春風 (作:白湖朱菜)
江戸が誇る、商いの町に敷かれた長い小道が朝日に照らされ始める。冬至も過ぎたので、日の出は少しずつではあるが早くなってきていた。
町人地の朝は忙しい。何処も彼処も品の入荷や店先の掃除に、手を休める暇などないからだ。勿論庄吉も例に漏れず、箒を片手に日課となった鍛冶場の掃除を始めたところだった。
「すみませーん! 庄吉さん、起きてますか?」
外から柔らかく、高めな調子の呼び声がかかる。
こんなに早い時間帯に何事だろうかと引き戸を開けると、戸の前にはうら若き女武者――鈴音が立っていた。走ってきた所為だろうか、顔が上気している。
「あれ、鈴音さん?……もしかして刀の調子、悪くなっちゃいました?」
「ええ、そうなんですよー……今日はどうしても外せない任務があるので、その前に庄吉さんに見てもらおうと思って。朝早くにすみません……」
「それは構わないですよ、刀の不備で鈴音さんが怪我してしまったらこっちも心苦しいですし。ごめんなさい、掃除、途中なんでちょっと散らかってるんですが……良ければ入って下さい」
庄吉は鈴音を招き入れ、早速鍛冶の支度をする。きっと彼女は急いでいるだろう……外せない任務があるのなら、尚更のこと。
刀を見たところ、幸いにも不具合な箇所は少ない。これならばそこまで時間を貰わなくても、元の状態に戻すことは充分可能だ。
そう告げると、鈴音は心底安堵したようだった。
「良かったあ。私、まだ戦い方が未熟だから、刀にも負担を掛けちゃってるみたいなんです。もっと修行しなきゃ駄目ですね……」
目線を落とし、自身への戒めである苦笑を浮かべた鈴音。可愛らしい外見とは裏腹に、内面は一人前の猛き侍だ。
庄吉は、こういう時何と言ったら良いのかが未だにはっきりと判らなかった。
武士ではない自分には、武士の気持ちは判らない。民として守られる立場の自分には、民を守る立場の鈴音の気持ちなど判る訳もない。
しかし、武士ではないからこそ、守られているからこそ言える事がある。
「俺は戦い方の事はよく判らないんですけど……でも鈴音さん、頑張ってるじゃないですか。俺達町人は鈴音さんがそういう真摯な姿勢を見せてくれるから、安心して暮らせるんです。
……だから、そんなに落ち込まないで下さい。鈴音さんの刀だって、こんなに大事に扱ってもらえたら本望ですよ、きっと」
果たしてこの言葉が彼女の心に届くのか、慰めになるのか、逆に傷つけはしまいか……そう考えるけれど。
「そう、ですよね。有難うございます、庄吉さん。そう言ってもらえると、私ひとりで戦ってるんじゃないんだなって事が判るから……私、もっと頑張れるんですよ!」
この、どこかあどけなさの残る屈託の無い笑顔が返ってくる。その事が庄吉の心を穏やかに、又温かくさせるのだった。
刀の綻びを繕い、最後の仕上げに取りかかった庄吉の耳は、また外からの呼び声を捕らえた。途端に彼はもうこの声は聞き飽きた、と言わんばかりに顔をしかめる。
「庄吉さん? どうかなさったんですか?」
「ええ……またか、と思いまして。あ、大丈夫です、大した事じゃないですから。……はい、今出ます」
今までとの雰囲気の違いを読み取った鈴音を軽く制し、庄吉は決然とした面持ちで萎びた色の戸を開ける。瞬時に目に飛び込んできたのは厳つい体格の男だった。
二人はそのまま暫く黙っていたが、とうとう痺れを切らした庄吉が半ば投げやりに口を開く。
「また例のお誘いですか? 俺はそんな器量の持ち主じゃないって、毎回申し上げているはずなんですけど」
「嘘を吐くな。江戸城下に仕える刀工共の内では、お前の手腕の話が毎日飛び交うと聞くぞ。……お前も強情だな、そこまでして直属刀工を拒み続ける理由が何処に在る」
「それも毎回申し上げてるんですが……俺はこの店で、この町を守る人々の刀を打ちたいだけなんです。あぁ、……金で釣ろうとしても無駄ですからね。
……御理解頂けたなら、お引取り下さい」
自分より二回りも大きい男に対し素気無く主張を言い切った庄吉は、そのままの勢いで引き戸を荒々しく閉めた。その一部始終を見ていた鈴音はしどろもどろになりながらも彼に声をかける。
「あ、あの……今のは……?」
「前にもお話した事、ありましたっけ? 俺に幕府お抱えの刀工にならないかって話が来た、っていう……」
「それは前に一度だけお聞きしましたけど。もしかしてまだ誘われ続けてるんですか?」
吃驚した表情の鈴音を前に、庄吉は諦めたような笑みを漏らした。
「ずっと断っているんですけどね。やたらとしつこくて……全く、何か裏が有るんじゃないかと思っちゃいますよ」
「お上はそれだけ庄吉さんの鍛冶師としての腕前を認めてらっしゃるんですよ、きっと。そうでなければここまで御執心なさる事も無いでしょうから」
だって庄吉さんが鍛えてくれた刀は他のどんな名刀よりも勝りますもん、と言って無邪気に笑う鈴音。その様子を見た庄吉にも、普段通りの優しい笑顔が灯る。
この少女の明るい表情に、言葉に、自分が救われていると感じ始めたのはつい最近の事であるが、彼はその事を一切口にはしなかった。
よく判っているからだ。自分の置かれた立場や、生業としている職業の真実を。
