は妖怪の力を増大させる。もし、このまま辻斬りが続けば、いずれは民に伝わる。いや、もし町の人に被害者が出れば、奉行所はもう隠しておく事は出来なくなる……。
美景の思考はそこで途切れた。
キンカンキン
通りの向こうから刀のぶつかり合う音が聞こえる。
「しまった、忠親と隆之助かっ!」
大川が叫ぶ。
「行くよ、由紀彦っ!」
「おうっ!」
三人は急いで通りを引き返した。音はすぐ近くまで迫ってきている。
角を曲がると、忠親の姿が見えた。複数のかまいたちに囲まれている。
「忠親殿っ!」
「…美景殿!」
忠親の足元にば、何体かのかまいたちの骸が転がっていた。
「忠親、無事でよかった。隆之助は?」
「申し訳ありません、将俊さま。やられました」
忠親の指差す方を見ると、小さな人影が倒れているのが見えた。
「息は!?」
「わかりません!」
二人とも喋りながら剣を振るっている。かまいたちがまた地面に転がった。
「美景っ、数が多すぎるよ」
由紀彦が剣を振るうたびに、稲妻で辺りが明るく光る。その光で敵の数を判断するに、かなりの大群と見て間違いなかった。
「くっ……」
襲い掛かってくるかまいたちを斬り捨てながら、美景は心を静かに、そして集中力を高めていく。すると、美景の体がボゥと白く光りだした。それを見るや、かまいたちは明らかに怯んだ。好機とばかりに美景は力を解放する。
ギュアァアァ
断末魔の声を上げて、ほとんどのかまいたちは消え去った。
「やったな!美景っ」
「…見事だな……」
「ええ、すばらしいですね……」
「そんな大したものでは……それより早く全部倒さないと!」
運良く生き残った数体が、まだ攻撃しようと辺りを取り囲んでいる。
「うむ」
「すみません、まだ終わってませんでしたね」
「いくぞっ、そりゃっ」
由紀彦の剣によって再び辺りが明るくなる。その瞬間、美景は再び信じられないものを見た。
大川の後ろに、何か黒い小さな影が立っている。はっきりとは見えなかったが、明らかに刀を振り上げているのだけはわかった。
「大川殿っ、後ろ!」
美景の言葉に、大川より早く横にいた忠親が反応する。
ギン
鈍い音がした。忠親が小さな影の刀を受け止めたのだ。
「くっ……重い……」
だが小さな影も負けていない。一瞬刀を引き、忠親のバランスを崩すと、一気に体当たりで吹き飛ばした。
「…死ね……」
老人のようなしわがれた声がした。小さな影はそのまま大川の方へ向かう。だが、大川の方が早かった。小さな影の射程に入る前に、素早く刀を引き抜いた。見事な居合いだ。
シュバッ
刄が小さな影を捉える。
「…ぐっ、貴……ま…さと……さ……ま………?」
小さな影は一言そう呟くと、素早く闇に溶け込んだ。
「大川殿、ご無事ですか!?」
「……」
大川は黙ったまま闇を睨んでいる。この時初めて、美景は大川が鬼と呼ばれる所以を知った。闇をじっと睨み付ける眼差しは、鬼そのものだった。
「…大川殿……?」
美景の言葉に、大川はようやくこちらを向いた。いつもの温厚な顔に戻っている。
「私は大丈夫だ。それより忠親と隆之助を……」
「はい!」
辺りを見回すと、忠親が倒れているのが目についた。由紀彦が傍について、必死に呼び掛けている。
「忠親殿!」
美景は慌てて駆け寄った。
「……う…ん、…美景殿…と…由紀彦……殿……?」
朦朧としているようだが、何とか意識はあるようだ。
「…りゅ…うの…すけ…は……?」
「……あい、忠親さま」
いきなり後ろから声がして、二人は飛び上がった。
「りゅ、隆之助君?」
「隆之助っ!無事でよかった……」
由紀彦が言い終わる前に、隆之助は由紀彦に向かって倒れこんだ。
「なっ……隆之助っ!お前、血だらけじゃんかっ!」
由紀彦は隆之助を地面に寝かせる。暗闇でもはっきりわかるほど、隆之助の着物は薄黒くなっていた。
「美景っ」
「うん、任せて!」
美景は応急処置を施す。
「…大丈夫です、臓物までは斬られておりません……。皮膚の表面を引き裂かれた程度で……」
「バカっ、喋るなっ!」
由紀彦は涙声になっている。
