2nd Anniversery

‘其処に在る’という、証を求めて (作:白湖朱雀)

 永久(トワ)に連なる           銀の野に
 赤き灯火                消えていく
 後に残るは               拾壱の
 武士(モノノフ)達の           誓ひかな

 武家の居が構えられている区画の一角に、とりわけ立派な屋敷が厳かに佇んでいる。名家、山形の屋敷だ。
 朝の光が木々に瞬きを差し入れる刻、山形家の大きな門がその由緒正しさを証明するような音を立てて開き、中から袴姿に帯刀という出で立ちの少女が出てきた。
 ――山形家次女にして白狼隊隊士、山形鈴音である。
「……はぁ……。」
 何やら覇気の無い様子。それもそのはず、彼女はつい一ヶ月程前に黒虎隊隊士であり友人の月島徹平と共に紅葉狩りへと赴いたのだが、そこで自分が友と慕っていた男――フェイが、白狼隊の追う陰陽師一味の首謀者、鴆影だという事実を知った。さらに彼は、丸腰であった鈴音を庇い戦った徹平に酷い手傷を負わせたのだ。彼女はそれが事実だと解っていても、心の奥ではどうしても納得のいかない気持ちを拭い去れなかった。
「判ってる……、解ってる、はずなんだけどなぁ……。どうかしちゃったのかな、私……。」
 しかし、どんなに心の中が霧で覆いつくされていたとしても、今日もいつも通り白狼隊隊士としての勤めが待っている。
 よし、仕事に集中しよう、と自分に喝を入れて、鈴音は定例会の行われる屯所へと歩き始めた。



「……という事で、先日の押し込みの件は片付いたようだ。」
 白狼隊隊長・片桐実時は、先週白狼隊を騒がせた押し込み事件をこう締めくくった。ちなみに現在の屯所の状態は、隊内唯一の二刀流の使い手であり、また片桐家主夫としてその存在を確立されつつある隊士・坂上惣助の掃除という屯所への‘制裁’が最近行われていないので、少々雑然としている。
「じゃあ、今週はあまり表立った事件はまだ無いんですね?」
 実時にこう尋ねたのは、赤茶の髪を上の方で括っている少年隊士・朝倉美景。美景の問いかけに、実時は軽く首を横に振る。
「それがそうもいかなくてな。二つ程、仕事が入っている。一つ、これは……最近同一犯による盗みがこの近辺で多発しているのは皆知っているな? この事件に関して、上から犯人を捕らえよとの御達使だ。面はもう割れているが……流石に何度も盗みを働くだけある、手口が巧妙で逃げ足も速いらしい……。」
「へえ、足が速いのかい?他称‘金の韋駄天’の私とどちらが速いか、気になるね」
 どこか清ました声で茶々を入れたのは隊内で最も癖の強い隊士・中川舘羽だ。すかさず、最年少隊士である高田由紀彦が舘羽に突っ込む。
「舘羽兄ぃ、その二つ名、何処で誰が出してきたの……?」
「おや由紀彦、聞きたいのかい?話せば長くなるけどね、私が上京した時に下関海峡を……」
「まあまあ、舘羽殿。そのお話はまたいつか。今は実時殿の話を聴きましょう?」
 舘羽節をやんわりと諫めたのは白狼隊副隊長・長谷部廉次郎。皆が自分の方に向き直ったのを確認してから、実時はまた話し始めた。
「二つ目は、黒虎隊の方から応援を頼まれた事件だ。一の話によると、黒虎隊の管轄区域で残忍極まりない殺しが数件発生したらしい。 この事件も最近になって頻繁に起こり始めたようだが……。」
「残忍極まりねえ殺し……?どんなカンジなんだ?」
 惣助が問うと、実時は一呼吸置いてから、静かに言葉を発した。
「死体には必ず首から上がついていないらしい」
 屯所に流れる空気が身を切るように冷たくなる。これは師走がいたずらに吹かせた風が屯所を流れたからなのか、それとも実時が徐に発した言葉が屯所を流れたからなのか。
「……どちらの事件にせよ、犯行時刻は夜と決まっている。今日は隊を二つに分けてこの事件に当たろうと思う。とりあえず……黒虎隊と共に首切りの事件に当たるのは私とあと一人で良いと思うのだが……。」
「それなら、私が行こうか。隊長殿、お供するよ」
「判った。では私と舘羽が黒虎隊の方に付こう。後の五人はどうするか?」
「でしたら私が屯所に残って連絡役になりましょう。そうですね……、惣助殿と由紀彦、美景殿と鈴音殿で組んではいかがでしょうか?」
「あ、それ、俺賛成!」
「ま、たまにゃ由紀彦のお守をするのも悪くはねえな」
「僕はかまいませんけど……鈴音殿は?」
「私もそれでいいと思いますよ!頑張りましょう!」
 隊士達の一致した答えを受けて、実時は定例会をこう締め括った。       
「よし。では私と舘羽は首切り事件を、惣助達四名は窃盗事件を解決するため夜になったらそれぞれ巡回、廉次郎は屯所で待機とする。 ……皆、気を抜かずに任務に当たれ。解散!」
 かくして、今回の白狼隊の物語は幕を開けることとなる。



