5th Anniversery

天国の沙汰も縁次第  (作:シルヴァイン)

 荒く息を吐いて横たわる彼に、惣助は何度目かも分からない後悔の念を抱いた。
 酷く苦しそうに喘ぐ姿に、ただこうすることしか出来ないのかと彼の手を握る。
 由紀彦はさっきまで傍に座っていたのだが、今は少し離れて横になったので布団を掛けてやった。
「っ……実時…」
 名を呼んで握った実時の右手は、額と同様に酷く熱い。



 『白狼恋歌――――天国の沙汰も縁次第』



 始まりは三日前のことだった。
 惣助はいつも通り二人より早く起き、朝食の準備と猫への餌やりをした。
 やがて起きてきた二人と共に朝食を食べたのだが、実時は気分が優れないという。
 見れば確かに少々顔色が悪い。
「…おい、大丈夫か」
 普段滅多にないのに朝食を残した実時にそう聞いてみたが、実時は大げさだとでもいいたげに少し笑った。
「ああ、問題無い」
「ならいいけどよ…本当に具合悪かったら、さっさと医者に診てもらえ」
 惣助は少々口煩く言うが、実時は自分でも大したことは無いと判断しているのだろう。気に掛けるような様子も無く先に出ていった。

 □

 屯所に皆が集まってから暫く、今後の予定など話し合った。
 惣助は実時の体調が気にかかりちらちらと視線を送っていたのだが、実時はいつもと全く変わらぬ調子に見えた。
 これなら心配いらないかと少々安心した次第である。
 平常通りの見回り、惣助が組むことになったのは美景だった。
 先に見回っている実時と廉次郎ととは屯所で交代する予定だったのだが…
「どこにいらっしゃるんでしょうね、お二人とも」
 何かあったのでしょうかと、美景が心配そうに呟いた。
 決めた時刻を大幅に過ぎても、二人は帰ってこなかったのだ。
 惣助も困ったと言うように眉を下げて。
「どっかで油売ってんのか、なんなのか…ともかく捜しにいってみるぞ」
 ここでぼーっと待っているよりは早く見つかるのではと、見回りも兼ねて二人で捜しに出た。
 まずは人通りの多い通りの見回りからである。

 一通り見回った後で、もしやと栄屋へ寄ってみると…二人は確かにそこにいた。
 いたのだが、ゆっくり休んで油を売っているのではなく…実時が横になっていたのだ。
「実時!?」
「隊長!どうされたんです!?」
 勿論のこと惣助も美景も動揺したが、実時自身はあっけらかんとしたもので、騒々しいとでも言いたげにひらひらと手を振って見せた。
「大したことではない。少し気分が優れなかっただけだ…」
「この近くで眩暈がすると言われましたので、少々休んでいたのです。もう随分顔色が良くなったようですが…」
 気分はいかがですかと訊かれ、実時はぼんやりとした様子ながらもゆっくりと身を起こす。
 廉次郎は慌ててその背を支えた。
「ああ、もうよくなった…すまないなお前達」
 交代の時間に帰れなくて、と言いつつ実時は立ち上がる。
 その立ち姿にはふらつき等も無く、しっかりとした様子だ。
「本当に…大丈夫ですか?」
 心配の拭えない調子で美景が聞くが、実時は本当に大丈夫だと繰り返した。
「ここ数日…遅くまで仕事を続けていたからな。疲れが出たのだろう。今日は早く休む」
「そうしろ。全く…仕事頑張って心配かけてりゃ世話ねぇよ」
 血の気が引いた様子だった惣助も、血色もよくしっかりした様子の実時に安心したのかそのような口を叩いた。
 実時も彼の言葉に素直に頷いて。
「すまなかった。では、ここで交代ということにしよう」
「はい。では…今日の予定は見回りだけでしたし、隊長はもうお屋敷でお休みになっても…?」
 大丈夫ですよねと確認を取るように美影は廉次郎の方を見た。
 目が逢うと彼は微笑んで。
「ええ。瑣末な仕事は私が済ませておきますので…実時殿、また気分が悪くなっても大変ですから私がお送りしましょう」
「悪ぃ。頼む」
 廉次郎が連れて帰ってくれるのならと安心したように惣助も礼を言った。
 すまない、手間を掛けるなという実時に、気にしないで下さいというように廉次郎は微笑んで。二人で実時の屋敷の方へと向かった。
 それを見送って、まだ見回りの時間が残っている惣助と美景は実時の様子を見てくれていた若菜に礼を言って栄屋を出る。
 ぽつりと美景が呟いた。
「心配ですね…隊長、本当に大丈夫でしょうか」
 美景が見上げた惣助の顔も同様に浮かなかった。どうしていいか分からないというように目が泳ぐ。
「…朝から調子悪そうだったからな…飯も残したし。普段は綺麗に平らげるのによ」
 ぼんやりしているようで少々根を詰めすぎる奴だから心配だなとは思いながらも、今日は早く休むと言っているのだしそれでいいかと無理矢理にでも思うしかなかった。
 よし、と気持ちを切り替える。
「実時のことは心配しても仕方ねぇ。今はきっちり見回り終わらせるぞ」
 身を翻し歩き始めれば、美景が慌てて後を追った。