「そうだと良いんですけどね。まあ、俺としても幕府内に身を置くのは嫌ですし。……はい、鈴音さん。刀の整備、終わりましたよ」
「わ、凄い……細かいところまでちゃんと直ってる! 庄吉さん、どうも有難うございました! 前に、一度庄吉さんに刀を任せたら他の鍛冶師さんのところには行けなくなる、って隊長が言ってたんですけど……それ、良く判るなぁ」
「褒めすぎですよ、俺はまだまだ未熟者です。ところで今日はどんな任務なんですか?」
「フェイの一件が一応収集ついたので……それの報告を行うために江戸城に行くんです。何でも白狼隊全員で出頭しなくちゃいけないらしくて」
確かに今回、陰陽師一味による江戸襲撃の被害は甚だしかった。その被害を最小限に留めた白狼隊、黒虎隊隊士には上から限りない賞賛と御礼が与えられるのだろう。
最も隊士達にとっては、本当の事を微塵も理解していない幕府からの礼賛など、貰う価値どころか聞きに行く価値すら無いのだろうが。
鈴音は刀をしっかりと据え付け、庄吉に向き直った。もう日は低くはなく、外の通りにも往来の声が溢れ出している。
「流石に今日は遅刻しちゃったら本当に大変なんで……これで失礼しますね」
「あ、お引止めしてすみません。お勤め、無理しない程度に頑張って下さい」
二人は互いに軽く頭を下げた。そして鈴音は小走りで屯所へと向かい、庄吉はまた箒を取り直して店の前を掃き始めた。
爽やかな風が二人の髪を躍らせる。その風は今にも弾けんばかりの瑞々しさを秘める桜の蕾に絡んで、やがて来る開花を祝福しているように見えた。
「ふあぁ…………やぁっっと終わったよ……」
盛大な欠伸をぶちかました由紀彦を、実時は小声で叱咤する。
「由紀彦、慎め。城から出たとはいえ此処はまだ江戸城敷地内だ……愚痴なら屯所に戻ってからで良いだろう」
「でも確かに、お世辞にも短いとは言えなかったね。幕府は政の舵を取るには打って付けの大組織だけれど……その分何をするにも一つ一つの段取りが遅くなってしまうから」
「だからこそ、私達が在るのではありませんか。小さい組織ですが、団結力は強く、必要情報の伝達は速い。実際に治安を維持する為にはこの二点は不可欠ですからね」
不満を遠回しに、しかし見事に皮肉って表現した舘羽と廉次郎。たった今、今回の事件の報告を済ませたところである白狼隊の面々は、揃いも揃って機嫌が良くなかった。
それもその筈……延々と続く説法のような褒め文句を聞かされた挙句、手続き三昧の、もはや報告の域を超えたような報告会の後に、覇気の有る者などいる訳が無い。
訪れた春の囁きを聞きながら足取り重く歩いていた七人の侍達は、ついに江戸城の敷地を離れた。
「隊長、これからどうするんですか? 屯所に戻るには時間があまりないですけど……このまま巡回になるんでしょうか?」
美景の言葉を聞いた皆の視線が実時に集まった。皆言いたい事は同じである。
――とにかく疲れた。休みが欲しい――ただそれだけであったが、その思いは視線を通して実時にひしひしと伝わったようだった。
「いや……此処で解散としよう。正直、私も最近立て込んでいてろくに休んでいないのだ……それはきっと皆同じだろう。今日はゆっくり休養を取って、明日から任務再開とする」
途端に隊士達の顔が明るくなる。ただの休みがこんなにも嬉しく思えるのは、轟音を上げて渦巻く濁流のような日々の勤務の中で、必死に流されまいと踏ん張っているからであろう。
「お休みなんて久しぶりですね。……惣助さんはこれからどうなさるんですか?」
「……お前は風呂吹き大根と里芋の煮っ転がし、どっちが良いと思う?」
鈴音が尋ねると、惣助は銭を数えていた手を止め、話の噛み合わない問いを返してくる。鈴音は呆気に取られ、思考回路を正常に作動させるまで少々時間を要した。
「…………え?」
「いいからいいから、二者択一で。どっちが食いたい?」
「え……えーと……風呂吹き大根、かな?」
鈴音の答えを聞くと、惣助は口角の両端を持ち上げて清々しい表情を見せる。
「俺、今から夕餉の買出しに行かなきゃならなくて、今日は何にしようかって迷ってたんだが……よし、今夜は風呂吹き大根で決定だ。ありがとな、これで買出しが出来るぜ」
それじゃ俺は行くから、お前も今日はしっかり休めよ、と軽く手を振りながら去って行く惣助の背を、鈴音は何処か遠くを見遣るような目で見送った。
(惣助さん、相変わらず主夫してるなぁ……。さて、私も屋敷に戻ろうっと)
鈴音が武家地の方へと方向転換した時、彼女はその勢いで何か大きいものにぶつかってしまった。ぶつかり合った二人はお互いによろめき、体勢を立て直す。
「ご、ごめんなさい! 私、よそ見してて……」
「いえ、失敬。悪いのは此方ですから――……?」
相手が不自然に言葉を切ったのを不思議に思い、鈴音が目線を上げると、其処には堂々たる偉躯を持った侍が何か考え込んだ様子で立っていた。
その顔を見た鈴音の脳裏に、今朝の出来事が不思議な程鮮烈に蘇って来る。
衝撃的だったのだ。普段はどんな事が起こっても緩やかに笑んでいる庄吉が突如見せた、この男に対する冷然とした態度。それは庄吉であって、庄吉ではなかったのだから。
何とも言い難い沈黙は、侍が徐に口を開いたことで断ち切られた。