 夜。近くの山林から梟の趣のある鳴き声が寝静まった江戸の町に染み渡り、余韻を残しながら消えていく。朝の市場に商品を間に合わせるために荷車を引く者や、酒に酔ったのであろう、千鳥足でふらつく下級侍の他には、滅多に人は通らず、まるで霜柱が出来上がる音までもが聞こえてきそうな静けさである。美景と鈴音は、同一犯が次に目をつけるであろう店からすこし距離を置いた所を巡回していた。店の近辺の方には惣助と由紀彦が付いているからだ。二人は声の調子を落として、喋り始める。
「鈴音殿……、お元気ありませんね」
「えっ!?……やっぱりそう見え……ますよね……。」
 どんどん声の調子を落としてうな垂れていく鈴音を見て、美景は慌てて謝った。
「ご……ごめんなさい、不躾に聞いてしまって……。やっぱりあの、鴆影……さん、て人のことでお悩みなんですよね?」
「美景さんが謝ることないですよ!こちらこそすみません、心配かけさせてしまって……。フェイのことは、確かに今はちょっと頭が混乱してますけど、 でも事実だって事は解ってますから。大丈夫ですよ」
 そう言ってえへへと笑う鈴音の顔は、見ている美景の方が辛くなってしまう程、‘作っている笑顔’。大丈夫、には見えない。
「そういえば、鈴音殿が持っている紅玉の簪……あれが最後の‘秘石’なんですよね?今は向こうも全然動いてないようですけど…… ……やはりいつ奪いに来るかわからない以上、屯所に保管しておいた方が良いんじゃないでしょうか?そうすれば見張りも立てられますし……。」
「そうですね……。明日、隊長達に相談してみま……」
 鈴音が美景の提案に同意しようと口を開いたその時、二人の背後で刀が交わる音、そして静寂を破る大きな声が響く。その声の主は、由紀彦だ。
「美景ぇーっ!!!鈴音ぇーっ!!!そっちに‘奴’が逃げたよ!!!頼む、捕まえて!!!」
 二人はすぐに抜刀し、待ち構える体制を整える。幸い此処は一本道。脇道に逸れることはできない。盗人は美景達に気が付き、さらに走っている速度を速める。その速さは、まるで駿馬の如く――
「うわっ!?」
「ちょ、何、よっ!?」
 二人の放った太刀は微かに盗人の服の袖をかすっただけ。無論、二人は追いかけ始めるが、到底追いつけそうも無い距離が盗人との間に出来上がっていた。
「は、速い……鈴音殿、もっと速度上げますよ!追いつかなくては!」
「はい!……あーもう、何で他称‘金の韋駄天’の舘羽さんがこっちの担当じゃないのよ!気になるって言ってたじゃない!」
「しょうがないですよ、他称ってことは本人はそれを自覚してらっしゃらない…………というか舘羽殿、実際はそこまで速くないじゃないですか、よく考えたら! 前に普通に走ってらっしゃったの見ましたけど惣助殿の方が速かったですよ!!!」
 全速力で走りながらこれだけ現状に突っ込めるのは、白狼、黒虎の持つ技術の成せる技と見てよいだろう。……ただ、論点がずれているのがかなり痛い。
「くっ……、逃すわけにはいかないのに!」
「!美景さん、あれ!」
 歯軋りをした美景に、鈴音が何かを見つけたらしく、彼の袖を引っ張る。鈴音の指差した方向を見ると、遠くにちょうど侍と思われる人がこちらに向かって歩いてきているのが見えた。腰の左には、刀を差しているのも判る。鈴音は精一杯、豆粒のような人影に向かって叫んだ。
「そこの御方!その盗人、足止めして下さいっ!!!」
 普通の人よりも体力、気力がある白狼隊士でも追いつけないのだから、駄目でもともと……と思っていた二人だったが、次の瞬間、二人は息を飲んだ。遥か前方で、侍が盗人を越える速さで舞う様に応戦し、見事盗人を足止めしたからである。二人はすぐに侍と盗人が居る所まで走っていった。見た感じ、その侍は齢二十歳前後で、漆黒の短髪に漆黒の瞳、そして裾に大きな紅の花が刺繍されている漆黒の着物を身に纏っていた。背丈は六尺より二、三寸低いくらいで、顔立ちは凛々しく聡明である。出で立ちとしては浪士、と言ったところか。侍は、何事も無かったかのようにそこに佇んでいた。足元には、ぐでんぐでんに伸びてしまった盗人の姿が。
「本当にありがとうございます!!!」
「すみません、お手数お掛けしました!!!」
 美景と鈴音は深々と頭を下げた。本来治安維持部隊である白狼隊の隊士が逆に守られてしまっては、面目が立たない。しかしこの俊盗は、侍の力無しに捕まえることができなかったのも、また事実だ。一方侍はというと、
「あぁ、いいってそんなの!お前らも若ぇのに、よく頑張るこったなぁ!」
 と、けらけら笑っている。
「後は僕達でできますので。……あの、もし宜しければ明日、今回の御礼を受け取っていただけませんか?」
 美景が聞くと、侍は首を横に振る。侍が付けている髪飾りが、しゃら、と澄んだ音を口ずさんでいる。
「だからいいってことよ。俺、別に金に苦労しちゃいねぇし」
「そう仰らないで下さい、そうでないと私達の気も収まりませんし……隊長にもちゃんと貴方のことを報告したいんです。……‘栄屋’、ってご存知ですか?」
「サカエヤ……?飯屋か?」
「はい、私達白狼隊が贔屓にしているお蕎麦屋さんです。明日の朝は皆で其処に集合……」
 するので是非いらして下さい、と続けようとした鈴音の台詞を遮って、侍は身を乗り出してきた。
「蕎麦!!!蕎麦屋!!!判った行く、お前らの隊長に挨拶する!だから場所教えてくれ!!!」
  …………どうやらこの侍、蕎麦には目が無いらしい。
「あ……はい、えっと、北の大通りの……薬屋の真向かいです」
 美景が少々退きながら答えると、侍は満足した様子で笑った。
「俺は久都。久しい都、でヒサト、だ。じゃあな、美景、鈴音。蕎麦楽しみにしてるぜ!」
 そう言って軽い足取りで去っていく久都の後姿を、二人は唖然として見送った。嵐が去ったようだった。
「何か……、不思議な人でしたね、久都?……さんって」
 鈴音が率直な感想を述べる。美景も勿論、同じ気持ちである。
「そうですね……でも、この盗人と対等……いや、それ以上の俊足の持ち主でしたよね?太刀もかなり良かった様に思えるんですが…………本当に浪士なのかな?」
「おーい!美景、鈴音!捕らえたか!?」
 二人が話し込んでいると、向こうから惣助と由紀彦が走ってやってきた。由紀彦が、伸びている盗人を見て歓声を上げる。 
「す、凄っげぇじゃん!本当に速かったよな、こいつ。二人とも、流石だな~」
 あ、違うの、と声を出しかけた鈴音を、美景が止める。
「どの道明日、皆さんで久都殿にお会いするんです。今はこの人を番所に突き出しましょう?」
「あ……そうですね、そうしましょう」
 盗人に縄を掛けながら、鈴音はふと、頭の中に軽い疑問を覚える。久都は別れ際、自分と美景の名を呼んだ。が……久都と自分達は初対面で、さらに自分達は名乗っていないはずだが……。 (まあ、明日会えるから、その時にでも聞いてみようっと)
 疑問に保留という終止符を打ち、鈴音達四人はまだ日の昇らない江戸の町を(盗人を引きずりつつ)進んでいった。



 翌朝、若菜の好意で開店前の栄屋を貸しきりにしてもらった白狼隊。仕事明けの七人の前に、冷え切った身体を解してくれる熱い緑茶が運ばれてきた。湯飲みから靄然と立ち上がる純白の湯気が、江戸の冬の厳しさを物語りながら、休み無く空気に溶け込んでいく。
「皆さま、お仕事、お疲れ様でした!この寒いのに、大変でしたでしょう?」
「まあ……仕事だからな、慣れれば問題は無い。それより若菜、すまないな、こんな朝早くから働かせてしまって」
 すまなそうにしている実時に向かい、若菜はぶんぶんと手を振る。
「全然そんなこと無いです!皆さまの苦労を考えれば、私なんて微力ながらにしかお手伝いできませんし……」
「若菜殿も、立派に白狼隊の支えになってますよ。皆、若菜殿と栄屋には感謝しています」
 そう言ってふんわりと笑う美景の顔を見て、若菜は顔色を林檎のように紅に染める。
「あのっ、私は皆さまの……特に美景さまの支えになりた」
「あ、ところで隊長達の方は……何か動きはあったんですか?」
 美景、秘技‘天然遮断切返し’発動。いつものことであるが、若菜は頬を膨らまして店の奥へと戻っていった。その様子を廉次郎と鈴音が苦笑、舘羽が微笑して眺めている。
「それが……昨日は黒虎隊と共に警備に当たったんだが、何の物音一つもしなくてな。結局これといった有力な情報も我々の耳には入ってこなかったのだ」
 実時に続いて、舘羽も収穫の無さを話す。
「全く。せめて犯人の特徴や何かの証拠が掴めれば、とも思ったのだけどね……。黒虎隊が手を焼いているだけある、手強いよ。 ……そっちはどうだったんだい?顔つきから見るに、成功したのだろうけど」
「はい。結果的には捕まえられたんですけど、捕まえるきっかけを作ったのは私達じゃなくって……」
「え、あれ?鈴音達があいつをコテンパンにしたんじゃないの?」
 鈴音から出た意外な言葉に、由紀彦は目を丸くする。美景が後を続けた。
「うん、実際にあの盗人を捕らえたのは僕達じゃなくて、通りすがりのお侍殿だったんだ」
「通りすがり?……と、言いますと?」
 廉次郎の問いを受けて、今度は鈴音が答える。
「あの盗人、話に聞いていた通り本当に足が速くて。それで美景さんや私も抜かれちゃってどうしようかって所に、浪人風の――  ……えっと、確か‘久都’さん、とかいう方が盗人を気絶させてくれたんです。凄く綺麗な剣捌きでしたよ」
「へえ……。凄いな、あの俊盗を倒したなんて。どんな奴なんだ?」
「こんな奴だぜ」
「ふーん、こりゃ確かに浪人風――うえぇえっ!!??」
 自分の問いかけに見覚えの無い侍(というか、話題の本人)が答えてくれるとは思わなかった惣助は、一旦納得してから間を空けて素っ頓狂な声を出す。惣助の後ろに立っていたのは、漆黒の髪、瞳、着物――久都、であった。実時と廉次郎が立ち上がり、久都へと近づく。栄屋の入り口に居た久都も、中へと歩みを進めた。
「昨夜はうちの隊士達が世話になったようだな。貴殿の手を煩わせることになって、申し訳ない」
「たった今、貴方についての話をお聞きしました。どうもありがとうございます、少しばかりですが御礼を出させてください」
 畏まった実時と廉次郎に、久都はひらひらと手を振った。
「いやいや、昨日から何度も言ってるんだが、本当に金の礼はいらねぇんだ、俺。俺が欲しい礼は、すでにもう貰ったよ」
「?何でしょうか、何も差し上げた覚えは無いのですが……?」
「蕎麦」
「え?」
「そこにいる……ほら何だ、青い袴の娘と……妙に男らしい桜色の着物の娘に、昨日此処の所在を教えてもらったからさ。俺は無類の蕎麦好きだからな、 それだけで十二分に礼になるよ」
 栄屋の空気が固まる。それは久都の御礼の定義があまりに常人と掛け離れているというのもあるのだろうが、大きな理由は他でもない、――また、美景の性別を間違えられている。皆が美景のほうを伺うと、美景の目と心はすでに一昨日の方向を向いているようだった。そんな周りの状況を少しも気にせず、久都は若菜を呼びつける。
「今の時間は店やってるって訳じゃなさそうだが……蕎麦、出してもらえるか?俺、昨日は日課の‘朝蕎麦’食う時間無くてさー、滅茶苦茶切なかったんだぜ!」
「は……、はぁ、判りました。お口に合うかどうかは保証できないですけど、とりあえずお出ししますね」
「どーもどーも。あぁ、朝を蕎麦で迎えられる事位人生の中で幸せな時があるだろうか、いや、ないぃっっっ!!!」
 若菜が奥へ引っ込むと、久都は訳の判らない自らの蕎麦定義(しかも反語表現で強調)を完結させ、自分の巾着から何かを取り出した――箸だ。そうとう使い古していると見え、かなりボロボロである。
「頼むぜ、相棒!昨日の朝蕎麦の分まで掻っ込むからな!」
 久都の調子について行けずに固まり続ける隊士達の横で、久都は自身の相棒(?)である‘箸’に向かって気合を入れている。
「…………普通侍って言ったら、刀が一番の相棒なんじゃないのかなぁ……?」
 鈴音の至極当然な疑問は、久都が奏でている‘蕎麦を思いっきり啜る独奏曲’に見事に掻き消されていった。



