5th Anniversery

歩み (作:白湖朱菜)

「……え?」
 突如として告げられた、予察とは異なる現実を呑み込めぬまま。
 知らず知らずのうちに私は訊き返していた。不覚にも、間の抜けきった疑問符付きで。
「ちょ、ちょっと紫苑! 袴! 墨!」
 隣に佇んでいた正親の、やけに切羽詰まった声に耳朶を打たれてはっと我に返るも、時既に遅し。
 言われた通り座する自身の長袴に視線を下げれば――其処では言われた通り、墨が染み込んでいる真っ最中だった。点々と玉模様に落ちた黒は刻一刻を追うごとにじんわりと縹の生地を侵食し、存在感のある色をくっきりと映えさせている。
「あーあ、何やってんだよ……お前らしくねえな。ほら、取り敢えず筆置けって」
「そ、うだな。すまない」
 私を硬直させた張本人である一から諭され、墨を滴らせる原因となった手中の毛筆を慌てて硯に戻す。
 このようにいとも容易く冷静さを欠いてしまうとは情けないし、本当にらしくもない。まだまだ精進が足りぬ、ということか。
 未だ広がり続けている斑点をぼんやりと見つめ、私は自嘲にも似た苦笑を心中に零した。
 (いつかこういった日が来るのは分かっていた、つもりだったが。……まさかこんなに早く、こんな形で訪れるものとは夢にも思わなかったな)



