過当迷走 (作:熊本いのこ)
秋分を過ぎた夜の空気は透き通っていて、光と影を生みながら煌々と降り注ぐ月の光を慎ましく地上へと案内する。静かな、けれど人の息遣いを感じる江戸の夜。時刻は戌の上刻に入ったばかりだ。
床に入るにはまだ早い。
読みかけだった書の続きを読むか、それとも秋月を肴に一杯やるか。
そんな事を頭の隅で考えながら、惣助は自室へ戻るべく廊下を歩いていた。
空に雲の姿は無く、その所為か少し肌寒い。
足の裏も床に熱を奪われて冷たくなっている。
(風邪引いたらまずいし、大人しく部屋で読書でもすっかな…)
そう思いつつ角を曲がる。
と、その先に人影が見えた。
「あれ? 実時、お前もう寝るのか?」
見れば彼はすでに寝衣に着替えている。
「あぁ、明日は早めに出頭しなければいけないんだ」
「成る程。 朝餉はどうする?」
「一度戻ってくるから、その時に頂こう」
「分かった、んじゃ残しておくからな」
絶対に食べろよ、と念を押しつつお休みと口にする。
部屋に入るとさすがに廊下よりは暖かかった。
そのまま本を積んである一角に向かい、読みかけの本を探す。
「確かこの辺に……っと、有った有った」
薄っすらと埃がかぶっていたので手で掃う。
考えてみれば、こうして夜をゆっくり過ごすのも久しぶりだ。
行灯の横に座り、頁をめくる。
静かな時間がしばし流れた。
「……?」
足音が聞こえて、惣助は顔を上げた。
その足音は静かに近づいてきている。
このあたりには自分の部屋しかない。
となると、相手の目的地はここだろう。
(誰だ?)
使用人達も、この時間なら与えられた部屋でくつろいでいる。
余程の用が無い限り自分の所へは来ないはずだ。
本を閉じて身構える。
はたして音は部屋の前で止まり、ゆっくりとふすまが開けられた。
その向こうに立っていたのは――
「…実時?」
困り果てた表情の我らが白狼隊隊長 片桐実時であった。
時間は少し遡る。
部屋に向かった実時は、部屋のふすまが開いている事に気がついた。
一瞬物取りでも入ったかと焦ったが、しかしふすまの開き具合ですぐに理解した。
猫が入り込んだのだ。
彼等は中々器用なもので、爪を使ってふすまを開ける事がよく有る。
見れば予想通り、部屋の中に猫の姿が。
――が、問題はそこからだった。
「猫に布団を乗っ取られただぁ!?」
「そんな声を出さなくても良いだろう…」
思いっきり呆れている惣助の声を聞いて、実時は顔をしかめる。
そう、部屋に入った猫は、予め敷いておいた布団の上で寝ていたのだ。
それも一匹二匹ではない。
どう見たって片手では余る数である。
おそらく暖を求めて布団に上がったのだろう。
確かに床の上で寝るよりも、布団の上のほうが暖かい。
それに、猫同士がくっつく事でさらに暖かくなる。
「それは分かったけどよ……。だったら猫どかせば良いじゃねぇか」
惣助が至極もっとも事を言う。
しかし、相手はあの実時殿である。
「そんな非情な事出来るわけが無いだろう!『どかさないで』『このままでいさせて』と目で訴えかけられたんだぞ。そんな事をしたら罪人になるではないか」
「~~~~~~っ」
平然とそう言い返されて、惣助は思わず頭を抱えた。
猫に対して、いや猫だけではないのだが特に猫に対してこの男は甘い。異常なほど甘い。
分かってはいたが、こうも改めて実感すると頭が痛くなる。
この様子だと、自分がどかすのも止めるだろう。
思わずため息が出た。
「だったら客用布団を出せよ。敷いてすぐに入れば猫に占拠されねぇんだから」
わしわしと頭をかきつつそう提案する。
「それは無理だ。客用布団は無い」
「何でだよ、いつも急なお客のためにいくつか予備が…って、あ―」
そこまで言って気が付いた。
使っていない布団は、綿の打ち直しの為先日業者に預けてしまっていたのだ。
勿論まだ戻ってきていない。
何と言う間の悪さ。
「「…………」」
二人の間に沈黙が降りた。
「ど―すんだよ…」
呻きながら惣助。
「どうしたら良いのか分からないから聞きに来てるんだ」
苦虫を噛み潰したような顔の実時。
「言っとくけど、俺の布団に二人寝る余裕は無いぞ」
「分かってる」
「ついでに言うと由紀彦は寝相が悪い」
「知っている」
「寝ないと不機嫌になるんだから、夜通し起きてるっつ―のは駄目だからな」
「あぁ」
「屋敷を持っているお前が宿に泊まったら確実に変な噂が流れるから、それも駄目だ」
「だろうな」
「で、どうすんだ?」
「どうしたら良いのだろうな」
「「…………」」
再度沈黙。
じじじ…っと蝋燭の燃える音がやけに大きく聞こえた。
大通りは活気に溢れていて暑く、軽く汗ばんでしまうほどである。
時折駆け抜ける涼しい秋風がありがたい。
目に入る太陽の光を手で遮りながら、美景は惣助と並んで歩いていた。
彼らの前には、周囲に不機嫌な気を漂わせて歩く実時の姿。
(で、結局どうしたんですか?)
彼に聞こえないよう、小さな声で美景は尋ねた。
隊長が不機嫌だった為、その理由を聞いていた所だったのだ。
(どうするもこうするも、仕方が無いから何枚も着物をかけて寝たんだよ)
勿論下にも何枚か着物は敷いたが、布団とは雲泥の差が有る。
固いし寒いしで、あまり寝れなかったらしい。
(あぁ、だから不機嫌なんですね…)
(全く迷惑な話だよ)
溜息と共に惣助が言う。
と、前を歩いていた実時が立ち止まり振り返った。
後ろでこそこそ話しているのに気が付いたのだろう。
眉間に皺がよっている。
「お前たち何を話している」
声も不機嫌そのもの。
「いえ、何でもないです」
慌てて誤魔化す美景を見てさらに眉間の皺が深くなったが、彼はそれ以上は追求せずに再び歩き出す。
こっそりと溜息をつく後ろの二人。
(今日はずっとこの調子なのかなぁ…)
美景の心の中の悲鳴は、実時に当てられる全ての人の悲鳴。
余談だが、この日を教訓として、片桐家には必ず予備の布団が一組置かれる事となったらしい。
- 作者様より -
タイトルを考えるのが凄く苦手なので辞書とにらめっこしながらつけました。(その割には作品に沿っていない題名/汗)。
由紀彦の寝相は悪いと書いてしまいましたが、良かったらどうしよう…。
因みに私は隊長のような仏心は無いので、奪還してしまいます(笑)。