「失礼、貴女……今朝庄吉と言う名の店主がいる鍛冶屋に居られたお嬢さんではありませんかな?」
「あ、はい、そうですけど。何か御用でしょうか?」
侍は言葉を喉の奥で閊えさせていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「もし貴女が庄吉と親しいなら、頼みたい事が有るのです。――彼に、幕府直属刀工となるよう、貴女からも薦めて頂けませんか?」
鈴音の心に少し痛みが走る。その痛みの正体は、小さな激昂だった。
『ええ……またか、と思いまして』
『俺はこの店で、この町を守る人々の刀を打ちたいだけなんです。……御理解頂けたなら、お引取り下さい』
『ずっと断っているんですけどね。やたらとしつこくて……』
この侍が来た時に垣間見えた庄吉の表情や言動から察するに、彼は直属刀工の地位など少しも欲していないのだろう。なのに何故、この人は地位を押し付けようとするのだろうか。
「どうしてですか? 私には庄吉さんが嫌がっているように見えましたけど」
「嫌がられているのは此方とて重々承知しています……が、庄吉の鍛冶技術は精確にして迅速……今我々が求めている優秀な鍛冶師の話は彼無しでは語れないのですよ。
……何より彼はあの御方の弟子なのだから……」
そこで一旦間を置いた侍の双眸は、見ている鈴音の背筋に不快な震えを起こさせる程に暗く、野蛮な獣の様にぎらぎらと瞬いている。
(何、この人……自分勝手だし、それに――気持ち悪い雰囲気……)
直感的にそう感じた鈴音の怒りは徐々にその重量を増してきていたが、彼女は上辺を取り繕った。
「判りました、一応伝えるだけ伝えてみます。でも多分聞き入れてくれないと思いますよ?」
「それでも良いのです、彼が私どもを拒むのは今に始まった事ではありません……こうなったら長期戦も覚悟の上ですので。それでは、失礼します」
言いたい事を存分に言い終えた侍は足早に江戸城の敷地内へと姿を消した。
――庄吉さんの気持ちに背いて地位を押し付けてくる恩着せがましい人の言う事なんて、聞きたくないけど。……伝えるくらいなら、庄吉さんも怒らないよね?
煮え切らない気持ちを抱えたまま一人残された鈴音は、屋敷に帰ろうとしていた足を鍛冶屋へと向ける。武士たるもの、約束してしまったものを果たさないわけにはいかない。
そして彼女にはもう一つ、鍛冶屋の店主に会う理由があった。彼が二、三週間前に、はらりと零した言葉について詳しく聞く為、だ。
『俺、この事件が一段落したら店を畳んで、修行に出るつもりで居るんですよ』
……まだ、信じられない。もう一度彼に問いただしておきたい――あの言葉が嘘なのか、それとも真なのかを。
鈴音が大通りに足を差し向けた頃には、茜雲が強すぎる西日の光を程よく遮り、桜並木がその立派な風体を長細い影として地に映し出していた。
栄屋の隣の横道に入り少し歩くと、其処には鍛冶の腕が確かな若人が刀と唄う、赴き深い鍛冶屋がある。
「あれ……?」
鍛冶屋の前で鈴音は暫し立ち尽くす。他の店はまだ何処も営業中なのに、どうした事か、この鍛冶屋は早くも今日の営業を終えてしまったようだ。
「庄吉さん、庄吉さん? いらっしゃいますか?」
其処に立っているままでは仕方が無いので、取り敢えず呼びかけてみる。嫌な予感が鈴音の頭を掠めた。……もしやもう、彼は此処から出て行ってしまったのではないか、と。
が、数秒後、彼女はその予感が全くの杞憂だった事を知る。引き戸の向こうで物音がして間もなく、目当ての人物が顔を見せたからだ。
「鈴音さんじゃないですか……あ、朝の整備で何か不都合な事でも――」
「いえ、違うんです……ちょっとお伝えする事があって。あの、今お時間宜しいでしょうか?」
「俺は大丈夫ですよ。でもお話しするんでしたら、外に出ませんか?」
どうして外にでる必要が、と首を傾げる鈴音を見て、庄吉は引き戸の奥へ少し目線をやってからすまなそうに苦笑する。
「申し訳ないんですけど、今、奥が大変えらい事になってまして……とても人様をおもてなしできるような状態じゃないんです」
「……庄吉さんがそう言うなら……そうしましょうか」
「有難うございます、それじゃ行きましょう」
二人は大通りに足を運ぶ。朱の宝玉とも見違う西日は、鍛冶師と女侍の背を見事に自身の色に染め上げた。
「それで……お伝えする事、って何ですか? 俺としては特に思い当たる節が無いんですけど……」
河原にゆったりと腰掛けた庄吉は、少し自分から距離を置き、足を伸ばして座った鈴音へと問う。鈴音は俯き、遠慮がちな声を出した。
「えっと、もしこの言葉が庄吉さんの気に障ってしまったらすみません。でも頼まれちゃったんで……一応お伝えしますね。
――今日江戸城で、朝庄吉さんに直属刀工の座を押し付けようとした方に会ったんです。それで、私からも庄吉さんに直属刀工になるように薦めてくれ、って言われました」
その言葉を、庄吉は何の感情も持っていないような顔で聴き、そして普段通りの緩やかな笑みを見せた。
「……あ、鈴音さんがそんな顔する事ないですよ。俺にそんな気は毛頭有りませんから。あの人も今はこうですけど、俺へのほとぼりが冷めたらきっと別の鍛冶師さんの所に行きますって」