 『歩み』



 江戸中を混乱と恐怖とに陥れた陰陽師による襲撃事件にようやく収束がついて、早ひと月。
 それは春告鳥の温かなるさえずりが碧空に響き始めた、弥生も末に差し掛かりし或る日のことだった。
 治安維持部隊の一つである黒虎隊で副長を務める私は、今日も今日とて件の後処理に追われ、屯所にて書面の山と対峙していた。同じ姿勢で延々と大量の文字に目を通し続けるのは流石に堪えるが、隊長の一にしろ隊士の正親と徹平にしろ誰一人として書簡の扱いに長ける者がいない故已むに已まれず、というものだ。
 しかし根を詰め過ぎては後の業務に支障を来しかねない、茶でも入れて少し休息を取るか――と腰を上げかけるや否や、入口の引き戸の開く音を捉え、私は其方へ顔を差し向ける。
「ああ、正親か。巡回の方、ご苦労だった」
「ただいま~。紫苑も書面と格闘、お疲れ様ね」
「まだ半分も終わってはいないのだがな……と、徹平はどうした? 此処を出る時は一緒だっただろう」
「それが忘れ物したとか何とかで一旦家に取りに行くから、先に帰っててくれって。一年経っても徹平ちゃんのドジっ子っぷりは変わらないわよねえ」
「そそっかしいのも大概にしてもらいたいものだ。だから過去の失敗を鑑みよと常に言っているというに……」
「はいはい、そこまでそこまで。眉間の皺が増えちゃうわよ?」
 呟きかけた小言は、正親のからかい文句で見事なまでにすっぱりと先を断たれた。
 彼女(としないと“彼”は怒る。不適当な使い方だと分かってはいるものの、経緯こそ違えど私も似た状況にあるので何も口出ししないことにしている)とは長い付き合いになるが、こういったところで押して敵った例が一度もない。それが身に沁みているだけに、私は向けられた茶化しを軽く突っ撥ねて話を纏め上げる。
「余計な世話だ。……ところで茶を入れるところなのだが、お前はどうする」
「アタシも飲むわ、というかアタシが入れるから紫苑は座ってて頂戴な」
「しかし……」
「配慮はありがたく受け取っとくわ。でも巡回くらいじゃへばらないわよ、それに幸い町が平和も平和なものだから全然疲れなかったし。だから、ね?」
「そうか。では悪いが、私の分も頼んだ」
 了解、と言い置き奥の間と引っ込む後背に一瞥を投げると、早速仕事の続きにかかる。優先順位に従って片付けるとなるとまずは報告書を仕上げねばなるまい。
 戸口がまたしても、しかも今度は盛大なる声を上げたのは、報告書用である上物の紙を広げて手際良く墨を磨り、さあこれから筆を取るぞという矢先だった。
 これだけ戸を声高に開ける人物など差し詰め一人しか思い当たらないので、今度は目線を手元の紙に落としたまま応対する。
「煩いぞ。もう少し静かに開けられんのか、一」
「悪ぃな、これは癖だから直らねえ。諦めてくれ」
「……最近、あの戸もガタがきている。このままでは壊れるのも時間の問題だが……そうなった暁にはお前に全修理費の身銭を切ってもらう。今から充分心しておくのだな」
「げっ、おま、何だよそれ! 俺は断固として認めねえぞ!?」
「まあ此処の引き戸の不具合は全面的にハジメちゃんに起因するんだから仕方ないんじゃない? はい二人とも、お茶、お待ち遠様」
 血相を変えて稚児のように騒ぐ一を適当にあしらいつつ作業を続けていると、正親から湯呑みが手渡された。啜れば仄かな苦みが口内に満ち、座し続けて強張っていた身体が自ずと解れてゆく。ごくごくと喉を鳴らして熱い茶を一気に飲み干した眼前の男も、多少は気の昂ぶりが収まったように見受けられる。
 私は硯の上の筆を取って墨を浸しつつ、平静を取り戻した一に質す。
「それでどうだったのだ、御上の話は」
「どうって……いつも通り、ってとこか? 『陰陽師の件においては未だ油断禁物なり、警戒を怠るべからず』、だとよ」
「ホントにいつも通りの台詞だこと。白狼と黒虎の隊長が揃い踏みなんだからもっと実のある話でもすればいいのに」
「致し方あるまい、先方も立て込んでおられてお忙しい御身なのだから。では我々はいつも通りの務めを果たせば良いということだな?」
「あー、まだあった、『白狼と黒虎が揃い踏み』で思い出した。京都に新しく治安維持部隊が設立されるらしいんで両方の隊から一人ずつ応援に行ってくれってさ」
「……何が『いつも通り』なのよ、ハジメちゃん。それ、滅茶苦茶大事な話じゃないの!」
 さも有りふれたことであるかの如く吐き出された有りふれぬ内容に、正親は呆れ顔を呈す。勿論私が殊更大きい溜め息を落としたのは言うまでもない。
 若干非難がましい目を以て続きを促すと、一は悪びれる風もなくすらすらと言を接いだ。
「俺らもそこまで詳しくは聞かされてねえんだけど、どうも京都で化け物が出てて……その化け物退治と民の安全確保の為に“蒼龍隊”ってのが出来るらしい。んで、人手不足なもんだからこっちに助っ人を要請してきてるんだと」
「また急な相談ね。じゃあ一刻も早く応援を派遣しないといけないのかしら?」
「今日明日ってほどでもねえが、遅くとも七日後には江戸を発ってくれ、とは言ってたな」
「成程、事のあらましは把握した。私は黒虎隊からは徹平をやってはどうかと思うが……一、正親、どうだ?」
 率直に切り出して意見を仰ぐと、二人は互いに面を見遣った後、優しい笑みを揺蕩える。
「俺は賛成だ。あいつはまだまだ伸び盛りだし、色々体験するのは勉強になるだろ。もしかしたら向こうで何か掴んでくるかもしれねえもんな」
「本人のいないところで勝手にこんな大切なこと決めちゃうってのは可哀想かもしれないわね。でもアタシも良いと思うわ、徹平ちゃんはやる時はやる子だもの」
 情深い後押しを貰い、提案しておきながら少々後ろめたさを感じざるを得なかった。というのも、私は二人とは違い合理性から徹平を推したようなものだったからだ。
 だが一が言うように彼が伸び盛りで、正親が言うようにやる時はやる一端の武士であるのは私とて重々承知している。予期せぬ事態ではあるが、この異動は彼にとって良い刺激となるやもしれない。
「……決定だな。それでは後で私から伝えておこう。して、白狼隊の方からは誰が京都に行くか、一はもう聞いているのか」
「あ、それアタシも知りたいわ~。やっぱりここは中堅組辺りから一人選ばれるんじゃない?」
 それは他愛ない、ただの流れで訊いただけで。
 だから話に食い付く正親を横目に収めて、墨を吸った毛筆を持ち直して、会話をしながら報告文に取り掛かる、はずだった。
「いや、もうすぐ紫苑の方にも連絡が来ると思うけど……どうも実時は鈴音を向かわせるつもりらしいぞ」
 しかし予想だにせぬ返答を受け取ってしまったものだから、私の全身は行動を停止するより他になく。
 ――かくして、冒頭の腑抜けたような反応に繋がることとなる。