「由紀彦殿、人手が要る。栄屋に行って、皆さんを呼んできてもらえないか?」
いつの間にか、大川が後ろに立っていた。大川の言葉に由紀彦は頷くと、一目散に駆け出す。
「隆之助……」
「将俊さま……申し訳…ありません……」
どこで騒ぎを聞きつけたのだろう、野次馬が集まってきていた。
・
「休み……ですか?」
美景は思わず声を上げた。
「ああ、隆之助君の療養の為、今日は外出を控えるらしい。護衛も必要ないとの連絡があった」
実時は淡々と話す。
「昨日の疲れもあるでしょうから、今日はゆっくり休んでください」
「…はい、わかりました」
廉次郎の言葉に、美景は頷くしかなかった。
「美景、それならさ、隆之助のお見舞い行こうよ。俺、心配だしさ」
「…うん、そうだね。じゃあ、行こうか」
「うん!」
正月の人の流れの中、二人は大川邸に向かった。
・
「あれ?隆之助じゃない?」
由紀彦の言葉に、美景は顔を上げた。
「本当だ……」
「何してんだろ?おーい、りゅうの……」
「待って!由紀彦」
美景は由紀彦の口を押さえる。隆之助は一人ではなかった。後ろには大川と忠親が並んで歩いている。
「大川殿、今日は外出しないはずじゃ……」
「初詣じゃない?ほら、神社の方に向かってくし」
三人は確かに神社の方へ向かっていく。
「由紀彦、つけてみよう」
「えっ、おい待てよ!美景ーっ!」
二人は大川の後をつけ始めた。
神社が近くなるが、三人はそこへ入っては行かない。むしろ、人の少ない方へ向かって歩いていく。やがて、三人は神社横の林の中へと入っていった。
「美景っ、見失っちゃうぞ!」
「由紀彦っ、走るよ!」
二人も林の中へと進む。
やがて前方で話し声が聞こえてきた。二人は茂みのなかへ隠れる。、そこから様子を伺った。
「……やはり、お前なのだな。隆之助」
「……あい」
「いつからだ?」
「一、二ヵ月前からでございます」
大川と忠親の二人が、隆之助と正面で向かい合って立っている。
「すみません、将俊さま……」
隆之助は涙声になると、地面に平伏した。
「…オイラ、恐くて……。また、檻ん中入るのかと思うと、恐くてたまんなくって……。将俊さまにも、忠親にも、嫌われてしまうんでねかって……」
「いい、隆之助。お前は悪くない……」
大川は刀を振り上げた。
「用があるのは、お前の中に居る奴だ。……出て来い!私はすぐ傍にいるぞ!!」
急に辺りの空気が淀みだした。昼間だというのに、薄暗くなっている。
「……フフフフ、大川将俊。自ら死にに来るとは、馬鹿な奴よ」
隆之助がふっと立ち上がった。昨日聞いた、小さな黒い影の喋り方だ。どことなく老人のような、嫌な感じの……。
「フフフフ、死にたいのなら遠慮はいらない。……死ね」
どこかでこの声を聞いた気がする。
昨日どこかで……。
あの笑い方……。
老人のようなしわがれた声……。
そこまで考えて、美景はハッとした。
「桜田……」
だが、考えるのもそこまでだった。
「美景っ、あれ!」
隆之助が刀を抜くと、大川に斬り掛かった。大川が受け止める。
「由紀彦っ、行くよ!」
「うん!」
二人は飛び出した。
「忠親、うまくやれよ!」
「はい!」
横から忠親が斬り掛かる。それを隆之助が受け止めた。
「甘いな、三瀬忠親。峰打ちですませようなど、片腹痛いわ!」
隆之助の刀が舞った。刄が忠親に襲い掛かる。
「あぶない!」
大川が忠親を突き飛ばした。
ジュバッ
刀が大川を切り裂く。
「大川殿!」
美景は慌てて駆け寄った。
「美景殿……?なぜ……ここに?」
「話は後です。今は隆之助君を止めないと!」
忠親と共に、由紀彦も隆之助と向かい合う。
「隆之助、負けるな!しっかりしろっ!」
「由…紀…彦……?」
隆之助の目に、一瞬だけ光が戻る。
「隆之助っ!」
忠親が駆け寄る。隆之助の手に力が籠もった。
「危ない、忠親殿!」
美景の叫びも虚しく、鮮血が飛び散った。だが、忠親は倒れずに、隆之助を抱き締める。
「美景殿っ!今のうちに!」