 □

 時は過ぎて、その晩。
 惣助は人知れず安堵の息を吐いていた。
 心配していた実時が、ぺろりと夕飯を平らげてくれたからだ。
 一人前を食べる元気があるなら心配は要らないだろう。
 全く心配かけやがって…と一人ごちながら片づけを続けた。
 実時は既に多くの猫と共に眠っている。
 先ほど様子を見に行ってみた時には顔色もよく、呼吸も整っていた。
 医者を呼ぶような大事ではないだろう。

 片づけを終えた惣助は由紀彦と共に、実時に付き合ってというのでもないが常時より早く眠りについた。
 静かな夜で、音といえば猫たちが歩き回る足音ぐらいのもの。
 そんな環境の中、横になってすぐにぐっすりと寝入っていた惣助だったが、いわゆるあの世とこの世の交じり合う丑の刻ごろ…ふと目が醒めた。
 人の気配を感じると同時に、こちらを呼ぶ声が。
「惣助…」
「実時?どうした」
 囁くように己の名を呼んだその声は確かに実時の物で、一体どうしたのだろうと惣助は不思議に思った。
 普段彼が夜中訪ねてくる事は滅多に無い。猫が何か悪さでもしたのだろうかと考えながら身を起こすと、実時の方も襖を開けた。
「ッ!」
 その姿に、思わず惣助は凍りついてしまった。
 実時のこちらを見る目は熱に浮かされたように焦点が合わず、肩を上下させて息をしている。頬には普段無い朱が灯っていた。
 一目で体調がよくないことが分かる。
「おい、実時…!大丈夫かお前」
 焦り立ち上がると傍に寄った。
 傍で見ればその苦しそうな様子がよりはっきりと分かり、惣助は己の心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。
 実時は薄く唇を開き、濁った声で訴える。
「寒い…。寒、いんだ」
 ぐらりと倒れてきたその身を慌てて抱きとめると、惣助の体で暖をとろうとするようにぎゅうぎゅうと抱きついてきた。
 寒い寒いと繰り返し訴えるその体は、惣助には酷く熱く感じられる。
 額に手を当ててみれば予想通り、かなりの熱が出ていた。
「おい、しっかりしろ実時!すぐに医者を呼んできてやるから…」
 実時はその言葉に何か返す事もなく、寒いのか苦しいのかは分からないがぎゅっと眉根を寄せて惣助にすがり付いている。
 騒ぎに目を覚ました由紀彦に実時のかかりつけの医者を叩き起こして来るように頼み、惣助は実時を連れて実時の部屋へ。
 真冬用の大布団を出してきてかけてやっても寒がる。
 迷った挙句、結局火鉢に火を入れてやった。
 少ししてそのぬくもりが伝わり始めると、ようやく寒さが和らいだのだろう。実時は安心したように目を閉じた。

 医者の判断は早かった。
 近頃江戸の町を騒がせている流行病。それもかなり悪い。
 少し前から症状が出ていたのを隠していたのだろうとの見立てだった。
 悪いというがその程度はと訊いた実時の母親に、医者はうなだれて首を振った。
「気力体力の次第では…お命も危のうございます」
 言葉に、実時の両親と惣助、由紀彦…その場にいた誰もが言葉を失った。