そうきっぱりと言い切った庄吉の横顔がどこか物寂しく、どこか遠い気がするのは、夕暮れ時という時間の所為なのか、否か。
二人の間に沈黙の帳が降りる。と同時に、鈴音は吹き抜けていく風がいつもよりも強くなっている事に気づく。……春はもう、此処まで来ているのだ。
「あの、庄吉さん。やっぱり江戸から出て行かれるんですか?」
長い逡巡の後、鈴音から発せられた疑問に、庄吉は目を丸くする。
「ええ……今日店を早く閉めたのはそれの準備の為でして、それでごたついちゃってたんです。あれ、鈴音さんにはお伝えしてましたよね?」
「はい、知ってます。でも本当に出て行っちゃうとは思いたくなくて。……ごめんなさい、変な事聞いて」
庄吉は先程よりも暗くなった表情の鈴音を黙って見つめていたが、暫くして柔和な微笑みを浮かべ、言の葉を紡いだ。
「鈴音さん。ちょっとお時間頂いちゃいますけど、俺の話、聴いてくれますか?……前にお話した理由も勿論ですけど、俺には修行に出なければならない絶対の理由があるんです」
昔話の口火を切った庄吉の眼は、今まで鈴音が見た中で一番綺麗に澄み渡っている。鈴音は無言で、けれどしっかりと首を縦に振った。
少女の承諾を得た鍛冶師は悠然と流れる川の流れに目を遣りながら、遠く離れてはいるが片時も忘れた事が無い過去の記憶をゆっくりと手繰り、形にし始める。
辺りは曖々とし、たなびく雲は茜から紫へと衣を変えていた。
歴史の重みが感じられる古き鍛冶屋に、今日も明朗な声と、深みの有る声が響き渡る。
『親方、親方……見て下さいこの小刀! 俺が打ったんですけどどうですか?』
『ふむ……まずまずの出来じゃないか』
『え、それだけですか? これ、かなりの自信作なんですけど……』
『馬鹿者、この出来で自信作などとほざいてくれるな。見ろ、柄の部分――詰めが甘い。この部分だけ直して後で持って来い。私は仕事にかかる』
『……はい、判りました。今日もお仕事、頑張って下さい』
――やっぱり親方には勝てないな……柄の部分ちょっと手抜きしたの、簡単に見破られちゃったし。
少年と言うには大人びており、青年と言うには子供っぽい、明朗な声の持ち主――庄吉は、師匠である男の後姿を見て軽く肩を落とした。
元は商家の次男であった庄吉が、この鍛冶師の打った刀に心を奪われ勢いで弟子入りし、鍛冶を一から始めてもう幾年かが経っている。当初に比べれば腕も上がったと思っていたが。
『親方ってば、俺の微妙な心の驕りまで見抜いてるんだもんな……』
庄吉は部屋の隅に無造作に置かれた何本かの刀のうち一本を引き抜いた。鞘の中を滑る音からして、他の鍛冶師の打った物とは格が違うことを嫌でも理解する。
師匠の打った刀の研ぎ澄まされた、優美で繊細な煌きを目の当たりにすると、庄吉はどれだけ鍛錬すればこれ程までの作品が創れるのか、と途方に暮れてしまうのだった。
それだけではなく、彼は自分の心の中までも読んでいるのだから、全く頭が上がらない。
『よし……ここでうな垂れててもしょうがない。もう一度、打ち直そう』
庄吉は小刀を握り締め、今はもう使われていない、古い鍛冶場へと向かう。
少し湿った香りのする焚き木、煤けて真っ黒な窯、鉄を冷やす為だけにわざわざ近場の山まで行って取ってきた川の上流水。この物全てが幾年か前から庄吉の日常の一部となった。
今は‘鍛冶の世界にこの人あり’と謳われている親方も、若い頃は此処で必死に修行を積んでいたのだろう。そう考えると、庄吉はいつも少しくすぐったい様な感覚を覚えた。
灼熱の炎の中で熱せられた鉄の状態を、打ち付ける音と感触、色彩だけで把握し、臨機応変に最上の刃を創り上げる。彼は毎日毎日、この修行に励んでいた。
修行は厳しく辛いが、庄吉は決して諦めなかった。勢いで名も知らぬ鍛冶師に弟子入りしてしまったが、入って驚け、自分が師と慕う男は日本で指折りの鍛冶師だと言うではないか。
そんな偉人の弟子になった以上後には引けないという意地もあったであろうが、何より挫折しない一番の理由は、鍛冶の魅力の虜になってしまったからだった。
いつか親方の刀を越え、他の鍛冶師の全ての刀を越えたい。名立たる武士が挙って持ち主に名乗りを挙げるような、鋭い美しさ、圧倒的な破壊力を持つ刀を打ちたい。
ただそれだけを目標に、庄吉は今日も仄暗い鍛冶場でひとり刀と対話するのであった。
烏の哀愁漂う声が大地に息づく草花を軽く揺らす頃になって漸く、庄吉は顔を上げた。そろそろ師匠も今日の営業を終え、中に戻ってくるであろう。
先程駄目出しされた小刀も、今度は隅から隅まで精魂を込めて打ち直したおかげで自分の中では最高傑作の物となった。
早くこの作品を評価してもらいたい一心で、庄吉は自ら師の居る店内の鍛冶場まで出向く。案の定、師は道具の片付けや後始末に休み無く手を動かしていた。
『どうした、庄吉。……夕餉は風呂吹き大根が良いと言っただろう』
『誰も親方の夕餉の注文なんか要求してません。 それよりこれ、柄の部分だけじゃなくて他の所も不備があると感じたので、全部打ち直したんですよ!』
庄吉から小刀を受け取った鍛冶師は、それを手に取った瞬間から目を鷹のように光らせ、細部までじっくりと音や感触を確かめていく。鍛冶場の空気に緊張が走る。
『あ、あの……どう、でしょうか?』