 それから少し経った、辰の上刻頃。白狼隊の面々は、一つの座敷に集まって、昨日の事件の詳しい経緯を話し合っていた。本当は久都に、盗人を捕らえた時の事も詳しく聞いておきたかったのだが、如何せん、大量の蕎麦を一心不乱に貪りつつ、若菜と良い銘柄の蕎麦粉談義などまで始めている久都に、会合に出てくれと言っても効果は期待できない。
「久都殿があんな状態では仕方あるまい、盗人の件はここまでにして首切りの方へ移るぞ」
「そうですね、でも……首切りの件に関しては我々には情報が一切ありません。どうやって手を付けていくべきでしょうか……。」
 実時の言葉を受けた廉次郎の台詞に隊士も皆、箝口する。この事件に関しては誰が何と言おうと、今は手詰まりである。
「黒虎隊と言えば……徹平の様子はどうなんだろな。鈴音、兄貴から何か聞いてるか?」
「……はい。お兄様の話では大分傷は癒えてきているそうですけど……まだ刀は持てないそうです」
 徹平の話になると流石に堪えるのだろう、鈴音は惣助の質問にうつむいて答えた。見かねた舘羽が口を挟む。
「察してあげなよ、惣助殿。徹平殿と同じく、鈴音殿だって辛いのだから。鈴音殿、あの紅玉はまだ無事だね?」
「はい……あ、」
 鈴音は昨日の美景からの提案を思い出し、その事を皆に話した。紅玉を屯所に置くか、否かということである。
「俺は屯所に置いたほうが良いと思うけどなー。美景の言う通り、見張りつけられるし」
「そうだね、そうして鈴音殿が少しでも安心できるなら……私も賛成するよ」
「けど、奴らが来る時は場所がどうあれ戦らなきゃならないだろ?置き場所を変えてもあんまり現状は変わらないんじゃねえか?」
「屯所に置けば絶対安全の保証ができる、という訳ではありませんから……難しいところですね」
 皆様にはお分かりだと思うが、上から由紀彦、舘羽、惣助、廉次郎の言葉である。意見が二分割され平行線を辿っていた時、隣の座敷から声が飛んできた。
「止めた方がいいんじゃねぇ?屯所に保管するとその‘奴ら’も接触しにくくなる。‘奴ら’に有利な条件を作ってやればその内向こうからやってくるさ。 敵を狩りたいなら、自分から動いて飛び込む位の覚悟を崩さないようにする。――さもなきゃ逆に、殺られるぜ」
 その声は、発した主の顔立ち同様に凛々しく、聡明で。そんな事は無い、と反論したくても押し黙るより他に無いような正当性を内に孕んでいて。その場のものすべてが、何物か判らない圧力に潰されそうで。
「――久都殿の言うことも一理あるが、屯所に置くことで鈴音の肩の荷が降りるなら、私はそれでもかまわないと思うぞ」
 実時に促され、鈴音は少し考えてから、心を決めた。
「提案しといて何ですけど、私、自分で持ってます。フェイ達との接触機会を減らすのは私達にとって良くないし……それに、何処に置いたとしても 私の簪だから、やっぱり心配になっちゃいますし」
「そうか……、では、そうしよう。ところで……久都殿。蕎麦は食べ終わったのか?」
「おう。此処の蕎麦は美味い!今日はこんなに美味い蕎麦を食ったからスッキリ爽快、良い一日になること請け合いだぜ!」
 さっきの重圧を含んだ台詞を吐き捨てた者と同一人物とは思えないような明るい声で、久都は独自の蕎麦食い占いの結果を白狼隊隊士達に告げた。……正直、かなりどうでもいい。実時は、溜め息を一つついて、久都に問う。
「私としては貴殿がこの質問にまともな回答を返してくれることを望むのだが……。貴殿の俊足と剣捌きは見事だったと聞いた。 ……ただの浪士では無い事は、見て取れる。何処の家の者だ?」
「俺は久都。久しい都、でヒサト、だ。それ以外の何者でもないさ。職業は……お前らと大差無ぇような仕事をしてる」
「大差無い、と言う事は、貴方も治安維持の活動をしてらっしゃるんですか?」
 美景の問いに、久都は若菜の出した緑茶を啜ってから答えた。外の往来の、だんだん活気を帯びてきた空気が栄屋に漂い始めている。
「ん、まぁお前らの治安維持とはちょっと感覚が違うけどな。ただ俺は白狼隊や黒虎対の様に隊に所属しているわけじゃない。一人で行動してるのさ。 そうだ、片桐実時……サン?俺、一度でいいから手合わせしてみたかったんだよね、お前と」
 悪戯を企む子供のような口調。しかし、その爆弾発言と、言った者の瞳には、自信に満ち溢れた本気の色が滲んでいる。実時は一回瞳を閉じる。そして開かれた彼の瞳は、しっかりと久都を射抜いていた。まるで真実の時を、見据えるように。
「……私も、今日の午前は暇を持て余していた所だ。この後は一応町の巡回に出る予定ではあったが……久々に骨のある奴と手合わせするのも悪くない」
「ふふっ、決まったな。何処か良い場所を知らねえか?」
「屯所に稽古場がある。少々ごった返しているが……まあ、不足は無いだろう」
 突拍子も無い展開をはらはらと見守る隊士達を余所に、二人は着々と手合いの話を運んでいく。由紀彦が怪訝そうな声で疑問を漏らした。
「久都殿ってば、実時兄ぃに手合いで勝てると思ってんのか?実時兄ぃは、他の奴とは比べらんない位強いんだぜ?」
「でも、久都殿も只者では無いね。纏う空気が、他とは違うから……――、一体、何者なんだろうね……?」
 同じく疑問の声を発した舘羽の隣で、廉次郎が真剣な面持ちで呟く。
「実時殿が巡回を断念されてまで受ける手合い……一世に幾度見られるか、という位貴重なものになるでしょうし、黒虎隊の方々にも声を掛けてみましょうか……。」
 久都が蕎麦を大量に食い尽くした証拠として堆く積もる蕎麦盛皿だけが、その場の雰囲気を読めずに間の抜けた空間を作り出していた。