 □

 長い夜が明けると、由紀彦の知らせで白狼隊士達が屋敷へと集まってきていた。
 実時が寝込んでしまっていることで、猫たちもどこか落ち着かないそぶりでうろうろしている。
 事の次第を屋敷の一室で由紀彦の口から聞き終って、やはり隊士達も絶句した。
 いち早く立ち直ったのは舘羽で、おずおずと口を開く。
「それで…隊長のご両親は?あちらのお屋敷に…?」
 うん、と由紀彦が頷く。
「惣助兄ぃに気を遣わせたら可哀想だから向こうで神仏にお祈りするって…。惣助兄ぃは実時兄ぃが倒れちゃったのは自分のせいだって、実時兄ぃの父上母上にも凄く謝ってさ、自分を責めて…惣助兄ぃのせいじゃないって言っても聞いてくれないし、俺一人じゃどうしていいかわかんなくてさ。だから皆にもいて欲しくて」
 もちろん、と力強く頷いたのは鈴音だ。
「私に出来ることなら何でもするわ。惣助さんには遠く及ばないけど…料理の準備とかなら出来るし」
 そうだね、こんな時だからこそ助け合わなくちゃと美景が答えようとした時、庭に二人の姿が現れた。
 予想だにしなかったその姿は、
「おうお前ら、揃ってんな!」
「片桐隊長の具合には、変化は無いのか?」
「お兄様!一さん!?」
 鈴音が驚いて思わず名を呼んだように、黒虎隊の隊長・一と副長の紫苑だった。
 ただ、不思議な事に一が平常と違い裃を身に着けている。つまり武士としての正装姿だ。
「ど、どうしたんだよその格好…らしくない」
 驚いた様子の由紀彦に、一は何だよと唇を尖らせて。
「らしくないって…俺だって決めるとこは決めるんだぞ。実時の為に行って来てやったってのに」
「隊長の為に?」
 舘羽が訊けば、紫苑が近くまで歩み寄ってくる。
 それに立ち上がり庭の方へ出てきたのは廉次郎で、紫苑は懐から取り出した書状を彼へと確かに渡した。
 廉次郎は白狼隊士達に振り返って笑顔を見せ。
「朝方早朝巡回の途中のお二人にお会いしまして、実時殿のことをお話したらお二人がお役目を代わって下さったんです。本当でしたら私と実時殿がお城へ上がらねばならなかったのですが…態々お役人方にも事情を説明して下さって、私にはこちらへ向かうようにと」
 本当にありがとうございましたと廉次郎に頭を下げられ、一は少々照れくさそうに笑った。
 紫苑もまた僅かに笑みを見せて。
「実時殿の一大事ともなればこのぐらい当然のことだ。それから今正親が先に屯所の方へ向かっているから我々もそちらへ行こう。我々で処理できそうな仕事はやっておくから、皆はこちらへ詰めておくといい」
 その申し出は廉次郎も予想していなかった事らしく、既に一礼し身を翻して行こうとする二人を慌てて引き止める。
 それには他の隊士達も同調した。
「ちょ、ちょっと待ってくださいそれは流石に…!」
「悪いですよそんなにお願いしては!」
 自分達の仕事ぐらいきちんとしますからと引き止める廉次郎に、美景も腰を上げながら言った。
 えっと…っと鈴音は暫く考えて由紀彦の方を見て。
「由紀彦君、…このお屋敷でお仕事させてもらう事って出来ないかな」
 え?と全員考えてもいなかった言葉に少々固まった。
 鈴音が、駄目かなあと冷や汗が流れるのを感じた時、廉次郎が顎に手をやって。
「…それが出来ればありがたいですね…実時殿に何かあった時駆けつける時間が掛かりませんし、惣助殿のことも気に掛かりますし」
 そうだなと一も同意した。
「もしそれで大丈夫なら…見回りを白狼隊と黒虎隊で一緒にってのはどうだ?最近の江戸は落ち着いてるからそう心配も無いだろうし、そうすりゃあ一人ずつの受け持ち時間も減らせる。城に上がる用の時にはまた俺と紫苑が行くって事で…」
「大丈夫かい由紀彦?」
 舘羽にそう訊かれて暫く考えたが、由紀彦は力強く頷いた。
「文机とかは俺もある場所分かるし…筆や硯は屯所のを使えばいいよな。うん、畳汚さなきゃ多分大丈夫だと思う」
 その言葉を受けて、改めて廉次郎は黒虎隊の二人に礼を。
 舘羽と美景、一と紫苑の四人が屯所へ向かい、正親と共に仕事と普段使っている道具を持って帰る事となった。
 四人が出て行く前に、何か思い出したというように手を打って。
「そうだ!大切なこと忘れてた…!」
 ん?何だよと訊いた一に、答えは来た。
 にゃああんという鳴き声と、すりよる毛の柔らかさだ。
 驚いて下を見れば、白い猫がつぶらな瞳でこちらを見上げてすりよっている。
 由紀彦が言った。
「猫、庭も屋敷も出入り自由だし…襖も開けれる奴が多いんだ。かなり邪魔だと思うけど…」
 それでもいい?という言葉に、一瞬全員で考え込んでしまった。
 可愛い、可愛いけどもしかし…!と暫しの葛藤がある。