一歩身を引いた弟子の問いにも答えず、彼は庄吉に小刀を返し、何かを言いかけようとした。
その時、今日はもう開くはずがない店の引き戸がけたたましい音を立てて滑り、十六、七の娘が息を切らせて踏み込んできた。何事かと驚く二人に向かって娘はあらん限りの声を振り絞る。
『貴方達がいけないのよ……貴方達が居るから、刀を打つから、母さんは死んだのよ! 母さんを返して、この人殺し!』
当然二人がその真意を知る由はなく、庄吉と師は茫然として娘を見遣る。娘の憤怒が収まる事は無く、彼女は尚も叫び続けた。
『貴方達のやっている事は大切な命を奪う事……帯刀してる奴が居なくなる前に、刀工である貴方達が居なくなれば、母さんは死ななくても良かったのに!』
そう言うや否や、娘は懐から小さな刃を取り出し、年老いた鍛冶師にめがけて斬りかかる。が、その刹那、彼女の刃はその手を離れ、鍛冶場の隅へと弾き飛ばされた。
娘が息を呑んで前を見ると、年若い鍛冶師が自作の小刀を構えて静かに佇んでいる。彼が自分の刃を払い落としたのか――そう認識した娘の憎悪の矛先は、庄吉へと向けられた。
『何よ貴方……私の家族を殺しておいて、その上まだ私の行く手を阻むって言うの? 冗談じゃないわ!』
『冗談じゃない、は此方の台詞です。貴女が誰だか知りませんけど――俺らをただの一般庶民と侮らないで下さい、職業柄、一応護身術は心得てる……小刀くらいは扱えるんですから』
庄吉から返される怜悧で淡々とした言葉に、娘はさらに殺気を立てる。
しかし娘の鍛冶師達に対する奮闘もここまでであった――騒ぎを聞きつけた近所の者達が、娘を取り押さえて外へと引きずり出したからである。
『嫌だ、放して! あの人達は、母さんを殺した殺人者よ! 私は、私は……!』
彼女の止む事の無い泣哭は、薄暗くなった紺藍の江戸に鳴り響いて、跡形も無く消えていった。
『何だったんだろう、今の人……いきなり突っ掛かってきた上に俺らを‘人殺し’呼ばわりするなんて』
怪訝そうな顔をして小刀を鞘に戻した庄吉に、近所でも情報通で名の通る酒屋の女将が辛楚な表情で語りかけてくる。
『庄吉さん、あの女の子の事、赦してやってくれないかね。さっき表で小耳に挟んだんだけど……あの子の母親がさっき斬られて亡くなって、さらにその犯人もその場で自害したらしくて。
自分の眼前で人が二人も死んで……その片方は母親だろ? 気もおかしくなるってもんだ……』
『――そうだったんですか。でも何故俺達に向かって……』
『しょうがなかったんだろ、犯人を責めようったってその当人はもうこの世に居ない……やり場の無い気持ちの捌け口が欲しくて、刀の作り手であるあんた達にあんな辛辣な罵声を浴びせたんだろうよ』
そこまで言うと酒屋の女将は、あの子が不憫でならないね、と言いながら娘が連行されていった方角に目を向ける。
状況は理解した。――けれどやはり彼女は間違っている。自分達は人を殺してなどいないのに殺人者などと呼ばれるのは、正直言って気分が悪い。
『仕方が無いとはいえ、あれは言い過ぎですよね。俺達が刀を打っているのは命を壊す為じゃない……命を守る為だ』
野次馬が皆家路を辿るのを確認してから、庄吉は師を仰いだ。しかし彼の師は、黙思したまま厳威な態度を崩さない。
『親方? ……親方ってば!』
庄吉は何とか師からの返答を得ようとしたが、年老いた鍛冶師は弱々しく微笑んだだけで、その日は一切口を開く事はなかった。
『庄吉、少し良いか?』
騒ぎから数週間経った、風の息が激しいある日の事。古鍛冶場でいつも通り刀打ちの練習に明け暮れていた庄吉に、店に出ているはずの師匠が声をかけてきた。
『はい、大丈夫ですけど。どうしたんですか、まだ営業中のはずじゃ……』
そう言いかけた庄吉の目に飛び込んできたのは、身支度を整え、何処へでも出発できそうな出で立ちをした彼の師であった。
『え、親方……何ですかその格好』
『随分と間の抜けた反応だな、庄吉。私としてはもう少し面白みの有る人間に育って欲しかったものだが』
『いや、そうでなくて本当に何なんですかその格好。まさか旅立つとか仰るんじゃないでしょうね?』
『旅に出る訳ではない――が、私は今日からこの鍛冶屋の主ではない。従って庄吉、お前が今日から此処の主となれ』
突然の宣告に、庄吉の思考細胞は破裂を余儀なくされる。砕けた思考細胞で無理矢理言葉の意味を考えた庄吉は、ある結論に辿り着いた。
『……親方がそこまで耄碌してただなんて、俺全然気づかなかった……こうしちゃいられない、親方、すぐにお医者に行きま』
『――ほう、随分な口がきけるようになったものだな、庄吉。誰がモウロクしてる、だと?』
『スミマセン冗談デス』
弟子の棒読み謝罪を聞き、老いた鍛冶師は嘆息した。これから店を任せようと思っているのに、先が思いやられる。
『お前には話していなかったが、実はかなり前から幕府の御偉方の直属刀工にならないか、と誘われていてな。当初は弟子がいるから、と言って断っていたんだが、今のお前なら七転八倒で店を切り盛りできるだろうし』
『だからこの店を出る、って訳ですか。……それにしても七転八倒じゃなくて七転び八起きにして下さいよ、縁起悪いじゃないですか』