「両者、引き分けとします!竹刀を下ろして下さい!」
 審判である廉次郎の判定が下された瞬間、‘緊迫’という名の張り詰めた糸がぷつりと切れ、急に空気が人肌に優しくなった。太陽が空の真中を過ぎた刻、白狼隊の屯所内にある稽古場での事である。白狼隊隊士全員の他、廉次郎からの誘いを受けた黒虎隊隊士四人も一緒に観戦していた。
「はぁ……、何ていうか、‘凄い’の一言に尽きるわね~。こんなに美味しい手合い、アタシ今まで見たこと無かったわよホントに」
 手合いの感想を真っ先に口にしたのは、黒虎隊の花(?)、頼 正親。正親の横で、手負いの腕を擦りながら、徹平も大きく頷き、声を弾ませる。
「噂には聞いてましたけど、やっぱり片桐さんは強いなって再確認しました!……にしても、相手の方、一体どなたなんですか?」
「あの方は久都殿という方で……昨日、任務の折に偶然お会いしたんです。その後ちょっと……成り行きでこうなってしまって」
 徹平の問いに答えた美景の言葉に、ふうん、と相槌を打って後を続けたのは黒虎隊の熱き隊長、槙村一と黒虎隊副隊長で鈴音の姉、山形紫苑だ。
「しかし、実時と対等に渡り合うなんてな……悔しいけど、久都って奴もかなりのやり手だな、こりゃ」
「本当に。長谷部殿から伺った時はどんなものになるかと思っていたが……心配するだけ無用だったようだ」
 正親や徹平、一、紫苑の言葉通り、手合いの内容は中々色濃いものとなった。常に攻めの一歩を踏み出していたのは久都である。その俊足から繰り出す太刀は、常に実時よりも一手先に放たれていた。しかし実時はその一振り一振りを確実に見切り、払い、久都の死角を突いて次々に太刀を差し込んだ。勿論久都も、一刀のもとに風をも断ち切るような実時の竹刀を燕のようにスルリとかわす。――そんな状態が終始続いたこの手合いは、舞踊についての知識がまるで無いような下衆でも思わず感嘆の声を漏らすような、稽古場という舞台で披露される美しい‘舞’の様だった。……とは言えども、これ程までに‘役者’が殺気を立てる舞は、日本全土を探してもなかなか見つからないであろうが。舞台を終えた二人の役者は、お互いの舞を讃え合う。
「俺の勝手な我侭聞いてくれて、ありがとな。お前が本当に良い腕を持ってるって確信できたよ。……悪ぃ、お前は巡回もあったってのに」
「いや、……正直私も久都殿がそこまでの実力を備えているとは思わなかった。巡回のことは気になさるな、たまにはこうして己の技術を磨かねばなるまい。 貴殿のような男ともっと前に出会えていたなら尚、良かったのかもしれないと心から思うぞ」
 実時はそう言いながら右手を差し出した。久都は少し吃驚したような目で実時と、差し出された彼の右手を交互に見る。ふいに、丸くなっていた漆黒の瞳がふわりと緩み、久都の顔に微笑が宿る。久都も右手を差し出しながら、ゆっくりと答えを返した。
「色々、御期待に添えなくてすまねぇな。もっと前に出会うことはできなかったし、俺、女だし」
 久都からさらりと吐かれた新事実に、握手をしようとした実時を始め、稽古場に居た全員が自身の脳内を整理整頓する。一番最初に脳内整理が終わった正親が、恐るおそる久都に尋ねた。
「じゃ、もしかして…………久都ちゃんって、アタシの真逆……ってこと?」
「真逆って言うか……俺、どっから見ても女だろ。どうした?何か皆、妙な顔してるぞ」
「そりゃ、妙な顔にもなりますよ!俺、てっきり男の方かと……」
「まさか貴殿が、女性だとは……。驚いた」
 徹平と紫苑の言葉に、由紀彦と鈴音が
「全くだ」
 とも言いたげに、物凄い勢いで首を縦に振っている。惣助が呆れたように尋ねた。
「じゃあお前、何で男の格好なんかしてんだ?口調もガサツだし、女の命だって言われる髪だって短いじゃねえか」
「女の着物じゃ動きづらいだろ?だからといって袴は性に合わねぇし。髪も長いと色々と不便だから短くしてんだ。口調は……個人の個性だろ。 俺は常に女として人に接してるんだけどなぁ……人は俺のこと男とばっかり見るんだぜ?お前らも例外なく、だし。切なくなってくるよ流石に」
 はぁ~、と溜め息をつきながら久都は漆黒の短髪をかき上げる。彼女の中で唯一女性らしく思われる銀の髪飾りが、持ち主の言葉に同意するように風の調べを奏でた。美景が愁眉を開いたような表情で、久都に話しかける。
「久都殿、今朝勘違いしてらっしゃったんですけど……僕、男なんです!僕も何故か女性に間違われてしまうことが多々あって……その、何と言うか…… 貴女の気持ち、凄く良く判るんです。心中お察しします!」
「おぉ、そうだったのか!間違えちまって悪ぃな。お互い苦労するな、こんな容貌を持っちまうと。……にしたってお前、そんなに可愛らしい顔立ちで そんな色の着物着てたら誰だって最初は女だと見間違うぞ?背丈だって俺より小さいじゃねぇか」
「なっっ!久都殿こそ、そんな事言えるような立場じゃないですよ……どこから見ても男の方の出で立ちじゃないですか!」
「おいおい、それは……俺は出るべきとこが出てなくて引っ込むべきところが引っ込んでない、って遠まわしに言ってるのか?」
「止めなよ、二人とも。争ったところで美景殿の女顔が男らしくなる訳じゃないし、久都殿の出るべき所が出る訳じゃないのだから」
 的を得た舘羽の発言に、美景と久都はぐっ、と言葉を喉に詰まらせた。図星なだけに、何も反論できない。周りの者からの視線が刺さり、目の遣りどころが無くなった久都は空を仰ぎ、そして天道が昼を過ぎたことを告げているのに気づいて慌てた。埃を少し払い落とし、刀を差し直してから、実時と一に歩み寄る。
「俺、これから仕事入ってっから今日はこの辺でお暇するけど。お前達のこと実力人柄共に気に入ったからさ、何か助けになるよ。人手が欲しい時は呼んでくれ。 ……これ、俺の滞在先の住所。此処にいない時は外ぶらついてるか、栄屋で蕎麦食ってると思うから」
「判った。あまり貴殿に迷惑を掛けない程度に、力を借りるやも知れん……その時は、頼むぞ」
「お前も、何かあったら俺達を頼ってくれよな!この地図、黒虎隊の屯所までの道筋書いてあるから役立ててくれ」
「おう。それじゃぁな」
「あ、ちょっと待てよ!久都殿ってどこにお仕えしてるんだ?」
 実時、一と二言三言を交わし、踵を返して去ろうとした久都を、由紀彦が引き止めて武士として当然の事を尋ねる。久都は顔だけを少し隊士達の方に向けた。
「どこの家、ってハッキリしたようなとこに仕えてる訳じゃないんだが……そうだな、俺の事を敢えて形容するなら――幕府お抱えの流れ者、ってとこかな。 ……それじゃ、行くぜ。あぁそうだ、俺のことは殿とか付けないで普通に‘久都’でいいから!」
 そう言い残すや否や、久都の後ろ姿はみるみる小さくなっていく。昨晩と同様、嵐が去ったようだった。
「女性でありながら、あの腕前、幕府お抱えの武者……実時殿、以前幕府の者であのような方をご覧になったことは……?」
「いや、少なくとも私が幕府の重役に就いていた時は見かけたことがない。お抱えと言っても幅が広いからな……家紋も持っていない所を見ると おそらく仕えの者だろう。それとあの太刀筋……惣助、舘羽、どこの流派のものか判るか?」
「俺は今まで見たことないぞ。北にもあんな振るい方の流派は無い。ってか、実時に判らなくて他に誰が判るんだ?」
「私も惣助殿と同意見だよ……私の故郷の方でも目にかけたことは無いから。京で少し似た感じの太刀を見たことはあるけど、あれ程強烈ではなかったしね」
「そうね……でも女のコなのに、ホント格好に無頓着ね、あの子。あんな綺麗な顔や髪を持ってるんだもの、磨けばそこらの女なんて足元にも及ばないのに。 ……それに、着物もちょっと……アタシは遠慮したい柄だったわ。ね、ハジメちゃん」
「うーん、個人の個性が何やら、とか言ってたが……確かに侍としては風変わりな奴だったな。大体女で刀を持ってること自体珍しいのに……」
 皆が思い思いに語っている頃、そこから少し距離を置いた所で、紫苑は鈴音だけに聞こえるような低い声で呟いた。
「男尊女卑のこの世において……久都殿のような御方が江戸に居るという事は、我々にとって励みになるな。何より女性にして片桐殿と拮抗する強さだ …………私達の飽くなき向上心を奮い立たせてくれる」
「はい……。私達ももっともっと強くなれる、そんな気がします」
 鈴音は師走の澄んだ空気を大きく吸い込む。身に心地よい日差しは、白狼隊隊士、黒虎隊隊士に限らず万物のものに柔らかく温かな手を差し伸べていた。