美景は素早く集中力を高める。すると、美景の体がボゥと白く光りだした。刀を構えると、美景は隆之助に突進する。
「ダメだ、美景っ!斬るな!」
由紀彦の叫びが聞こえた。美景は刀の柄を前に向けると、隆之助の水月を突いた。
「ぐうっ、やはり……この力は……」
隆之助の口から黒い影があふれ出る。
「由紀彦っ!」
「うん!」
由紀彦の刀が宙に舞う。
ギュアァアァ
稲妻を受けた黒い影は鈍い声を上げて、塵となった。
「……由紀彦!美景!」
遠くから声が聞こえてくる。
「隊長、こちらです!」
見ると、実時達がこちらに駈けてくる。
「隊長、なぜここが?」
「近隣の住民から通報があった、それより……」
実時は辺りを見回した。
「遅かったか……」
苦虫を噛み潰すように、実時は呟いた。
・
「一人の中間の乱心!?そんな……」
「奉行所の判断だ。大川殿がいない今、これを覆すのは難しい」
実時は厳しい顔で言う。
「でも、あれは明らかに妖怪の仕業です。桜田殿の体に、妖怪が……」
「だが証明できない。それどころか、桜田は誰も通さぬようにと申し付け、南町奉行所に籠もっている」
「だからって、隆之助を見殺しにするのかよ!」
由紀彦が叫んだ。
「由紀彦……」
「俺、やだよ。友達を見捨てるなんて、絶対出来ない!」
由紀彦の言葉に、全員が押し黙る。
「……一つだけ、方法がある」
実時が呟いた。
「霧鵺殿……」
土蛇衆の霧鵺が音もなく立っていた。
「霧鵺殿、南町奉行所に忍び込むことは可能か?」
霧鵺は一瞬考えたが、
「……あそこは警備が厳しすぎます。見取り図と、何か陽動がなければ……」
「よし、それなら問題はない。我々が正面から斬り込む。その間に、美景、由紀彦、お前達は霧鵺殿と共に内部に潜入、桜田を討て」
「隊長……」
「実時兄ぃ……」
実時はふっと笑みを零した。
「肝心の見取り図ですが……、恐らく大川殿なら心当たりがあるのではと。当たってみる価値はあります」
「廉次郎殿……」
「廉次郎兄ぃ……みんな……ありがとう。行こう、美景っ」
「うん!」
二人は再び大川邸へと駆け出した。赤い月が二人を照らしていた。
・
「南町奉行所の見取り図か……確かあそこに……」
立ち上がろうとして、大川は痛みに顔をしかめた。
「大川殿!」
「……情けないな……。そこの書棚にあるはずだ。探してくれるか?」
「はい」
二人は立ち上がった。
「……美景殿、探すついでに昔話を聞いてくれるか?」
ゆっくりとした口調で、大川は話しだした。
・
私には二人の友がいた。一人は忠親の父・忠正、一人は隆之助の父・勝之助。立場や身分に違いは有れど、我々は親友だった。
もう何年にもなるか……忠正が死んだのは。
あいつは当時、やくざ者を追っていた。ただの下っぱではなく、大物中の大物をな。ようやく尻尾を捕らえ、捕まえた矢先に……あいつは殺された。手下の奴らがあいつを恨んでな。
私が駆け付けた時、忠親は呆然としたいたよ。まるで魂が抜けたようだった。
忠親があそこまで回復したのも、隆之助がやってきたからだ。
隆之助に聞いたのだろう?あの時、担当の同心はろくに捜査もせずさじを投げてしまってな。南町奉行所のことだったから私も口を出せず、気付いたときには手遅れだった。
隆之助があやかしに取りつかれ、同心を斬ったのも、同心に対する恨みなのだろうな……。そこを、あやかしに付け込まれた。
ずっと傍にいた私に斬り掛かってこなかったのは、私のことを、少しは親と認めていてくれたのだろうか。……思い上がりかもしれんがな。……忠親、隆之助の二人は互いを助け合って生きてきた。……それを私は守りたかったのだが、それも叶わなかったな……。
・
忠親は青白い顔を向けた。
「そうですか、将俊さまがそんなことを……」
忠親の目に涙が浮かぶ。
「美景殿、由紀彦殿、私の昔話も聞いて頂けますか?」
二人はゆっくりと頷いた。
私があの日、目を覚ましたのは、夜半も過ぎた頃でした。母に叩き起こされ、弟を任されました。
弟は、生きていればちょうど隆之助と同い年になります。