『師を耄碌扱いする弟子なんぞ、七転八倒で充分だ。で? 此処の主となるのかならないのか、はっきりしろ』
庄吉は自分が打ちかけた刀に目を遣った。思いがけない形ではあるが、代々続いてきたこの鍛冶屋を受け継ぐのは自分の務め――それならば。
『なります。俺の世話の所為で、今まで親方は直属刀工なんていう美味しい話を蹴らざるを得なかったんだし……ここでやらなくちゃ、師匠不孝ですもんね』
『全くだ、本当に面倒な世話ばかり掛けさせて……これ以上お前に不孝行されたら流石の私も堪らん』
『あはは、そうですか? 俺は自分の事、この上なく良く出来てる弟子だと自負してますけど――ゴメンナサイスミマセン冗談デスってば。……もう、出立なされるんですか?』
『ああ、御偉方も前々から私の為に支度をして下さっているのだ、あまりお待たせする訳にもいかないからな』
『……じゃあ、戸口でお見送りしますね』
にっこりと笑った庄吉を見て安心したのだろう、彼の師も口元を綻ばせた。
戸口の前まで来ると、年老いた鍛冶師は弟子の目をしっかりと射抜き、師として最後の指南をする。
『お前は抜けているところが無いわけではないが、金銭感覚も日常生活もしっかりしている……充分に私の後を継げるだろう。但し、決して自分の力量を過信するなよ。
日本一の鍛冶師になるというのは私の夢であり、お前の夢だ。それを叶える為にはいつも自分の力量を客観的に、そして正確に把握しておかなければならない――解るな?』
『はい、親方』
『うむ……それから、この前お前が作った小刀の出来だが』
ここで小刀の評価をされるとは思っていなかった庄吉は、瞬間的に身を固まらせる。師の鑑定眼は紛れも無い本物――それ故に、評価はとても厳しい。
『あれは中々のものだったな……刀身の均衡も申し分無いし、指摘した部分もきちんと直されていた。今後もこのような刀が打てるなら、世間は正しくお前を評価してくれるだろう』
『え……親方、それって……』
庄吉が言葉を発しかける前に、身なりを整えた師は颯爽と歩き始めている。その背は何故か、いつもの師よりも大きく、立派に見えて。
師を引き止めようとする自分を必死で抑えた庄吉は、どんどん自分から遠ざかっていくその後姿に向かって深々と頭を下げ、声高に、弟子として最後の礼を尽くした。
『――親方、今まで本当に本当に、お世話になりました!』
どこか涙雲っているその声柄を、年老いた鍛冶師は足を休めることなく、静かに目を伏せて黙聴していた。
「庄吉さんが店主さんになったのにはそういう経緯があったんですか……何だか凄く心が温まりますね!」
「元は商家の息子だった俺がここまで来れたのは全て親方と、周りの人々のお蔭ですから……やはり大切な思い出ですよ」
庄吉の言葉に頷いて納得していた鈴音の頭に、ふと疑問が浮かぶ。
「でも今の話だと、御師匠さんは幕府の直属刀工になった、って事ですよね? どうして庄吉さんはそれを拒むんです? ……あ、御師匠さんに会うのが恥ずかしいから、とかですか?」
すると庄吉の顔から穏和な笑みが消え、彼の瞳に冷光が宿る――今朝あの感じの悪い侍に見せた表情と同じものである。鈴音は首筋に氷を当てられたような感覚を覚えた。
「実は、この話にはまだ続きが有るんです。親方はこの世にまたと無いほど素晴らしい腕を持っていた鍛冶師で――だから幕府に見初められ、そして……殺された」
「!? こ、殺された、って……」
「いや、‘殺された’なんて他人事な言い回しは良くないな――事実としては、俺が、親方を殺したんです。……鈴音さんさえ良ければ、お話しますよ。また長くなっちゃいますけど」
聴き入っていたので全く気づかなかったが、日は既に落ち、昼間から引き続いて夜の江戸の町が賑わいを見せている。これ以上話し込んで遅くなれば姉が怒る事位、重々承知してはいたが――
「聴かせて下さい。私、知りたいです」
私はまだ、何故庄吉さんが修行の旅に出なければならないかを、教えてもらっていないから。
きっぱりとそう言い切った鈴音の言葉に促され、庄吉は闇をそのまま映し出した様な声色で話の続きを語り始めた。
「親方がお抱え刀工として身を立てるようになってから、勿論俺と親方は互いの生活が忙しい事もあって全く会えなくなって、文を使う以外、互いの生存を確かめる術を無くしました。
けれど親方の雇い主は若輩者の店主である俺を心配して、度々親方の使者を寄越してくれたんです。実際俺も駆け出しの頃は左右不明な状態でしたし、色々な面で助けてもらいました。
でもある時を境に、使いの人がめっきり来なくなったんです。俺も最初は、使者にしたって曲がりなりにも武士、だからきっとお忙しい身なんだろう、と軽く考えていたんですが……
しばらく経っても一向に来る気配が無くて、俺がこれは変だと勘繰った矢先に――親方の骸が、俺のもとに届けられたんです」
太陽の光を受けていない川の水面は、流れているのか淀んでいるのかさえ判らないほどに、漆黒を孕む。
「亡骸を運んできて下さった人が言うには、親方は夜の城下町を歩いている際に辻斬りにあったらしい、って。だけど俺はそんな事、信じられませんでした。
さっきお話したように、俺ら鍛冶師は武士と用法は違うものの刀を扱う職業をしているので、何かあった時の為に自分の身は自分で守れるよう、多少護身術を会得してるんです。