 + + + + +


「というわけで、守りとなる物を渡したいのだが、如何せん何をやれば喜ぶのか見当てがなくてな」
「はぁ……あ、蕎麦湯のおかわり、いかがです?」
「頂戴しよう。それはそうと若菜、妙案はないものだろうか」
 異動の話が表沙汰になってから三日後の、昼八つ過ぎ。
 山積する書状の対処もそこそこに出向いたのは、混み時の峠を越えて客足が疎らになりつつある馴染みの蕎麦処、栄屋だった。
 迅速且つ丁寧に蕎麦湯を注いだ看板娘は机を挟んで正対する木製の椅子に浅く腰かける。
「うーん、守りのもの、ですか……。手っ取り早く鈴音さまご本人に欲しいものをお訊きして贈られれば一番良いんじゃないかと思うんですけど」
「それが最善だとは私も考えた。しかし互いの時間が合わない上、鈴音は身支度にかかりっきりでな……しっかり言葉を交わすこともままならんのだ」
「じゃあ訊き出し作戦はちょっと無理そうですね。神社のお守りでは駄目なんですか?」
「ああ、そういった御守りは既に麗殿より頂いているから心配せぬように、と父母に言われた。……情けないが私はこういった贈答には酷く疎い……その点若菜なら鈴音と年の近い娘であるし、私よりは幾分も鋭いかと思ってな」
「そういうことなら何が何でも紫苑さまのご期待にお応えします! ではですね……」
 懸命に思惟してくれる若菜に申し訳ないやら自分の鈍さが不甲斐ないやらで居た堪れなくなり、覚られぬよう一人肩を沈める。
 年頃の女子が好むであろう物は分からないでもないのだが、通りの反物屋や小間物屋を覗いて色とりどりの品を手にしてもどこがどのように魅力的なのかがぴんと来ず、終いにはどれも同じに見えてくる始末。これでは餞別を定めるだけで一日が潰れてしまう。
 今ほど己がごく平凡な普通の“姉”で在ったなら、という無味な仮定を脳裏に濃く描いたことはない。さすれば若菜を巻き込まずとも、またここまで頭を悩ませずとも済んだはずだ。
「……紫苑さま? どうされました?」
「! あ、ああ、すまんな。続けてくれ」
「えーと。やっぱり『髪は女の命』と言いますし、髪油、櫛、笄なんかは貰えたら嬉しいかなって思います。あ、お客さまの噂によると巷では竹に銀箔を塗った笄が流行ってるらしいですよ! あとは私たちからすると京御白粉も憧れのものではありますけど……鈴音さまが本場京都に行かれるのなら、わざわざ江戸で買われなくとも良いような気はしますね」
「ふむ、そうか……」
 閊えずにすらすらと述べてゆく様に感心しながら、顎に手をかけて一考する。差し当たって髪飾りの類、特に竹に銀箔を塗った笄とやらを選んでおけば無難であることは一応解した。
 しかし“受け取って喜ばしい代物”の第一に装身具を挙げるとは。“女”の趣味は皆目見当がつかぬものだ、と自分に憐憫の情を向けたのを知ってか知らずか、盆を片手に立ち上がった看板娘は眩しい笑みを頬に彩る。
「でも鈴音さまは、紫苑さまから頂けるのなら何だって嬉しいって仰りますよ」
「さて……どうだろうな」
「大丈夫ですって、尊敬するお兄さまから贈り物を貰えるだなんて妹冥利に尽きるじゃないですか! だから紫苑さまが想いを込められたものを守りとすれば、きっと万事上手くいきます」
「……礼を言う。忙しいところ手間をかけて悪かった、御代は此処に置いておくぞ」
「ありがとうございます。私もちょっとでも紫苑さまにお力添えできたのなら何よりです」
 今度はぜひ黒虎隊の皆さまでお出でくださいね、という朗らかな少女の声音を背に、蕎麦処の暖簾をくぐる。
 煩いを吐露し一通りの答えを得て靄が晴れたような――それでいてまた新たな靄がかかったような、相反する割り切り難い心地を提げたまま、私は仕事が積み重なる屯所へと足早に戻ったのだった。