 その日――実時と久都の手合いの日から、久都は度々白狼隊や黒虎隊の前に現れるようになった。とは言っても、鈴音達が一息入れるために栄屋に行くと、久都が日に日に違った蕎麦との二重奏を高らかに披露していただけなので、正確に言えば‘現れる’ではなくただ‘食っている’と言う方が正しい。後で若菜に聞いた話によると、久都のおかげで栄屋の経営状況がかなり潤ったのだそうだ。取り分け年越し蕎麦の健啖ぶりは凄まじく、栄屋の主人をして
「年越し蕎麦だけで普通の人間の五年分は食っている」
 と言わしめたそうな。そんなこんなで年も明け、鈴音のいつもと変わらぬ日常の中に久都はすんなりと溶け込んでいったが、やはりどうしても日常に溶け込まない者もいた。――フェイだ。
 紅葉狩りよりも前だったならば、フェイは数こそ少ないものの江戸の町を確かに歩いていた。だから会って、話をすることもできた。だが今は違う。自分と彼は敵……対峙するべき相手だとお互いに知ってしまった。話し合いで解決できたらどんなにか良いだろうと何度思っただろうか。しかしそれも叶わない。彼は少なくとも、江戸の町に降りて来る事は無いだろう。……紅玉を奪いに来る、その日まで。
(たまに会ったら他愛の無い話とかして、清の事とかも聞いたりして……それが私にとっての日常の一部、だったのに)
 いっそ、徹平の誘いを断ったまま、紅葉狩りに行かなければ良かったのかもしれないとさえ思えてくる。そうすれば、徹平はあんな酷い怪我をしなくても済み、フェイは自分の素性を知らずに済み、そして自分は、こんなにまでフェイの事で心痛めることも無く、今この時だってフェイと何の変哲も無い日常を過ごせたのだから。
(……ううん、そんなこと、考えちゃダメ。それじゃ誘ってくれた徹平君に失礼になっちゃうもの)
 軽く頭を振って、鈴音は桶の取っ手を握り直す。今日は廉次郎の手伝いで、寺子屋に来ていた。とは言え、指導するのは緊張するやら恥ずかしいやらで大変だったので今日のところは丁重に断り、その代わりに寺子屋の雑務を引き受けたのだ。
 井戸に着くと、桶を綱にしっかりと繋いで静かに中へと投げ入れる。数秒して桶が井戸水に完全に浸かった事を告げる水面の音の戯れが石筒を駆け上がってきた。ゆっくりと引き上げてみると、桶には透明な水がたっぷりと入っている。この寒さで凍ったのだろう、井戸水製の氷の破片も混じっており、太陽の光に反射し懸命に自身を煌めかせて自己主張していた。
「う……ん、や、やっぱ重いなあ……」
 鈴音が桶を持ち上げ、亀の歩みで寺子屋への道を辿り始めて数歩、いきなり自分の手の中から幻術に惑わされた様に桶が消えた。慌てて辺りを見回すと、隣には漆黒の長身が桶を軽々と抱えて立っている。いつものように、やる気の無い笑顔をこちらに向けて。
「重そうだな……と思ったから、さ。どこまで運ぶんだ?これ」
 その台詞を聞いた途端、鈴音の脳裏にある情景が閃光のように走る。そうだ、あれは夏のこと……彼も、そう言って水桶を持ってくれたではないか。
「あ、えっと、寺子屋まで……そこの角までお願いします」
「判った。んじゃ其処で茶と菓子でも出してくれや」
 これまたいつものように、突拍子も無い展開を無理矢理作り出す久都。鈴音が黙って彼女を見ると、久都は目線を少しずらして、気まずそうな顔をする。
「あー……その、何だ。気づいてないみたいだけどさ、お前泣いてるぞ、今。何かあったんなら、聞いてやることくらいはできるかと思って」
「!……本当だ……」
 自分の頬に手を添えると、生温かくしょっぱいものが目から零れ落ちていた。いつからこんなに泣き虫になったのであろうか。急いで顔を袖で拭って、鈴音は寺子屋の中へと久都を招き入れたのだった。
 鈴音は久都に、フェイ達陰陽師一派と自分達とのこれまでの経緯を掻い摘んで話した。話すうちに何故か込み上げて、何度も嗚咽を漏らした。その度に久都は、幼い子を宥める様に肩を優しく叩いた。用意した茶は、気づいた時にはとっくに湯気を出す元気を無くしているようだった。
「成程な……じゃ、お前はその陰陽師のことが好きで、今もこうして想いを振り切れずにいる訳だ」
「な……、別に特別な意味でお慕いしてる訳じゃないですよ!ただ私、本当にフェイのこと、何も判ってなかったんだなって思って…… お話しする機会もあったのに、どうしてそこで気づいてあげられなかったんだろうって……そうしたら今だって……!」
 どんどん感情的になって声を荒げる鈴音を、久都は無言で見つめていた。と、その途端、大気が感電したように震える感覚が鈴音を襲う。その一瞬の出来事に驚き、弾かれた様に久都を見ると、彼女は普段と変わらずふにゃりとした笑みを顔に宿していた。大気の痺れも、今はもう感じられない。
「鈴音、お前はそう言うけど。そいつの事を何も判ってないなら、そんな気持ちだって生まれないはずだぜ。それに今は敵同士であったとしても、根本的に性根が腐りきった奴じゃないなら生きてさえいりゃ解り合えるさ。時間はかかっちまうかもしれねぇけど」
 それはそうかもしれないですけど、と声を上げかけた鈴音は、久都が桶を持っていた反対側の手に、実は数冊の分厚い本が収まっていたことに初めて気付く。今はすっかり冷めてしまった緑茶の隣に積まれているそれらの本は、題名から察するに哲学についてのもののようだった。
「……久都さんって、こんな難しい本を読まれてるんですね。哲学書……ですか?」
 どうにも彼女の雰囲気と本とを結び付けられないので、話題を変えて実際に所持者へ尋ねてみる。
「ん。何だ、滅茶苦茶意外って顔してんなぁ……失礼な。俺だって書物の嗜みくらい持ってるっての。まぁ、専らこういう本しか読まねぇけど」
「……凄いですね。私、哲学書なんて読んだこと無いですし、漢文だって読めないですよ」
「学者じゃなきゃ、普通は手に取ることもしねぇだろうな。ま、必要に駆られないんであれば、そっちの方が良いに決まってるよ」
「哲学を、必要に駆られるほどに求める……事って、あるんでしょうか?」
 自分には想像もつかない言葉を投げ掛けられ、首を傾げる。桶の中で鮮やかに煌めいていた氷も、今はもう消えそうに、小さくなっている。
「あると思えばある。無いと思えば無い。その質問についての答えは、こういう曖昧な感じでしか答えられねぇな」
「久都さんは、あるんですよね?だから、読んでらっしゃるんですよね?」
「……やけに、突っ掛かってくるな、お前。気になることでもあるのか?」
 軽く、嘲笑にも似たような笑いを浮かべた久都を、鈴音はしっかりと見つめた。何故か、この事について、この者からちゃんと問いたださなければならない、哲学に興味があるとか必要だとかそう言うものではなくて、この事について自分が理解できたら、自分はフェイの何処かに少しでも近づけるかもしれない、――そんな、気がして。
「必要がある、と言う人がどんな時にそう思うのか、……知りたいです」
 きっぱりと言い切った鈴音に、久都は物珍しそうな視線をやった。口元にまだ嘲るような影を悠然と残しながら、彼女は言の葉を紡ぐ。
「自分の存在意義を見失った時。自分にとってこの世界が何なのか惑った時。……哲学から、答えを導き出せるかもしれないだろ?」
「それ、は」
「だからだよ。……ただ単に考えるのが好きだから、っていう物好きな奴もいるけどな。というか俺は後者の理由で愛読してるぞ。考えれば考えるほど、 新しい自分や物事を発見できるだろ?こんなに面白くて金のかからねぇ遊びは無いからな」
 鈴音の言葉を遮り、久都は簡潔かつ手短に自身の論を締めくくった。この言葉はあまりにも重い鎖であり、鈴音はそうですね、と簡単には頷けなかった。黙り込んでしまった少女を見て、久都は先程汲んだ井戸水の入った桶を引き寄せる。
「例え話の方が、判りやすいかもしれねぇな。……この氷を見てみろ。さっき汲んだ時はあんなに大きかったし、美しく輝いてた。存在を誇示してた。 だけど今、コイツは静かに‘氷’としての命を終えようとしてる。もう光を反射できない程に小さくなって。存在を確認できなくなる程に弱々しくなって」
「……あ、」
 久都が言い終えた、その刹那に、――氷が、消えた。
「あっという間に、だな。まるで人の一生のようだ。……お前はどう思う?この氷は、こういう風に存在できて幸せだったのか、否、不幸せだったのか」
「氷には、人と違って感情が無いんです……なのに幸せとかを定義するのは、不自然じゃないですか?」
「まぁ、そうなんだけどな。だけど裏を返しゃ、感情が在るのは人間だけだ。確かにモノは自分で感じて、思って、行動する事ができない。 だからこそそういう事をできる奴が、できないモノの事をちょっと考えてみてやっても良いんじゃねぇかって、俺は思うわけだ。……で、どうだ?」
 鈴音は自分と久都の周りが静止した、そして悠久にどこまでも広がっていく時空空間のような、そんな感覚を覚えた。
「もし、もしですよ?私がこの氷だったとしたら……こんな短い間しか現世にいられなくて、少し寂しいかなって思います。もっと沢山輝いていたいだろうし……」
「ちょっと不幸せな感じがするって事だな。確かにそれはそうだろう。……んでもって、俺みたいな物好きはさらに其処から一歩踏み出してみる訳だ」
「さらに其処から一歩……ですか?」
「そう。氷は氷としての短い、不幸せな命を終えた。……水という世界に飲み込まれて。でもこう考えてみたらどうだ?氷は‘水’という新しい命になって、 新しい世界の中に存在している。蒸発したとしても、大気の中に存在していける。半永久的に、現世の何処かに、ずっと存在することができる。こう考えてみて、コイツの存在の仕方は不幸せだと思うか?」
「……思いません」
「やっぱりお前も、長寿に魅力を感じるか……あぁ、そう難しい顔すんなっての。今のはほんの例え話。要するに俺はこういう事をぐだぐだ考えるのが好きな訳だ。 それが、俺が哲学を必要としている主たる理由だな。コレで充分満足しただろ」
 久都の台詞によって満足どころかさらに重くなってしまった頭を少し手で押さえて、鈴音は一番聞きたかったことを口にする。
「じゃあ、物好きさんにお尋ねします。もし、自分の友達や大切な人と対峙することになったら、……貴女は、どうするんですか?」
「俺か?……うーん、俺は……」
 久都が少し考え込んだ瞬間、空をも劈く様な女の悲鳴が上がった。その声が上がったところは、寺子屋からそこまで遠くは無いだろう。
「おい鈴音!話は後だ、行くぞ!」
「はい!急ぎましょう!」
 少しも手の付けられていない茶と茶菓子を後に、二人は声の発せられた場所へと全速力で駆け出した。



