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爛漫 (作:ウミネコ)

「お前、朝から居座っていたのか」
 呆れた声が出たのも、無理は無い。
 非番だから茶を飲みに行くと、妙に早くからはしゃぐ妹を見たのが今朝方のこと。
 もはや正午も遠く過ぎた。見回りのついでにと、栄屋に立ち寄る気を起こしてみれば、手前の席に陣取って、当の妹が手を振っているではないか。
「ひ、人聞き悪いなあ…」
「迷惑というものを考えろ。わからぬお前ではあるまいに」
「いいえ、かまいませんよ?全然。どうぞ、紫苑様も」
 始まろうとした説教を、看板娘がさえぎった。
 手にした盆には、湯のみが三つ。
 私も休憩しますから、と茶を渡されれば、説教の続きも引っ込めるしかない。
「…ほら、やっぱり。若菜さんのお茶は特別です。空気がまあるくなるんだもの」
「そ、そんな。ただの番茶ですよ…?」
「何の話だ、一体」
 照れる若菜に、妹は柔らかい笑みを向けている。
「疲れたり…落ち込んだりした時に、ここで頂くお茶に、よく救われませんか。ずっと思っていたんです。そのうち絶対、淹れ方を教わろうって」
「今日が好機と、そういうわけか」
 納得すべきか、呆れるべきか。紫苑は少し思案した。
 非番とあっても特訓と、眉間に皺寄せていた日もある。笑って茶を飲む余裕があるなら、好ましいことと言えなくも無いが…。
「それで、一日居座っているのか?」
「混み時には退散しました。ちょうど今、戻って来たところで…ほ、本当ですってば」
「迷惑になってはいないか」
「大丈夫ですよ。お客さんも少なくなってますし」
「若菜、手間をかける」
「いいえ。とっても光栄です」
 にっこり請け負った若菜の傍らで、『お父様のようなことをおっしゃる』と、鈴音は拗ねてみせた。



「お姉様、お帰りなさい!」
 屋敷の門をくぐるとすぐに、声がかかる。
 こちらも帰ったばかりの様子で、見れば妹は、小さな包みを大事そうに抱いている。
「茶の修練は済んだのか」
「うふふ。お試しになりますか?」
 お部屋にお持ちしますねと言い残し、屋敷の中へと駆けていく。
 どんな奥義を教わったやら。
 湯がどうの、茶葉がどうのと、女中まで巻き込んできゃあきゃあと、かしましい事この上ない。
「栄屋さんのと同じ茶葉ですよ。手順もきちんと教わりました!」
「…そうか。貰おう」
 鈴音とて、茶を淹れるのは生まれて初めてというわけではない。
いわゆる「茶の湯」の嗜みは無論のこと、土瓶で煮出す簡素な茶でも、扱うことはあったはずだ。
それがこうまで張り切られると、湯のみの中身が何やら違うもののように思えてくる。
正直にそう口に出すと、妹は少し失望したようだった。
「たった一日の師事では…そんなものでしょうか…」
「それはそうだろう。向こうは商売なのだし、年季が違う」
「そうですけど…少しでもあやかれたらなあって」
 随分な信奉ぶりに、姉は肩をすくめた。…まるで、仲間の隊士の剣を褒めている時のようだ。
 姉と揃いの湯呑みを前に、妹は軽く息をつく。
「今日、ずっと見てて…改めて思いました。若菜さんて本当に凄いって」
 これは…長くなりそうだ。姉はひそかに覚悟を決めた。
 幾分呆れる気持ちはあるが、その感慨が分からぬでも無い。笑顔と共に出てくる茶で、空気がふわりと変わることはある。
 …人間誰しも、飲み食いが必要なものなれば…飲み食いどころというものは、どれだけ人が出入りするやら。入れ替わり立ち替わり、それは途絶えることが無い。
『だ、大丈夫ですか?お疲れですね…』
男の眉間の皺が消える。
『あら、ご機嫌ですね。いいことありました?』
 女が満面の笑みを浮かべる。
『いい日和ですね。ごゆっくり』
老人が幸せそうにくつろぐ。
 若菜の示すほがらかさと、それから一杯の茶の手柄だ。
 …看板娘は日に何度、頬に笑顔を輝かすのか。
「何だか、感動しちゃいました」
「…そうだな。若菜はよくやっている」
 いつも変わらぬ歓迎の笑みというものが、どれほど人を和ませることか。
 民の幸せを真に守っていくのは、あの娘のような笑顔であるのかもしれぬ。
「お前も剣を置いて、茶の道でも目指してみるか」
「そ、それは…できません…」
 笑顔を少し引きつらせて、鈴音は茶を飲干した。
「…ねえ、お姉様。『火事と喧嘩は』って言いますが…若菜さんのような人こそ、江戸の華だと思いませんか。私は剣で、それを守っていたいです。お姉さまや…隊長たちと、一緒に」
「……そうだな。その方がお前らしい」
 …いつまでも子供かと思えば。
 何やら微笑ましい気持ちで、姉も湯呑みを口に運んだ。
 いつの間にやら、いっぱしの青年隊士の顔をする。身内としては、その成長が面映い。
「しかしお前、『ずっと』と言ったな。混み時は退散していたのではなかったか」
 問うと、ぎくりと身を竦ませる。
「えっ!?ええと、その……」
「居座っていたのか」
「……裏に入れてもらって、お店のお手伝いを」
「役に立ったのか?」
「…………」
「……………」
「………………若菜さんに、変にからむ男の人がいたんです。何だか心配で、だから…」
「何故私には言わなかった」
「…食い物屋には付き物のこと、手を煩わすほどじゃないって。若菜さんが」
 ため息一つ。感嘆のため息だった。江戸の華は案外にたくましい。