お客さんが商品の刀を手に取った瞬間に俺らに斬りつけてくる事も、無いとは言い切れないので……。
親方は俺にとって鍛冶の師ですけど、同時に護身術の師でもあるんです。だから辻斬りに呆気なくやられるなんて事、ある筈が無いんですよ。
周りの人達は親方の死因を疑う俺を宥めました。けど、俺はどうしても、本当の事が知りたかった。――それが親方への、一番の供養だと思ったんです」
「……」
鈴音は押し黙るより他に無かった。何とかして自分の脳内を弄り気の利いた事を言おうとするが、この場に相応しい言葉など、出てくるはずも無かった。
それ程までに庄吉の纏う空気は冷厳で、怖畏が蔓延る奈落の底の世界へと鈴音を誘う様だったのだ。
「俺は独自に調べを進めました。店に来るお侍さん達から情報を集めたり、親方の弟子、という特権を使って、無理を承知で他の幕府お抱え刀工の処へ話を聞きに行きました。
そして様々な人の話を纏め上げるうちに、俺はある一つの事実を見出したんです。……鈴音さんは、何だと思いますか?」
「え……え、と……」
突如意見を求められた鈴音は、今までの庄吉の話を思い起こした。
(庄吉さんは自分が御師匠さんを殺した、って言うけど……勿論庄吉さんが直接御師匠さんを手にかけた訳じゃない事は判る。じゃあ一体何でそんな言い方をするんだろう……。
……よく考えなきゃ。今聴いたお話で、何か不可思議なところは? 庄吉さんがこんな表現をする理由は、人を、殺し――……‘人殺し’……!)
『貴方達がいけないのよ……貴方達が居るから、刀を打つから、母さんは死んだのよ! 母さんを返して、この人殺し!』
『嫌だ、放して! あの人達は、母さんを殺した殺人者よ! 私は、私は……!』
庄吉の過去話が一本に繋がった時、鈴音の脳髄に雷が落ちた様な衝撃が走る。
しかし鈴音は、すぐにはそれを口に出来なかった。自分でない、もっと他の大きな何かが全身を支配しているような気がしたからである。
ちらりと庄吉の様子を伺った鈴音の視線に気がついた庄吉は、先程の雰囲気とは似ても似つかない、悠揚な微笑を浮かべた。それを見て緊張の解れた鈴音は、思いを形にする。
「推測ですけど……庄吉さんが‘俺が親方を殺した’って言い方をなさるのは――庄吉さんの打った刀で御師匠さんが斬られたから、ですか?」
「ええ、大当たりですよ――俺が刀を打ったから、親方は死んだんです」
やはり庄吉の横顔は物寂しく、隣に座っているというのにずっと遠い処に在るようであった。
「雇い主の御偉方は親方に観賞用の刀を作るように命じて、それを承った親方は長い時間をかけて、この世の物とは思えない程優雅で美の限りを尽くした刀を打ったそうです。
その刀が完成した時の雇い主ときたら並々ならぬ喜びようで、片時もその傍から離れられないほど刀に魅入られてしまったらしく……終いには、こんな事まで考えるようになりました。
傑作は数が少ないからこそ希少価値が出る。この鍛冶師をこのまま生かしておけば、これ以上の刀を打つかもしれない。――それならば傑作を打ち終えた刀工は始末するべきだ、とね」
「そんなの……っ、酷すぎる!」
思わず声を荒げた鈴音を軽く諫めた庄吉は、淡々とした調子で尚も続けた。
「そういう訳で親方の暗殺計画が立ち上がって、その暗殺役に抜擢された者が、親方に刺す刃を最上の物にする為、鍛冶師に調整を頼みました。
……その鍛冶師が、当時名が売れ始めていた俺だったんです」
ゆく川の流れは絶えずして、と昔の人は言ったけれど。今、少女と鍛冶師の前に横たわっているゆく川の流れは、微動だにしていない。空には濃紺の世界が悠久に広がっていて、自分がいかに小さい存在であるかを思い知らされる。
――あの空の向こう側に駆けていったら、何かが変わるかもしれない。
漠然とそう感じた鈴音は、すぐに軽く頭を振った。本当に空の向こうに駆け出して、この真実を変えたくて堪らないのは自分ではなく、庄吉である事は明らかだったからである。
憤激して当然であるはずの庄吉の顔は少しも歪んでいなかったが、その表情はまさに悲しみの深淵から這い出てくる、それそのものであった。
「あの子が俺達の処へ殴り込みに来た時は、なんて失礼な奴だろう、って思ったんですよ。刀を打つ事が殺人に加担する行為だなんて全く思いも寄らなくて、綺麗事ばかり並べ立てて。
……でもこういう形で親方を亡くす事によってやっと気づいたんです。俺のやっている事は、人の命を奪っている事に過ぎない、って」
「庄吉さん、それは言い過ぎです……庄吉さんは人を殺そうだなんて考えてないし、実際殺してないんですから。それに私だって命を守る為に刀を振るってるんですよ?」
口をついて出た鈴音の言葉を聴き、庄吉は彼女に向き直った。
「本当にそうだと言い切れますか? 確か鈴音さん、睦月辺りに名刀を携えた女の妖魔を倒した、って言ってましたよね。それは皆を守る為にやった事ですし、立派な事だと思います。
だけど極論を言ってしまえば、鈴音さんは俺が仕立てた刀で妖魔を‘殺した’んですよ。民の命を守っている反面、妖魔の命を破壊しているんです。――違いますか?」
「それ、は……そうですけど……」