 猫は勿論実時の部屋にもいた。
 二、三匹が寒がる実時の布団の中へ潜り込み、まるで湯たんぽのような役目を果たしている。
 他にも何匹かが規則正しく座るのは、布団の横に座っている惣助の両隣だ。
 皆いつも世話してくれる惣助が怖い顔をしているのを心配するように上を見上げていた。
「実時…」
 その惣助は目の前で苦しんでいる彼の名前を呼んで、ずっと握られたままの手に少し力を込めた。
 目はぐったりと閉じられたままだが、確かに手を握る力は返って来る。
 苦しげな息を繰り返す実時は熱が高いのと痰が絡むのとで昨晩から寝られた様子が無かったが、目を開け応えることも辛いらしくもうずっとこうして目を閉じたままじっと耐えていた。
 由紀彦に隊士達を集めるという報告を受けてから暫く、なにやら隣の部屋が騒がしくなって来た。
 よくよく聞き覚えのある声に、あいつらが来てんだろうなと惣助は思って。
 ああやって賑やかにやっているのが聴こえるのは、白狼隊の皆が集まってくれているというのは実時の力になるだろうと確信にも似た思いを抱く。
 辛いか?と訊けば、何度目か分から無いがまた小さく横に首が振られた。
「悪ぃ…俺が無理矢理にでも医者に見せてれば…こんな辛い思いしなくて済んだのによ」
 悲痛な色を持つ惣助の言葉に実時は悲しくなって首を横に振った。
 お前のせいじゃない。私こそ自分の体力を過信しすぎていたのだ。
 そう伝えたくとも声を出す事が一苦労だ。今の自分に出来る事といえば…と、またそっと惣助の手を握った。
 瞼に力を入れて目を開ければ辛そうな顔をしている惣助が目に入った。だから実時は少し手を動かして、惣助の手を撫でてやる。
 大丈夫だからと伝えるように。
 そうすると惣助は驚いたようにした後、ようやく少し笑った。
「…ありがとう、な。寒くねぇか?」
 そう訊いた惣助自身は額に汗を噴き出させており、相当暑いのだろう事が推察された。
 そう寒くない今日という日に火鉢へ火を入れればそれも当然だ。
 ちゃんと水は飲んでいるのだろうかと、実時は逆に心配してしまった。
 心配しながらも一度頷くと、ならよかったと惣助も頷いた。
 そうして額の汗を拭っていると向こうの部屋から廉次郎の声がした。
「惣助殿?宜しいでしょうか?」
 皆も実時を心配しているのだろうと重々承知している惣助は実時の顔を見て。
「どうする実時。寝たほうがいいか?」
 訊かれた実時は首を横に振って、皆を中に入れて欲しいという意を示した。
 実時の承諾も得て惣助が皆を呼ぶと廉次郎を先頭に皆が入って来る。一、紫苑、正親も共にだ。
 由紀彦を除く皆は病に苦しむ実時の姿を初めて見て、皆それぞれ悲痛な表情を見せた。
「隊長…大丈夫ですか…?って大丈夫ではないですよね。すみません」
 どう言っていいやらと悩むようにしながらも声を掛けてくれた鈴音に、実時は何か返そうとして息が整わず声が出せない事に気付いた。
 困ったように眉を下げて惣助を見ると、惣助が鈴音に告げる。
「ちょっと息が苦しくてな…声出すのがきついみてぇなんだ。首振ったり手握ったりして、ちょっとした会話は出来るけどな。でもお前の言葉は聞こえてる」
 それに同意するように、実時も鈴音を見て一度頷いた。
 苦しいはずなのに少し笑っている。
 きょろきょろと部屋を見回して火の入った火鉢に目を付けたのは一だった。
「おい、なんか暑いと思ったら火入れてんのか?」
 ああと惣助が答えると、既に普段の格好に戻っている一は袖を捲って、惣助とは反対側に周り実時のすぐ横に腰を下ろした。
 無遠慮にぺたぺたと額に触り、ああやっぱ熱いと呟く。
「大丈夫かお前。これも冬物の布団だし…寒気酷いのか?」
 そう一が訊くと実時は素直にこくりと頷いた。
 氷当ててやっても寒いって嫌がんだよと困ったように惣助が言うと、居心地悪いように実時は目をそらし。
 ったく仕方ねぇなと一は笑って。
「こんな頭熱いのに冷やせねえのは辛いよなあ…手ぬぐいでも寒いのか?」
 訊けば、実時はもう一度頷く。
 由紀彦が説明した。
「お医者様は寒いのを無理に冷やすより、少しでも眠り易いようにあったかくしておくようにって。あと…俺達はこの部屋にいると汗がたくさん出るから夏と同じようにこまめに水分を取るようにってさ」
 あ、と何かに気付いた美景が袖へと腕を入れて。
 取り出したのは普段から持ち歩いている手ぬぐいだ。
 適度に畳んで惣助の横、膝で立つ姿勢で。