 + + + + +


 (……で、結局何にするか決められぬまま明日を迎えようとしているわけだが。はあ、一体どうしたら良いのやら……)
 若菜を頼り栄屋に押しかけた日から更に三日後の、仕事場からの帰り道。
 いよいよもって鈴音の出立を翌日に控えているというのに、未だ私は手向けの用意を整えられずにいた。先日生じた新たな靄は現在に至るまでずっと私の胸の内に細波を立たせて止まない。
 その中を占めるは、守りの品を笄にしてしまって本当に良いのか否か、もっと鈴音を守るに相応しい“何か”があるのではないか、という二つの問いだ。
 無論、若菜の言葉を蔑ろにするつもりは毛頭ない。少なくとも無きに等しい私の目利きで決めた物などより、彼女の助言を活かした物の方が余程受けが良いのは分かりきっている。

 『でも鈴音さまは、紫苑さまから頂けるのなら何だって嬉しいって仰りますよ。大丈夫ですって、尊敬するお兄さまから贈りものを貰えるだなんて妹冥利に尽きるじゃないですか!』

 それに若菜がこう励ましてくれたように、鈴音は何をやったとしても喜んでくれるだろう、とは思う。
 と同時に、今回ばかりは兄でなく姉として妹に特上の守りを授けてやりたい、故に何でも良いからと適当に繕った物を渡したくはない、という強い願いがあるのも確かである。これまでも白狼隊における紅一点として活動してきたのだから、この期に及んで男に対し物怖じはしないだろうが、江戸と京都では勝手が違う。ただでさえ慣れぬ土地である上に、女武者である所為で苦労する可能性も皆無だとは言い切れない。だからこそ姉の立場から餞を贈ってやりたいのだ。
 山形家の為に表向きは“兄妹”で振る舞い、またこれから先もそう振る舞ってゆくとしても、私達がたった二人だけの“姉妹”である事実に変わりはないのだから。