「それで、お前。この茶を誰に飲ませたいのだ」
 退室しようと立った鈴音が、持った盆ごと振り返った。
「……えっ?」
「明日は、どこへ茶を淹れに行く。屯所か、猫屋敷か」
 しっかり抱えていたものを、途端にがちゃりと取り落とす。
「……お姉様」
「聞かずとも、大体は分かるが」
「……お、お姉さま……」
 わからいでか。
 互いに忙しい日々の中、顔を合わせる少しの間に、「隊長」という言葉を何度耳にするやら。
 この間も体中に猫の毛をつけて帰り、そちこちに柔らかい毛を舞わせていたではないか。
「……ね、猫屋敷って…」
「……………」
「…かなわないなぁ、もう」
 割れずにすんだ湯飲みを、やや乱暴に拾い上げ、そっぽを向いて何かつぶやく。
『…猫、猫って、犬も小鳥もいますのに。それに他にも…』
 …聞かなかったことにする。
それよりも、見る見る頬が朱に染まり、今度は恋する乙女の風情。
年頃の妹というものは、かくも面白いものか。
…年頃の女というのは…このように反応するものか。
「…育ったな、鈴音」
「…本当に、お父様のようなことを言われます…」
 拗ねた横顔を見ながら、不思議な気持ちで紫苑は笑った。
 その通り。思えば、「母」ではない、「父」のような大人を目指してきた。父親のような「男」にと、それを目指して生きる道は、妹の道とはまた少し異なる。
 妹の年頃に、自分は何を見ていただろう。
「…そんなに笑いますか…」
「許せ。女きょうだいとは面白いと、そう思っただけだ」
 じっとりと姉を見ていた妹が、ふと表情を変えた。
「お姉様、茶目っ気が出て来られました」
 今度はこちらが面食らう番だった。


「いい日和ですね」
「…そうだな」
 花びらまじりの追い風に、ふと振り返ってみれば、見上げた桜は八分咲きといったところか。
 穏やかに晴れた良い朝だ。
 分かれ道にさしかかり、右と左に二人は別れた。
「それでは、お兄様」
「ああ、ではな」
 風は向かい風となり、妹の髪を揺らす。角を曲がって違う道を歩けば、また別の風も吹こう。
 吹かれてくるがいい、鈴音。存分に。
 強く弱く、冷たく緩く。様々な風の吹く中で、凛と立って伸びるがいい。

「お前とて…立派に『華』だ」
 砂埃に目を細めながら、紫苑は歩き出した。
 今日一日、柔らかな風が吹くだろう。
 それを楽しむかのように、少しだけゆったりと。だが、ぴんと、背筋を伸ばして歩いていく。
 紫苑は知らない。
 通り過ぎた店の軒先で、掃除をしていた小僧が一人。きらきらと光る目で、その背を見つめていたことを。
 彼なりに忙しい日々の中、ほぼ唯一の楽しみが、仲間たちとのチャンバラ遊びであることを。

 春爛漫。
 野に山に、道端に、人家の庭に。好き好きに陣取って、てんでに花が咲いている。
 かたちも色も、好き好きに。
 ただ凛と、天を仰いで、今日も風に揺られている。

- 終 -


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