「惣助殿、片手が塞がっていてはきちんと拭けないでしょう…こんな事しか出来ませんが」
 惣助の額に手ぬぐいを走らせた。その様子を見て舘羽はひっそりと笑い。
 …美景殿…やっぱりいい旦那というよりいいお嫁さんになると思うんだけど。
 ひそかにそう考えた。
 惣助も助かったというように少し笑って。
「悪い。本当お前はよく気が付くな…袖で拭ってると目に入って、塩気が痛いんで往生してたとこだ」
 ここで、彼らの様子を一歩下がった位置でにこにこと眺めていた廉次郎が、隊のことを報告する為に前に出てきた。
 代わって鈴音が下がる。
 と、どうも彼女のことが好きらしいトラ猫がとてとてと近寄ってきたので鈴音も快く膝上に抱き上げてやった。
 先ほどまで実時の布団に入っていた猫らしく、ふかし芋のようなホカホカ具合だった。
 どうやら彼らは交代制で実時の湯たんぽ役を務めているらしい。
 偉いなあと思いながら咽喉を撫でてやると、すぐにゴロゴロ鳴き始めた。
 廉次郎が実時に語りかけている。
「実時殿、今日のお城に上がる御用を心配されていたのではないですか?」
 実時はまさにと言うように、一も二もなく頷いた。
 安心して下さいと廉次郎は笑って。
「私一人で参上しようと思っていたのですが…一殿と紫苑殿が代わって下さいました。お役人様方にも話を通して下さったそうで…これからも実時殿の療養中のお城への参上はお二人が代わりにと」
 それを聴いて驚いたように実時は一と紫苑のいる方を見る。
 一は居心地悪いというように目を逸らし。
 紫苑がその様子に少し口角を上げて。
「…気にされることは無い。困ったときはお互い様だ。…普段は私の妹が世話になっているのだし」
 数少ない我々に出来る事なのだから安心して任せて欲しいという言葉には、実時は頷くというより軽く頭を下げるような動きをとって礼の心を表した。
 その時正親が、常に無い真っ直ぐな眼差しで、惣助の握るのと逆の手を取った。
 ひょっとすると命にも関わるのだということは既に皆聞いていることだ。
 きっと片桐隊長なら大丈夫、と願いにも似た確信を胸に。
「…片桐隊長。お仕事の方はこの隣のお部屋で、皆でやらせてもらう事になったわ。見回りは白狼隊と黒虎隊が共同でやることになったし…だから何も心配せず、ゆっくりお体を直して頂戴ね。皆すぐ傍にいるから、何かあったらすぐに呼んで」
 その言葉に、有難いというように実時は正親の手を握って答えた。
 隣の部屋、もう色々持ち込んじゃったけどいいよね…?と改めて由紀彦が確認を取ると、勿論と答えるように頷く。
 息は荒いが、目の生気は衰えていない。
 そうそうと何か思いついた様子で、正親は続ける。
「惣助ばっかりにお任せして惣助が体を壊しでもしたら本末転倒でしょう。アタシも交代で…」
「っと。二人だけに任せるわけにもいかないだろう?」
 そう声を上げたのは舘羽で、廉次郎や鈴音も頷いた。
 正親にばかりいいかっこさせるのも気分がよくないしねと舘羽は胸中呟いて。
 代表して廉次郎が。
「では私達で、見回りと書類仕事とこの部屋の立会いとを回しましょう。それから家事も」
 白狼隊・黒虎隊の皆の心遣いで気が解れたのか、惣助の表情は目に見えて柔らかくなっていた。
 肩を竦め、冗談交じりに言う。
「流石にこれだけ大勢の飯の用意ときたら、腕が鳴るな」
 その様子に鈴音は短く笑って。
「惣助さん一人に任せちゃうほど外道じゃないですよ!私もお手伝いします」
 これでも女ですし、という言葉は自分で悲しくなるので飲み込んだ。
 と、やけに真剣な顔をした一がずいと実時の視界へ進み出て。
 どうしたのかと訝しげに見る実時に、極々真面目に一は言った。
「いいか実時。川は何があっても渡るな。花畑の方とかにふらふら歩いて行くなよ!」
 はあ?と呆気に取られた周囲を尻目に、一は続けた。
「もしかしたらお前の爺様とか迎えに来るかもしれねぇけど、駄目だぞ付いていったら。お前がいっちまったら俺達が困るって事を思い出せよ?」
「おい…何実時が死に掛ける前提で話を進めてんだ」
 ちょっとむっとしたように惣助が咎めると、いいんだというように実時は首を横に振った。
 それに惣助が押し黙ると、正親と繋いだ方の手を離して一へと差し出す。
 約束だと、一は笑ってきつく手を握って。
 必ず約束すると、心中で実時は返した。
 こうして心配してくれている、大切な仲間達の為にも…必ず帰ると約束した。