やはり、その‘人間だったモノ’には、頸部にあたるものが付いていなかった。路地裏の、さらに人目につきにくいような場所で、‘それ’は横たわっていた。服装や家紋を見るに中々の身分の者だと伺えたが、如何せん、首が無いので何処の誰かが一目では判らない。二人が現場に到着した時には、黒虎隊の四名がすでに検死を始めているところだった。
「あっ、鈴音ちゃん!……と、えーと、久都さん?でしたよね……?」
 徹平が二人に気づいて声を上げる。その声に、他の三人も振り返った。振り返った三人の顔は、苦虫を噛み潰したような顔である。
「徹平君!良かった、刀、振れるようになったんだ!じゃあ、傷はもう大丈夫なの?」
「お蔭様で。心配してくれてありがとう。ゴメンね」
 傷の回復を喜び合っている少年少女の横を素通りして、久都は死体と一達に近寄った。
「うっ……ひ、でぇなコレ……見た目もアレだけど、臭いが特に……。一体何時の死体だ?」
 あまりの悪臭に呻く久都に紫苑と正親が冷静且つ迅速に検死の結果を報告する。
「死後、三日は経過しているな。こんな場所だから、発見が遅くなったのだろう……さっき悲鳴を上げた女性にも話を少々伺ったが、彼女が第一発見者のようだ。 それから周りの者に人払いを頼んだからな、これがおそらく殺害当時と同じ状態だと言い切って良い」
「死因は……まぁ、見ての通り、頸部切断による失血死。他に斬られたところは見受けられないし、首が此処に無いから例の‘馘首事件’の一端と踏んで 間違いないと思うわ」
「例の‘馘首事件’……前にも似たような事件が多く起こっていて、犯人はまだ捕らえられてない、要するに相当の手練ってことか……」
「へぇ……流石、幕府お抱えの武者様だな。まぁそういう事だ。尤も、今回は以前とは違って色々証拠やら何やらを落としてってくれただけまだ有難いんだけどな」
 瞬時に状況を判断する久都に感心しながら、近辺を調べていた一が死体から押収した品々を持って戻ってきた。その場に居る者全員が品々を刮目する。
「……とは言っても、これだけじゃ犯人特定は難しいですよね……」
 徹平の言葉に、周りの視線が一に刺さる。一は皆を見回し、半ば投げ遣りになった。
「俺のせいじゃないぞ!何だったらお前らもちゃんと確認してみろ、本当にこれ以外無いんだ!この犯人はやっぱり大きな証拠を残さない所が素晴らしいな!」
「何どさくさに紛れて犯人を賛辞してるのよ、ハジメちゃん……。」
 その証拠、と言うのは、犯人が被害者をこの路地裏まで呼び出した書状と、死体の周りに散らばっていた濃桃色の花びらであった。書状を開き、目を通した紫苑の端麗な顔が、少し歪む。
「お兄様?何が書かれているんですか?」
「いや……確証は持てないのだが……、この文体を深読みすると、この者は‘何か’をする為に此処に呼び出された、という意味で取ることができる。 あくまで可能性の話だが、その線で調べてみる必要性があるようだな」
「つまりこの方は、書状の差し出し主と何らかの取引をする為に此処に来て、そして斬られてしまった――と?」
 事を纏めた徹平に、紫苑は軽く頷いた。日はすっかり傾き、茜雲の向こうから橙の光が零れてきている。
「そして、この花びらだけど。……形状や色から察するにこれは山茶花のものでしょうね。ここらには無いかもしれないけど、少し探せば誰でも取って来れるし ばら撒く事も可能だわ」
 花びらについての正親の分析結果を聞いた一は、一連の事件についての記憶を手繰り寄せ、ある事に気付く。
「なぁ、紫苑、正親、徹平……はあの時の首切りは見てないか。とりあえず二人とも、随分前の馘首事件の時もこういう花びら無かったか?」
「…………正直なところ、覚えていないな。一回目に見たときは衝撃を受けて狼狽えていて、二回目は風が強かったような気がする……それ位しか思い出せん」
「アタシも。よーく考えてみればあったかもしれないけど、風に飛ばされちゃってる可能性もあるし……」
「じゃ、どっちにしろ確証は持てねぇのか。にしても……首を持ち帰るって事は……この犯人、絶対に一人で殺しをやってる訳じゃ無いだろうな」
 そう言いながら、久都の顔からいつもは消えないはずの笑顔が、ふと姿を隠した。彼女は首を傾げた経験浅き少年少女に説明する。
「首の収集家ってんなら話は別になるんだけど……この例はそうでもなさそうだからな。いいか、犯人としては人に姿を見られたらまずいんだから、 なるべく目立たねぇようにしたい訳だ。だけどこの犯人は敢えて首を完全に切断する殺しをして、さらに持ち帰るなんていう仰々しい事をやってる。 ただ単に殺したいだけなら首だけを狙う必要は無いはずだ。つまり、誰かにその首を見せて、そいつに殺しの対象者だと確認をさせる為に持ち帰ってるとすりゃぁ 納得がいくだろ?だからこの一連の事件は実行犯だけじゃない、――少なくとも二人以上の団体の者が仕組んでる可能性が高いって事だ」
 久都の説明を受けて、鈴音と徹平は成程、と相槌を打つ。一は証拠物品を持って立ち上がった。
「よし!んじゃあさ、鈴音。お前はこの事、実時達に伝えてくれ。俺らは俺らで、被害者や書状の差し出し主の特定を急ぐから。判り次第、そっちに伝えるよ」
「はい……明日ちょうど定例会があるのでその時にちゃんと報告しておきます」
「頼むな!で……久都。お前の洞察眼は中々の物だ。あいな頼みなのは重々承知として、お前の力も借りたいんだが……」
 一はちらりと久都に目線をやる。久都は済まなそうに声を落とした。
「悪ぃ……今回は、ちょっと手伝えそうに無い。俺の方も近々、かなり大きい仕事をこなさなくちゃならねぇんだ。こんな現場に立ち会っちゃった以上、 相済まないのは山々なんだが……まぁ、この一連の事件の最後には必ず立ち会えるように、ちゃんと目の前の大仕事を成功させるよ」
「そうなんですか……じゃあ、仕方ないですよね。久都さん、お互いに頑張りましょう!」
 そう言った徹平の屈託の無い笑顔を見て、久都も静かに首を縦に振った。
 地平線の向こうに今にも沈みそうな日の光を受けて、五つの長い長い影ができる。それはまるで、明日もまた昇るよ、という太陽からの意思表示のようで。