 + + + + +


 (だがひとりの姉として、遠方へと旅立つ妹に何をしてやれるのか。……姉らしいことなど露ぞ知らぬ存ぜぬな私にとってはこの上ない難題だな……、?)
 取り留めのない堂々巡りな思索にいい加減飽きが挿してきた頃、ふと我に返って辺りを見渡す。
 其処は栄華を極めし江戸の町並みが隠し持つもう一つの顔、所謂貧困層の居住区画だった。どうやら私は屋敷に帰るつもりで路地裏という路地裏を伝い歩いてきてしまったらしい。
 崩落しそうな荒ら屋が連なりやけに静まり返った光景と、此処彼処に充満する表とは質を異にした空気とに何かしら気味の悪さを感じ、急ぎ後にしようと踵を廻らせたところで――囁きとも取れる小さな声が耳を掠める。
 不思議に思って再度褪せた景色の奥に目を遣れば、裾の解れたみすぼらしい小袖を着込む二人の少女がいた。背丈の低い方は華奢な身体に不相応なほどの大荷物を背負っており、高い方は忙しなくその周りを動いてあれやこれやと支度を助けている。
 一見した状況からでも二人の娘が姉妹の間柄であることは容易に推察出来た。……そしてまさに今、妹が口減らしの為に家を出るところであるということも。
 本人が奉公に出たくなくとも、家族が出したくなくとも、そうせざるを得ない現実に突き当たって苦渋の決断を下したのだろう。このような世界を知らなかったわけではないが、いざ直面すると胸に迫るものがある。
 一方、少し離れたところで佇立する私に気付いていないらしい娘達は、やはり声を密めるようにしながら会話を続けていた。
「さ、これでさっきよりはマシになった。ここの紐は緩みやすいから気を付けるんだよ」
「うん。……あの、ごめんな、姉ちゃん」
「? 何で謝るのさ」
「だって、姉上だからって理由で姉ちゃんにはずっと世話してきてもらって……でも最後までこうやって、面倒かけてばっかりだから」
 幼き少女の視線は乾いた地へと落ちてゆき、所作と比例するかの如く台詞も末尾へ向かうほどに一層声量が落ちてゆく。
 対する姉は妹の細い両肩を叩いて下がる一方な顔を正面へ戻させた。
「確かにあたしはあんたの世話をずーっと焼いてきた。炊事も洗濯も掃除も全部基礎の基礎を教えたし、最低限の礼儀だって教えた。でもこれはこの先生きていく助けになるように、あんたの身を守る手立てになるように、“あたし”が“あんた”にしたくてやったんだもの。姉だから妹に何かしてやらなくちゃいけない、って思ってやったことは一度もないよ」
 そう断言した姉の表情は、私が立ち尽くしている場所からは窺い知れなかった。
 しかし微かに大気を振動させる音の色が物語っている。きっと彼女は誇らしげな、満ち足りた笑顔をしているのだろう。
 父母を呼ぶ為か、暫くして二人の姿は立て付けの悪い戸の内側に消えていった。その様子を見届けて、どうかあの姉妹に多くの幸が訪れるようにと願いながら、私は静かにその場を立ち去った。
 (『“あたし”が“あんた”にしたくてやった』、『姉だから妹に何かしてやらなくちゃいけないと思ってやったことは一度もない』、か)
 元来た道を辿り、人の往来で賑わう表通りの繁華な気に塗れて、先程の姉の詞を反芻する。心を覆っていた靄は既に綺麗さっぱり無くなっていた。
 姉として妹に――同性の年長者として年少者に――何をしてやれるか、という意識が間違っていることをようやっと理解したからだ。
 (我ながら愚かなものだ……“姉妹であること”の意味を履き違えたままこの六日を悶々と過ごしてきたのだから)
 姉やら何やらといった立場は自ずと後から付いてくる。本当に肝心なのは“紫苑”が“鈴音”に何をしてやりたいか、なのだ。
 ここまで来れば、問いの答えなど最早自明のこと。それだけに務めに差し障るまで悩み抜いていた己が滑稽で堪らず、呆れを通り越して笑えてくる。
 (わざわざ相談に乗ってくれた若菜には申し訳ないが、私が守りとして授けたい物も、実際授けられる物もこれ一つしかないからな。……帰ったら簡単に準備をしておくとするか)
 家路を軽い足取りながらゆったりと踏みしめ、吹き上がる風を追いかけて前方の空を眼に映す。
 斜陽によって紅に染め上げられた天には一点の曇りもない桂月が浮かび始めていた。