 □

 それから三日。
 三日間実時の容態は同じ具合で、隊士達は隣の部屋で仕事をし、また見回りに出た。
 皆は交代で実時の傍についたが、惣助はやはり一番長く実時の部屋にいた。
 一番に実時の異常に気付いていながらも動けなかった事に、大変な罪悪感を感じていたようだ。
 そしてその日の夕刻。突然実時の意識が混濁し始めた。
 何度手を握っても実時の腕には力が入らず、ぐったりと眠るだけ。
 声を掛けても、どんな形の答えも無い。
 一の一っ走りで呼ばれて飛んできた主治医は暫く診察して静かに溜息を吐いた。
「今晩が峠でしょう。今晩を乗り切られたら一安心ですが…」
 もしも明日の朝までに意識が戻らなかったら、とその後には言葉が続かない。
 一同の間に、重苦しい沈黙が下りた。
 その夜中。最早寒いと訴えることもない実時の部屋は常温となっていた。
 主を心配する多くの猫達。皆はこの三日と同じように隣の部屋で寝ている。
 交代で眠りましょうと提案したのは美景で、眠ったのは美景と鈴音、何かあったら必ず起こせと言い置いた一の他に紫苑や正親…最終的には惣助と廉次郎と由紀彦の三人が起きており、他の者は眠っていた。
 それにしても女の鈴音も同じ部屋で寝させていいものかと惣助は一瞬思案したが、緊急時だから許されるかと見逃す事とした。
 ふと、隣に座る廉次郎が静かに惣助に語りかける。
「……惣助殿。あまり、ご自分を責めてはいけませんよ。貴方だけのせいではありません…あの日私も実時殿の異常に気付いていたのですし…同罪です」
 ね?と言われ、惣助は暗い表情で視線を落とした。
 目の前には、うう、と度々呻き声をあげながら眠る実時。
 それでも、やはり朝…一番に異常に気付いたのは自分だという思いがある。
 彼にしては力を失った声でぽつりと呟いた。
 返答を期待しない独り言のような調子だった。
「実時は、大丈夫だよな。約束事を違えるような奴じゃねぇ」
 独り言のようなそれに、しかし廉次郎は笑って返した。当然と。
「実時殿は必ず、目を覚まします。その時に一人でないように…誰かは起きていないといけませんね」
 まるで父親に諭されている子供のように、素直に惣助はこくりと頷いた。そう信じたいというように。
 内心不安で仕方ないのだろう。実時の手を、握り返される事の無い手をぎゅっと握っている。
「いい、仲間ですよね」
 廉次郎が唐突にそう言った。清々しい口調で、例えば青空の下放たれる言葉のような清涼さを持って。
「今回のことで分かりました…白狼隊の仲間も、黒虎隊の方々も…本当に、素晴らしい同志なのだと。きっと実時殿の人徳ですね?」
 自分の気分を変えようとしてくれているのだと気付いた惣助は、お前もその一人だという思いを胸にして少し笑って頷いた。
 見れば、随分静かだと思った由紀彦は眠ってしまっている。
 傍にあった毛布をかけてやって、惣助と廉次郎は暫く無言で実時に付き添っていた。