今までに無い程強い庄吉の口調に押された鈴音は、台詞を喉に詰まらせる。その様子を見た庄吉は、慌てて弁解した。
「す、すみません、差し出がましい口をきいて……。その妖魔だって、俺が殺したも同然なんです。鈴音さん達白狼・黒虎隊の刀を鍛えているのは、俺ですから。
この世界は武士が台頭しているから刀鍛冶師が贔屓にされる事も多いですけど、俺ら鍛冶師が贔屓にされるって事は……それだけ多くの命が失われている、っていう事なんですよね」
庄吉はまた目線を川の方向へと戻す。その先にはいつの間にか夜空に差し上がった満月が、水面にその姿をはっきりと刻んでいた。
「俺達が‘人殺しだ’と罵られた日、親方は一切口をきいてくれなくて……でも今考えると、親方は解ってたんだと思います。刀工の打った刀は、必ず何かを傷つける為にあるって事を。
そしてきっと親方には、自分が作った刀で尊い命が失われる責任を全て背負う覚悟があって、それを充分承知した上で何年も刀鍛冶の道を貫き通して、死んでいったんでしょう。
正直言うと、俺にはまだ、刀を打つ事の意味の重さを全て背負えるような覚悟が無いんです。鍛冶が大好きなのは他の誰にも引けを取らないんですけど……それだけじゃ日本一の刀工にはなれません。
――今回修行の旅に出ようと思ったのは、親方が俺に言葉で教えてくれなかった事も含めて、俺の鍛冶の道を一から見つめ直してみたいから、なんですよ」
自らの気持ちに逃げる事無く立ち向かう青年鍛冶師の顔は清々しく、また先程と比べるとほんの少しだけ柔らかみが増しているように見えた。
「本当に長々と、すみません。流石に紫苑さんも怒ってるんじゃないでしょうか……」
やっぱり時間を大幅に喰っちゃいましたね、と青年が狼狽る横で、少女は真剣な顔つきをしたまま考え込んでいた――が、次の瞬間。
「……決めた! 私も庄吉さんの修行の旅にお供します!」
「へ? ……だ、駄目ですよ、鈴音さんにはお仕事があるじゃないですか!」
しかし青年の焦った声すら、少女の耳には届いていない。
「やっぱり江戸を出たら治安も悪くなりがちでしょうし。私も一応白狼隊の端くれですから、きっとお役に立てますよ!」
「いや、でも本当に遠慮しますって。第一これは……」
俺自身の修行ですから鈴音さんにそこまで迷惑をかける訳にはいきません、と言おうとした青年の目に映ったのは、意を決した武者の、濃群青の瞳だった。
「フェイの一件に携わって、今日庄吉さんのお話を聴いて、私も自分の剣の道を見つめ直す必要があるって感じました。それにはきっと旅をする事が最適じゃないかと思うんです。
――それに多分、命の責任を一人で全て背負う、って言うのは間違ってます。
確かに鍛冶師さんが背負わなければならないものもあるでしょうけど、一人で全部を背負い込んだら、その重圧に耐えられなくて潰れてしまうかもしれません。
私は刀を振るう者として、その責任を庄吉さんだけに負わせたくない――だから私も一緒に旅をして、庄吉さんの背負うべきものを分け合いたいんです。……駄目ですか?」
足手纏いにはなりませんし、庄吉さんの修行の邪魔は絶対にしませんから、と言ってにっこり微笑みかけてきた少女を、青年は暫し唖然として見つめていたが、やがて困った様な、それでいてとても嬉しそうな笑顔を浮かべた。
全くこの娘は此方の想いに気づいていない上に、自分がどれだけ凄い事を言っているのか自覚が無いのだから……参ったとしか言いようが無い。
しかし自分とこの娘に息吹く柔婉な気海を、この先ずっと共有していられる――ただそれだけを喜ぶ自分がいる事を、青年はよく解っていた。
とは言え、一人で勝手気ままにのんびりと暮らしている自分とは違い、彼女には立派な家と家族がある。青年は少女に確認を取った。
「本当に良いんですか? 鈴音さんが俺と旅に出たら、御家族の方々や……紫苑さんが心配なされるでしょうし」
「まあ、そうでしょうけど……永遠の別れじゃないですし、平気です。それよりこうなった以上、出立は早いほうが良いですよね……庄吉さんさえ良ければ明朝にでも、どうですか?」
確認を取るまでも無かった。それどころか、少女は明朝に江戸を出るという予定まで立てている。一度道を決めたら譲らない――この意志の強さは彼女の美点だ。
青年はひとつ、溜め息を吐く。それは心配や呆れから来るものではなく、ゆったりとして穏やかな、まるで幸せを噛み締めるような一息であった。
「そうですね……俺も早く、鈴音さんと旅がしたいですし。じゃ、明日の朝、此処で待ち合わせしましょうか。行き先はその後決める、って事で」
「……はい!」
仄暗く心地よい風が、青年と少女を撫ぜる。その響きを青年――庄吉は、これまでに無い程の優しい気持ちで聴き入った。
明日の暁には、別の風が二人の間を別の色で彩って駆け抜けていくのだろう。明後日のも、その次の日も、風は今日と全く違う色を持って揺蕩い続けていくのだろう。
それでも良い。否、そうでなければならない。塗り固められてしまった過去を忘れる事はできなくとも、今此処に変化し続けている自分が在るのだから。
淀んでいた川の流光が次第にさざめき始めた。
きっと明日は快晴――絶好の旅立ち日和となるに違いない。
- 終 -