 翌日の朝は酷く冷え込み、空から舞い降りる水の妖精は氷へと姿を変えて、江戸の町一面に降り立った。ずっと降り続いている所為で、屋根や地面はしっかりと真白に化粧されている。雀達の甲高い笑い声が、淀んだ空に少しばかりの彩りを添えた。
 白狼隊の面々は午前、午後の務めをそれぞれ果たし、屯所へと集合していた。全員揃ったのを確認して、実時が話を切り出す。
「それでは、これから定例会を始める。まず……鈴音から例の‘首切り’について話があるようだ。鈴音、報告を頼むぞ」
「はい。昨日、寺子屋から北の方に少し行った路地裏の奥で、首の無い男性の遺体が発見されました。死後三日以上は経っていて、死因は失血死。 周辺の人に聞き込みをしてみましたが犯人に関する情報は一切ありませんでした。被害者が持っていた書状の内容から、被害者と犯人達との間に 何らかの取引関係があったと見られています。黒虎隊の皆さんが、その点も含めて調べがついたら伝えてくれるそうです」
「そうか……何かこれで、解決に向けた動きが出ればよいのだがな……」
「そうだな、これ以上江戸でこんな不穏な動きを見せ付けられたら町の人の不安もどんどん募っちまうし……俺らで何とかしなきゃな」
「今まで何も情報が無かったところから、微々たる物であっても証拠が出てきたんです。希望を持ちたいところですね」
 実時、惣助、廉次郎がそう話していた時、屯所の外から呼び声がした。察するに、庄吉のようだ。
「おや、庄吉殿だね……一昨日全員分の刀を預けてきたから。こんな寒い中に待たせるのも悪いし、頂戴してくるよ」
「あ!んじゃ、俺も行くよ舘羽兄ぃ!」
 舘羽と由紀彦が屯所の入り口まで向かうのを見遣りながら、美景が心配そうに言う。
「何だか、嫌な胸騒ぎがするんです……一年前の出来事よりは軽いものだと思うんですが。単に僕の思い過ごしならいいんですけど……」
「唯でさえ、例の陰陽師一味のことも解決していないからな。厄介事は早めに芽を摘みたいが……」
「そうですね……彼らと剣を交える時はこちらも準備万端な状態でないと、折角勝機があったとしても掴み損ねてしまうでしょうし」
 屯所に沈黙の帳が降りる。そこへ、舘羽と由紀彦が鍛え上げられた刀を抱えて戻ってきた。
「はいっ!これ、皆の分。それと、庄吉さんにも‘首切り’のことについて聞いてみたんだけど……」
「何か情報、入ったか?」
 惣助の問いに、舘羽が首を横に振る。外の雀も、もう鳴かなくなった。
「直接結びつく情報は無かったよ。でも少し前、庄吉殿の所にその昔随分と名を馳せた‘虚依(コヨリ)’……とか言う名刀の鍛錬依頼が入ったらしくてね。 首を一太刀で切り裂く刀なんてそうそう無いから、もしやと思ったのだけれど……」
「それは興味深いですよね……どなたが依頼されたのかは、判ったんですか?」
「あぁ、それが……」
 美景の質問に舘羽が向き直った時、またしても屯所の外から呼び声がかかった。白狼隊隊士が出迎えに行く前にずかずかと屯所内に踏み込んできたのは黒虎隊隊士だ。四人とも、肩の辺りに冬の使者を佇ませている。
「よ!邪魔するぞ!」
「一、親しき仲にも礼儀ありだぞ。無断で上がり込むのは良くない」
「紫苑はいちいち堅いんだよ。黒虎隊と白狼隊は二つで一つみたいなもんだろ?」
「でも隊長、流石にちょっと……」
「はいはい、徹平ちゃんもハジメちゃん達もそこまでにしなさいよ。口論しに此処に来たわけじゃないでしょ」
 正親の言葉で、ようやく黒虎隊は会話のできる空気を作り出した。実時が静かに口を開く。
「先程、鈴音から昨日の事の成り行きは聞いたぞ。ご苦労だった。して、此処に足を運んだということは……何か判ったんだな?」
「おう、勿論。手ぶらじゃお前らに合わせる顔無いし、ちゃんと土産を持ってきたぜ。ほら、コレが例の証拠物品」
 一が取り出した書状と花びらに、視線が集まる。紫苑は調査した結果を土産とした。
「筆跡の鑑定眼が有る者に書状の方を頼んでみたところ、然程時間がかからない内に差し出し主の特定ができた。……幕府の重役に就いている、水野様のものらしい。 それから被害者の方だが、こちらも水野様と闇取引で精通していた家の主だったようだ。……あまり美味い話ではないが……馘首事件の黒幕は 水野様だ、と断定して良いだろう」
「闇取引の内容……及びに事の真意はどうなっているんですか?」
 廉次郎が尋ねると、今度は徹平が受け答える。
「取引内容は……色々あるようなんですけど、取り敢えず大きなものは金、ですね。賄賂の横流しが蔓延っているようです。真意ははっきりとはしてないんですが、 大方自分にとって不都合な横流しをした家や人を狩っているんじゃないかってことで一致しました」
「……奇遇だね。名刀‘虚依’の鍛錬を庄吉殿に頼んだのも、水野家の者のようだから。こんなに事が進展するとは思わなかった」
「では……そうなると、我々はどうやって対処していけば良いかが難しいところだな。仮にも相手は私達より遥かに上の者だ……迂闊に手出しはできない」
 黒虎隊や舘羽の言葉を受けて渋った顔になる実時。と、その時、外の様子がざわついてきているのが誰の目から見ても明らかになった。白狼隊、黒虎隊が屯所の外へ出てみると、野次馬と思しき人々が慌しく駆けていく様子が伺える。鈴音はすぐ側を通り過ぎた男を呼び止めた。
「あの、すみません。向こうが騒がしいようですが……何かあったんですか?」
「嬢ちゃん、知らないのかい。何だかたった今、幕府のお偉いさんが斬られてるのが見つかったらしくてね……皆見てみたいと躍起になってるんだよ」
 その言葉に、隊士達の目つきが急に変わる。一が舌打ちをしながら男に呼びかけた。
「ちっ……まさか、とは思うけどな。おいオッサン、その場所まで案内してくれ!早く!」
「わ……判った、こっちだ!」
 白い絨毯に沢山の足跡をつけて、十一人は雪舞い降りる中の風をきった。