 + + + + +


「……お姉様? どうしたんですか、いきなり呼び立てるなんて」
 日もとっぷりと暮れた時分、荷造りの最終確認をしていた鈴音に声をかけ、庭先へと誘い出す。
 この一週間、二言三言はあれどまともに顔を突き合わせて会話する機会に恵まれなかった為なのか、当の本人は通時に比べ少し余所余所しく尋ねてきた。
 それには答えを示さない代わりに、深みのある菫色を湛える円らな双眸を真っ直ぐ射抜く。
「――私と手合わせしろ、鈴音」
「は……って、え? い、今からですか?」
「決まっているだろう、今でなければ何時やるのだ」
「でも、何もこんな夜分に行わなくとも……剣を振るう時間帯じゃないですよ」
「ほう……隊士であるお前は事件が夜半に起きたら、そう言って見過ごしてやるのか? 実に天晴れ、見上げた根性だな」
 機嫌を逆立てるようにわざと刺を含ませれば、細い肩が小さく跳ねた。私の企図が分からぬ困惑と、突然降りかかってきた嫌味に因る怒気とを一緒くたにした色が顔ばせにありありと滲んでいる。
 私は浅く眉根を寄せて睨む彼女を宥めるように調子を和して悠然と、けれど追い打ちをかけるような響きで口遊んだ。
「無論明日のこともあるし、私の申し出を受けるも受けぬもお前次第だ。好きにすれば良い」
「……本当にどうしたんですか、お姉様」
「別にどうともしない、強いて言えば気まぐれだ。だがやるとなれば容赦は微塵たりとも加えぬ」
 ……どうともしない、気まぐれ、など嘘偽りも甚だしい。
 “全身全霊をかけて剣の手合わせをする”――これぞ私が行き着いた答え、紫苑として鈴音に授けたい守りの物だった。
 身を飾り立てる物でもなければ、作法、茶や華、舞といった女の一般的な嗜みでも、仏神の加護を受けた物でもない。直接身を守る物でないどころか、形無き物故に手元にも残らない。
 しかし私達姉妹を繋いできたかすがいの一つは他ならぬ、剣の道なのだ。共通の志を携えて歩んできた者同士、“真剣勝負”が持つ意味合いは重い――物的に留まらずとも心的に多かれ少なかれ留まるだろう。
 何よりこれは女でありながら男の武士として生きる、言わば普通の姉でない“私”だから贈ることが出来る最高の進物、最上の護符ではなかろうか。
「さあ、どうする。戦うか否か、二者択一だ」
「……」
 返答を待ちつつ縁側の隅に立てかけてあった二振りの竹刀を取ると、そのうち片方を俯いて黙りこくってしまった妹に放る。逡巡の最中に投げ渡されながらも、彼女は反射的に上手く受け止めた。
「……まあ最も、お前ともあろう者が早々と尻尾を巻くわけがあるまい?」
 両の手に握った竹刀と私とに目を配る有様に薄く口端を吊り上げてやる。紡いだ言の葉に「お前が退くわけなど到底有り得ぬ、お前のこれまでの歩みを見せてみろ」という確かな予感と挑発の意とを秘めて。
 対する相手は刹那なる瞠目の後、面構えをがらりと変えた。
「当然です。その申し出、お受けします」
「……私は全力で掛かる。情けは期待するだけ無駄と心得よ」
「それこそ願ってもないお話です。私だってずっとお姉様と本気で勝負してみたい、って思ってましたから」
 寸刻前の複雑な顔持ちは何処へやら。
 猛々しい気迫を迸らせるその姿には、迷いも惑いも一切無かった。
 (そうだ、それでこそ我が妹。……向上心があって負けず嫌いな、お前らしい)
 そこまで思い及んだのを最後に千思万考の柵を遮断し、研ぎ澄ました感覚を全て対峙する剣へと集中させる。
 冷え冷えとして鮮やかな月光と開け放たれた障子の奥から溢れ出る行灯の温かな光に包まれた中で、私達の長きに渡る試合は火蓋を切ったのだった。