 □

 実時はふと、自分がとても快い気温の中、広い草原に立っていることに気がついた。
 頬を撫でて草を鳴らし渡る風の方向を見やれば、清らかな音を奏でる細い川。
 その前に一人の男が立っている。
 気付けば足はそちらの方向へ向かっていた。
 同じように裃を身に着けた、二人の男が向かい合って立つ形となる。
 一方はまだ若者と言ってよい歳、一方は精悍な顔つきの老人である。
 その老人は目の前に立った実時を見据え腕組み。
「………やれやれ。お主にはまだ、会いたくなかったのだがのう。それが導きであるなら仕方あるまい」
「……爺様?何を仰っているのです…?」
 嘆息ぎみに言った老人…自身の祖父に、実時は訳が分からないという様子で答えた。
 何かしっかりとした確信に導かれ、口を開く。
「その橋を、私は渡らねばならないのでしょう?それで爺様が迎えに来て下さったのでは」
 ああそうだと老人は答え、諦めたというように数度頷く。
 自分一人に迎えに来させた妻を恨めしく思う気持ちの中、苦々しくつい呟いた。
「仕方あるまいな…己で気付かなければ戻れぬ道。気付かないならばわしは、ただ案内するのみ」
「…?今日の爺様は少々おかしいですね。よく分からない事を仰ったり、ぶつぶつ呟いたり」
 疑問を持った様子の実時に老人は、ん?そうかなどと気の無い返事を返した。
 その頭はどうしたら実時に気付かせることが出来るだろうという考えで一杯だった。
 彼の老いて尚衰えを知らぬ頭脳はある一つの可能性をはじき出した。
 ここに長々と立っているのは実時の不信感を煽る事にもなる。
 だから彼は切り出した。
「よし。済まぬな実時。歳をとると余計な考え事が増えていかん。そろそろ行くこととしよう」
 そう言って実時に左手を差し出す。
 え?と戸惑う実時に、老人は笑って。
「ほれ、お主の右手を出せ。久方ぶりに爺様と手でも繋いでおくれ」
 その言葉に、実時は少し驚いたようだったがやがて笑って。
「やはりおかしなことを仰る」
 そう言いながらも、尊敬し後をついて回った事もある祖父だから特に躊躇うことも無く自分の右手を差し出して重ねた。
 互いに握る。
 その時だった。
「ッ!?」
 驚いたように実時は、老人の手を振り払う。
 成功したと、老人は確信した。
 果たしてその通りで、実時は自分の手をまじまじと見つめて考え込んでしまう。
 右手を側頭の方へやって、痛むのを堪え何かを思い出すようにして。
 老人は彼自身で纏められないのだろう考えを纏めてやる為に声を掛けた。
「どうした?実時」
「あ……違う…んです」
「何が違う?」
 そう訊かれて、実時は目を見開くようにして。何かに気付いた。
「違う…私の手を握っていてくれた…離さずにいてくれた手は…」
 次の刹那。全ての自覚が来た。
 奔流に巻き込まれるようにして全てを思い出し、どこか霞がかった思考が晴れる。
「爺様…」
 実時はややあって、呆然と呟いた。
「無理です。私には…私はこの川を渡れない。渡りたくありません…!」
 老人が心から望んでいた言葉を、実時は口にした。
「思い出しました。友との約束を」
 実時の脳裏に浮かぶのは、熱に浮かされてもしっかりと聴いていた一の言葉だ。
「爺様が迎えに来ても付いて行かない、川は何があっても渡らない」
 うむ。と一度満足げに頷いた老人は一度周りを見渡して眉を顰める。
 実時の帰る道が、無い。
 まだ手遅れではないはずだと、きつく実時の腕を握った。
「どうしても行かぬと言うか実時。川の向こうは良い世界だぞ。戦いも無い、苦しみも憂いも無い、気候の厳しさすら無い」
 共に行かぬかと手を引く老人に、実時は強く激しく述べた。
 約束を破ることは出来ないのだと。
 右手をぎゅっと握る。
 彼がずっと握っていてくれた、離してはならぬ命綱だ。
「ですが向こうには、私の大切な仲間も無い!この身が果たすべき使命も無い!苦しみの先の、大きな喜びもありはしない!私はそれを好みません…私は江戸の町へ帰りたい…!」
 息を詰めるようにして、仲間を想う。
 今の今まで不思議な力で忘れていた彼らのことを、今は何より大切なこととして思い出せた。
 それぞれのやり方で自分を気遣ってくれて、まるでこの心がそのまま伝わっているかのように、自分が心配している事も心得ていて。
 何より、自分が病に打ち勝つのを待ってくれている。大切な、同志だ。
「彼らに礼を言わなければなりません。惣助に、廉次郎に…私を殺したなどという妙な罪悪感を背負わせる訳にはいきません!私はなんとしても…生きます」
 老人が、満足げに笑った。これこそが…実時の生への欲求こそが必要だった。
 老人の視界、実時の背後に道が造られていく。
 白い宝石でも敷き詰めたような、つやつやと輝く白い道だ。
 これで実時は帰れると、老人は一歩二歩と彼に歩み寄る。
「実時、よいか」
 声を掛けてから、彼の肩口に手を回して抱きすくめた。
 一瞬驚いた実時もすぐに小さく笑うと、同じように腕を回す。
 耳元で老人の声が響いた。
「今お前の後ろには白い道がある。決して振り返らずに真っ直ぐに歩け。そうすればお前のあるべき場所へ帰れるだろう。仲間と共に達者で生きるのだぞ。爺様は最早生きて江戸の地を踏む事は叶わぬが…天の国よりお前達を見守り、守護している。それから白狼隊のお役目に誇りを持ち、勤勉実直に励むように」
 実時は生前と何も変わらぬ生真面目な祖父の様子に泣きそうになりながらも、はいと一言だけ答えた。
 老人は声を上げて笑い。
「またいずれ会おうぞ。いつまででも待っておるからゆるりと来るとよい。父母にも宜しく伝えてくれ」
「はい。爺様は元気でしたとお伝えします。…次は数十年後に参上致します。退屈でしょうから昼寝でもしてお待ち下さい」
 冗談めかした言葉に、老人は昼寝とは良いなとまた快活に笑って。
 どちらからともなく離れると、実時は二歩を下がる。
 言葉も無く、一礼した。
 そうして身を翻すと、教えられたように決して振り返らず白の道を歩き出す。
 それはやがて自然と走りに変わった。
 走る、奔る、疾る。
 己の成すべきことが成せる場所へ。
 己が居たいと願う場所へ。
 一直線、走った。
 見送った老人もまた深く一礼した。
 深く身を折った姿勢のまま告げる言葉がある。
「孫と仲間等に…幸いの多からんことを!」
 その言葉は確かに、日ノ本に集まる八百万の神々が聞き届けていた。