やがて、刀の音と、母の悲鳴が聞こえてきました。私はとっさに父の刀を掴むと弟と一緒に布団を被りました。ですが、所詮子供の浅知恵、簡単に見つかり、弟と私は引き離されました。泣き叫ぶ弟を見て、賊は嫌気がさしたのか、刀を振り上げた。
私の手には父の刀が。弟は確かに叫びました。
兄ちゃん、助けて!と。……私は恐怖で何も出来ませんでした。私の体が動いたのは、弟に刀が突き刺さり、目に光が無くなってからでした。
私は夢中で刀を抜くと、男に斬り掛かりました。……気が付くと、辺りは血まみれ。私以外は骸になっていました。
……私は、助けられたはずなのです。弟も、そして隆之助も……。助けられた……はずなのです……。
・
「美景。隆之助、助けような」
「うん、絶対に、ね」
二人が栄屋に戻ると、さっそく作戦会議が始まった。
「いくぞ……」
夜もすっかり更けた頃、実時の声と共に、白狼隊が出撃した。
・
桜田は一人酒を飲んでいた。これほどまでうまく行くとは思わなかった。これで、大川の失脚は明白だった。
内から聞こえてくる闇の声、それに耳を傾けて以来、全てが思うようにいった。真っ先に御前を自分の下僕にし、力をもって北町奉行所に大川への不満を根付かせた。人の心など容易いものだ。
もう一杯酒を飲もうとすると、
「桜田さま!」
息を切らして同心の一人が駆け込んできた。
「何事だ!」
「夜襲です!」
「なにっ!」
まさか北町のやつらか……。
「黒装束の一味が入り込んでおります!少数なのですが、とんでもなく強く、歯が立ちません」
「全ての同心を差し向けよ、ほら、お前も行け!」
「は、はい!」
同心は一目散に駈けていく。
「予想どおり、だれもいなくなったな」
ほっとしたのも束の間、どこからか声が聞こえてきた。
「だれだ、どこにいる!」
ドスン
天井が落ちた。
「こんな簡単に引っ掛かるなんて思わなかったよ。さぁ、覚悟しろよ」
大川の小姓だった。忍びらしき者も一緒にいる。
「桜田殿、覚悟……」
小姓のうち、背が高い方が刀を構える。体が白く光って見えた。
やはり、こいつは危険だ、大川に紹介され、最初に見たときの予感が的中した。
「貴様ら、何者だ?」
「白狼隊、朝倉美景……」
「白狼隊、高田由紀彦……」
「なっ、白狼隊だと……」
まさか、こいつらが……
「覚悟!」
小さい方の小姓が斬り掛かってくる。鋭い稲妻が体を走りぬけ、足取りがふらついた。なんとか刀を抜こうとするが、遅かった。
大きい小姓が目の前に立っている。桜田の視界が、白く染まっていった……。
・
「あっ、隆之助っ!それ俺んだぞ!」
「違う、オイラが目ぇつけてたんだ!」
「あっ、返せよ!」
桜吹雪が舞う中、由紀彦と隆之助が走り回っている。
「美景殿、いかがですか?」
「はい、おいしいです」
「よかった、早起きしたかいがありました」
「もしかして、これ……」
「はい、私が作りました」
忠親がにっこりと微笑む。大川と大人組はむこうで酒を酌み交わしている。
駆けっこしていた二人が戻ってきた。結局、隆之助が食べ物は飲み込んでしまったらしい。隆之助は戻ってくると美景の横に座り、黙って甘酒を注いだ。
「……美景殿、ありがとうございました」
小さな声で呟く。
「オイラ、自分で知らないうちに、同心を嫌う心を、あやかしに付け込まれました……。もしかしたら、忠親も将俊さまのことも、殺してたかもしれね。……遅くなったけど、美景殿……ありがとうごさいました」
隆之助はそう言うと、美景の顔を見て笑った。
今年から、忠親は正式に与力に、隆之助は同心見習いになることになっている。三人の傷も癒え、奉行所は落ち着きを取り戻した。
風が桜を巻き上げている。新たな出会いによって、また楽しみが増えてゆく。いつまでもこんな時が続けばいい。美景は心からそう思った。
春、出会いの季節。また新たな出会いをつれて、新たなる一年が始まった。
終わり
- 作者様より -
二次創作に初めて挑戦しました。キャラが違うと思われるのではないかと少し心配です。
長いかもしれませんが、目を通して感想などをいただけると幸いです。