 + + + + +


「ああ、やはり少し痣となったか」
 明くる朝、鈴音の自室にて、私は部屋の主人の手当てをさせられていた。
 理由は至極単純、昨夜の手合いで傷を負わせてしまったからだ。とは言え治安維持部隊の隊士を務める者からしてみれば軽い掠り傷も良いところで、これからの長旅を妨げる程度ではなかったが。
「お姉様にあれだけ打ちのめされれば痣にもなりますよ、もう。大体ですね、出立する前日だっていうのに勝負を仕掛けてくるなんて……」
「――と不平不満を呟く割には清々しているように見えるがな、私は」
 妹の口は悔しがって拗ねているのが丸分かりな文句を捲し立てているが、纏う雰囲気は明るい。
 微傷に消毒を施しながら悪戯っぽく問うてみると、猫っ毛の髪をさらりと舞わせて外方を向いていた面が私に戻る。
「それは勿論! お姉様の本気の剣なんてそうそう滅多に受けられるものでもないですから。……結果は不満足、でしたけどね」
「だから予め断っただろう、『情けは期待するだけ無駄と心得よ』と。これが現実だ、悪く思うな」
「うう、相変わらず手厳しいなあ……」
 雑談を交わすうちに簡単な治療は完了し、器具を薬箱に詰めて元あった場所に据え置く。
 その間鈴音が此方を見ているのを分かった上で、私は振り返ることなく自身の声のみを後手に遣った。
「だが、お前の歩みは本物だった」
「へ?」
「強くなった、と言ったのだ。お前が向けてきた一閃の中には我が家の流儀でない、私が知らないものも幾つかあった……恐らく白狼隊士から影響を受けて会得したのだろう。この一年で大きく成長したことに間違いはない」
「……あ、ありがとうございます!」
「礼など要らん、私は感じたままに述べただけなのだから。但し自惚れるな、私に後れを取っているようでは一人前とは認められんぞ」
「そうですけど、でも、お姉様からそんなお言葉が頂けたのはとっても嬉しいですよ!」
 戒めとして忠告を付け加えたにもかかわらず、妹は花が綻んだかの如く頬を上気させている。その風情に私の“守りの品”が少なからず心に届いたのだと安心し、此方の口元も自然と緩んだ。
 しかし成長したと言えど褒められただけで手放しに喜ぶとはまだ子供だな、と微苦笑し、小窓から晴れ渡った大空を仰ぐ。天道も随分な高さまで昇った――別れの刻も、間近だ。
「……ともあれ、そろそろではないのか」
「あ……ですね。早く準備しなきゃ、徹平君が迎えに来ちゃう」
「少し待て。これを」
 荷に手を掛ける動作を制し、懐に入れていた品々を手渡す。彼女は目を丸くしながらもおずおずとそれらを受け取った。
「え、これ全部、お姉様が?」
「違う、お前宛の物を預かっていただけだ。これは千鶴からの薬、旅の途中で怪我した時に使ってくれと言っていた。その左が庄吉から、刀用の鉄を打って作った護りの簪だそうだ。その隣は円良からの数珠で、わざわざ手作りしてくれたらしい。最後に蕎麦焼餅……これくらいは言わずとも分かるだろう」
「若菜さん、ですよね? 非常食に、ってことでしょうか」
「ああ、蕎麦は元々旅籠の食べ物だからな。保存も利くし近くに飲み食い処が見つからない時には重宝するだろう。……皆、お前が忙しいだろうから迷惑にならぬようにと、私に託してくれたのだ」
 特に親しかった町人達の想いを告げてやると、鈴音は感慨深げに手中の贈り物を見つめている。
 日課となっていた説教もこれから久しく絶えるのだろうと思い、私は次なる一音一音を努めて大切に織り成した。
「向こうへ行っても時々は江戸を思い出せ。町の人々はお前を慕っているし、お前の帰りを待っている。それは私達黒虎隊も、無論白狼隊も同じだ」
「……」
「京で何が起こっているのかは察しもつかん……不安も大きかろうが、その持ち前のしぶとさを存分に発揮してこい。力ずくで道を切り開いていくのが、お前には似合いであろう?」