 □

 実時はふと、自分が横たわっていることに気がついた。
「あ…」
 声が、掠れてはいるが出る。
 布団の中の柔らかい物は猫達だ。
 部屋を異常に暑く感じ、額に左手をやってみれば随分熱が下がっているように思えた。
 夢と思うことも出来た出来事を思い出し、しかし確かに祖父に命を救われたのだと実時は確信する。
 外が明るい。とても長い時間寝ていたのだなと思った。
 そっと顔を動かし、上を見やる。
 しっかりと、右手を握ってくれている人を。
 囁くように、名前を呼んだ。
「そう、すけ…?」

 □

 名前を、呼ばれた気がした。
 惣助の、浮かび上がった意識は一瞬で覚醒する。
「ッ!寝ちまった…」
 横を見れば廉次郎もまた俯く格好でぐっすりだった。
「惣助」
 はっと、する。
 声がした。確かに、己を呼ぶ声が。
 強く、手が握られている。
 眼前を見やれば、目と目が確かに合った。
「実、時」
「……舞い戻って来てしまった。一との約束を思い出して…それにお前が手を離してくれないのでな」
 薄く笑っての軽い言い草に暫し惣助は呆然として、やがて泣きそうになるのを堪えてきつく手を握った。
「そりゃ、悪かったな!」
 互いに笑みとなり、実時は確かな力で手を握り返した。
 そうしてから今度は暑いんだがと訴え火鉢の火を消してもらい、大布団も取り払って。
 今度は水をくれとねだる、ある意味とても元気な実時に惣助は呆れた。
 ようやく安心して手を解き水を飲ませてやりながら廉次郎、由紀彦、それに隣の部屋の皆に声を掛けて起こす。
 実時の屋敷が、猫達もびっくりするような歓声と泣き声に包まれたのはすぐ後のことだ。
 実時は仲間達にも、惣助の知らせでやってきた父と母とにも同じように語った。
 祖父と、皆が己を助けたのだと。
 苦しくても辛くても居たいと帰って来た世界、実時は、それはそれは穏やかな笑みを見せたのだった。


- 作者様より -
 はいシルヴァインですこんにちはー。五周年おめでとうございます!
 蒼龍隊でいくべき年にあえて空気読まず白狼隊&黒虎隊で参加してみました。
 勝手に隊長のお爺さん出しちゃってすいません。
 どんなに苦しくたって仲間と一緒に頑張れるから生きていくよって感じの話を書きたかったのですがどんどんお爺さんと猫が目立つことに…!なんてこった。
 猫が出張ってるのは私が猫飼い始めてから猫可愛すぎて仕方ないからです。

 ではまたー。六周年でお会いできるのを楽しみにしております。
 尚、四周年同様にブログにて追記版を公開しますので宜しければ。


○周年記念企画

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