「……はい。私、精一杯頑張ります」
「良い返事だ。だがもし自力ではどうにもならぬ壁が立ちはだかった時は、急ぎ文を寄越せ。――身命を賭してでも疾くお前の所に駆けつけると、約束する」
 すると妹は「身命だなんてそんな大袈裟な」と、くすくす笑いを転がした。彼女の為ならどんなに己の身を削ろうとも厭わぬと思っているだけに至って本心からの言葉だったのだが、敢えて口にするのも気恥ずかしいので曖昧に濁してそれに答える。
 襖の向こう側から女中の声がかかったのは、それからすぐのことだった。徹平が来たのかと訊くと予測に反して否定の辞が返る。
「いえ、月島様ではございませんが……ご立派な殿方がお見えになっておりますよ。何でも、鈴音様のお見送りにいらしたそうです」
 鈴音の面にぱっと輝きが挿すのを逃さず、含み笑いを投げてやれば、その頬はついさっきの上気加減と張り合えるほどにうち赤らめられている。
 微笑ましい気持ちで成り行きを黙視する私を余所に、恋する娘はどぎまぎとしながらも早急に旅支度を終えた。
「で、では私、行ってきますね!」
「くれぐれも気を付けるようにな。徹平にも宜しく伝えておいてくれ」
「分かりました! 徹平君に……て、あれ? お姉様は見送りに来てくださらないんですか?」
「生憎、私は逢瀬の邪魔をするほど無粋な趣味は持ち合わせておらんのでな。まあ、どうしても来てほしいのなら見物を兼ねて行ってやらなくもないが?」
「……お姉様の意地悪……」
「ふ、そのように面白き反応が得られるのなら意地悪で結構だ。……それでは達者で、鈴音」
「はい。お姉様も、どうぞお元気で!」
 最後にそう言い残し、十八年もの月日を共に過ごした袴姿の少女は私の視界を去った。
 続いて訪れた静けさには鳥の声一つ、物音一つすら混じっておらず、自らの規則的な息遣いしか聞こえない。
 (行った、か。この屋敷も暫くは火が消えたようになるだろうな)
 今生の別れでないにしても、あの慣れ親しんだくるくる変わる表情と鈴を振った声とを見聞き出来ないのは正直寂しい。だがそれと同じ分だけ次に相見える機会が待ち遠しくもある。
 たった一年で白狼の色を己が剣筋の内へと取り込んだのだ。都でどれだけ伸びるのかは全くもって未知数――故に次期山形家当主である兄として、成長を見守る姉として、何より山形紫苑というひとりの武者として、これからの鈴音の歩みが楽しみで仕方がない。
 (さて……いずれ来るその時の為にも、私は私の歩みを止めるわけにはいかん)
 主のいなくなった部屋をざっと眺め、ひとつ深呼吸をし、穏やかに凪いだ水面の如き心裏に微笑を捧げ。
 最後に凛然と背筋を張ると、私は今日という日の一歩をしっかりと踏み出したのだった。


- 作者様より -
 Physical Room C.S.K.様、5周年おめでとうございます!

 今回は「シスコン万歳!」な紫苑さん視点のお話を書いてみました。
 構成要素の九割九分が妄想から生まれたネタですので、いつも以上にキャラをぶち壊してしまったのではなかろうかとヒヤヒヤしておりますが、とても楽しんで物語を作ることが出来たと思います。
 ちなみにタイトルが最後の最後まで『山形紫苑の☆妹煩悩奮闘記』になりかけていたのは秘密の事実です……(笑)

 毎度お馴染みの長文となってしまいましたが、少しでも5周年のお祝いになれば&ご覧くださった皆様にちょっとでも楽しんでいただけれる出来になっていれば良いなと心から願っております。

 それではPhysical Room C.S.K.様、素敵な企画をありがとうございました&再度ながら5周年本当におめでとうございました!
 今後のゲームも心底楽しみにしております♪


○周年記念企画

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