 まず目に付いたのは、赤と白の、鮮やかな色調対比の美しさ。次に目に付いたのは、昨日より確実に枚数の増えた、無数の紅の花びら。
「実際に見てみると……酷いものだね。たとえこの者が生前にやったことが褒められた事ではないにしても……。人徳が無いのかな、首狩人には」
 金の髪の者から発せられた呟きに、皆まじまじと‘それ’を見る。惣助が少し‘それ’を引っくり返して、家紋を確認する。
「……間違いねえ。‘江戸幕府第十一代将軍’徳川家茂様が側用人、水野忠永様だ」
「側用人って……将軍様に一番近い側近だろ?何でこんな城下から離れたとこで……しかもまた、首、切られてるんだ……?」
「取り敢えず、立っているままでは何にもならない……私達は情報収集をしてこよう」
 由紀彦が声を震わせる横で、紫苑達黒虎隊四名が二方へと散らばった。残された白狼隊七名は検死と証拠物の特定を急ぐ。
「昨日と、同じだ……切り口に閊えた痕が無い……やっぱり首を一振りで斬ってる」
「では昨日鈴音殿が見た遺体の方も……これと同じように?」
 廉次郎に問われ、鈴音はこくんと頷いた。忠永の懐を探ってみると、短い書状が姿を現す。実時が中を読み、眉間に皺を寄せた。
「内容は、この近辺に水野様を誘い出すものだ。どうなっている?水野様ともあろう御方がこんな誘い出しに掛かる訳が無い……」
「そうですよね……‘そういう取引’について詳しい方は取り分け用心深い人が多いですから、そうそう罠に足を取られる事は無いはずなのに」
「それに今回は、首が無くなってないよね……今までは首から上は必ず無かったのに、水野様だけ首を斬ってもそのまま置きっぱなしにしてる…… ……う~、もう、訳わっかんないよ……」
 美景や由紀彦が頭を抱えていると、黒虎隊が戻ってきた。が、その顔はいささか晴れ晴れとしていない。
「おい、紫苑、正親!どうだった、そっちは?」
「ダメ。ホントに目撃者がいないの。水野様が斬られてから全然時間経ってないのにこんなに目撃情報が無いんじゃ、手も足も出ないわよ」
「一と徹平の方はどうだったのだ?何か直接関連付けられそうなことは聞けたか?」
「一つだけ……不審な長い黒髪の人がさっき通った、って聞いたんですけど……これだけじゃ手掛かりにはなりそうにもないです」
 黒虎隊が聞き込みの成果について話している側で、舘羽は無数の花びらを黙って見つめていた。その様子に、正親が気づく。
「ちょっとアンタ真面目に聞いてるの……って、あぁ、その花びらね。また山茶花……昨日よりは色合いが濃い気もするけど」
「……昨日もあったのか。全く悪趣味だね、唯でさえ雪は赤く染められている……わざわざ紅の花で彩りを添えなくたって充分映えてしまっているのに」
 今は亡き側用人が横たわっている敷物は、成程舘羽が言う通り、血染めの白妙に哀悼花を散りばめた物のようだった。
「うっし、此処でうだうだしてても仕方ねえ。この事件をこれまでの経緯と照らし合わせてみたいし、一旦白狼隊の屯所に引き上げるぞ!」
 一の言葉に、皆来た道を引き返し始める。最後に現場を離れた惣助がもう一度後ろを振り返ってみると、つい先程まで何も無かったところに紙束が落ちていた。惣助は慌ててそれを拾い上げる。
 紐を解いて紙束を開くと達筆な文体が目前に鮮やかに広がった。その途端、惣助は自分の目を疑う。こんな物が我々の前に来る訳がない、……そう、信じていたくて。けれど手元に在るそれは、紛れも無い現実の欠片。

   謹啓

   白狼隊並びに黒虎隊の皆様
   わたくしが次に狩る獲物は あなた方でございます
   しかし今までわたくしが狩ってきた者の なんと手折り甲斐の無いことか
   切実なお願いでございます
   あなた方はどうかわたくしを失望させないで下さいまし
   今宵 戌の刻頃に江戸町の外れの草原で お待ちしておりますわ
   お互いに生命の灯火を煌々と掲げて どちらかが燃え尽きるまで戯れましょう
   わたくしは 古来よりその名を馳せている 首狩人

   敬具

「……これは……花弁が離生しているように見えて本当に似ていますが、山茶花ではないですね……綺麗に毟った跡がありますから」
「じゃあコイツは…………例の刺繍の花、ってことか」
「――行くぞ、廉次郎、一。絶対とは言い切れんが……私達の推測は十中八九、当たっているはずだ」
 実時が立ち上がり、歩み始める。彼と、彼に続く二人の後姿は落ち着き払っていて、それでいてどこか物悲しさが一段と際立っているように見えた。
 紙束の内容を読み終えた見目麗しい隊士達の面持ちは、愕然としていた。このような事態が起こった時だけ時間の流れが急に遅くなって、密閉された箱の中でじわりじわりと水に浸されていくような感覚に捕らわれる。
 鈴音は収拾しかけては纏まらずに爆発していく自身の脳細胞を恨みながら、一連の事件を掘り返していた。隣では美景と由紀彦が同じように情報を絞っていたが、やはり混乱したのだろう、由紀彦は髪の毛をくしゃくしゃと掻き上げながら寝転がり、美景も大きな溜め息をついている。徹平は何時に無くおろおろと慌てふためき、最終的に襖にぶつかってようやく落ち着いた。惣助は、今は何も考えたくねえから、と言って屯所への制裁――もとい、掃除に取り掛かっている。舘羽と正親もこれからどうするかを話し合っていたようだが、いつの間にかいつもと変わらない漫才と化した口論に火花を散らしていた。
「黒幕だ、と見込んだ矢先に水野様までもが斬られた……と言うことは、一連の黒幕は水野様ではないのか……?」
「……いや、それはないだろう。忠永殿が黒幕なのは書状から明らかになっている」
 紫苑の呟きにちょうど合わせたように、奥の座敷から実時、廉次郎、一が姿を現した。只ならぬ雰囲気を三人から感じ取り、皆そちらへと向き直る。廉次郎は皆に呼びかけた後、実時を促した。
「皆さん、聴いて下さい。これからお話しする事は真実だとは言い切れないのですが、確証は十分にある……ほぼ間違いないものと踏んで良いと思います。実時殿、どうぞ始めて下さい」
「ああ。……話は師走まで遡るのだが……私と舘羽が黒虎隊に付いて初めてこの事件に当たった時、何も……前兆や証拠さえ無かったことは皆知っているだろう。それで良かったのだ。今となればそこで何かが起こってしまっていたら話の辻褄が合わない……何故ならその時、首狩人は美景と鈴音に接触していたのだから」
 それは、あまりにも唐突な告白。それは、あまりにも残酷な言葉の戯れ。
「よく考えてみればすぐ判った事だ……そう我々に悔しく思わせるほどに、首狩人はさまざまな証拠を残してくれていた。……判りづらくはあったが。奴は、確かこう言っていたな。自分の事を形容するなら、幕府お抱えの流れ者だと。敵を狩りたいのなら、自分から動いて飛び込む位の覚悟を崩さないようにする――さもなければ逆に殺られる、と。もし‘幕府お抱え’と言うのが……将軍様の第一側近である側用人のお抱えであるとしたら? ‘敵’である我らに接触し、我らを‘狩る’ために自分からこちらの領域に飛び込んできていたとしたら?……不思議な事に、すべてつながってくる」
 そこで間を置いた実時に代わって、今度は廉次郎が重々しく口を開く。
「そう考えると、首狩人が名乗られてもいない私達の名前を知っていた事にも説明がつきます。狩人ならば、獲物の名は知っていて当然ですからね。そして首だけを狙って持ち帰っていたのは、その首を一連の黒幕……水野忠永様に見せて、正確に対象者を狩ってきたと確認させるためです。現に、首狩人は忠永様の首だけ持ち帰らずにそのまま遺棄しています。これは持ち帰る必要が無かったからです……何せ、持ち帰って見せる相手を狩ってしまったのですから。用心深い忠永様があのような誘い出しの文に掛かったのも、その差出人が信頼の置ける配下の者だったからと考えれば話の筋は通ります」
 廉次郎に続いて、一が花びらを手に取りながら話し始めた。
「んで、この花びら。一枚一枚ばらばらになってたから山茶花だって推測されてたんだけど、ついさっき廉次郎に見てもらったら違うって事が判った。正親、お前、あいつの着物の柄は遠慮したいって言ってたよな。……何でだ?」
「だってあの刺繍、椿の花だったでしょ。普通の人なら刺繍を入れる程まで好きにならないわよ、椿は散る時首から落ち――……あっ!」
「やっぱ、気付いたな。……椿の花は首から落ちるから武士には取り分け嫌われてる。なのに首狩人はわざわざこの花を刺繍にして着物に入れて、さらに狩りの後に花びらをばら撒いてる……まるで自分が首を落とす者だと、主張するように。それから昨日俺があいつにこの事件の応援を頼んだ時、あいつは近々大きい仕事があるから無理だって言ってた。確かに大仕事だよな、自分が仕えていた主人の首を斬り落とすなんて……」
 ただただ固まって沈黙する隊士達の前に、実時は忠永が持っていた書状と自分達に宛てられた紙束を広げる。
「窮めつけは……と言うか確実な証拠はこれしか無いのだが、この二つの文書の字体が同じなのは、皆見ての通りだ。それに、奴が私と一に渡したこの滞在先の住所の字体を照らし合わせてみろ」
 そう言って、実時は広げた書状と紙束の上に切れ端のような紙を乗せる。三つの書面に書かれた文字は、見事なまでにぴったりと一致した。
「じ、じゃあ……まさか、本当に…………」
 顔面を蒼白にし、唇をわなわなと震えさせてか細い声を出した鈴音を、実時は迷いの無い真っ直ぐな目で見遣った。
「――首狩人は、久都だ」
 静寂という名の羽衣が、屯所を優しく包み込む。



 降り続いていた氷の演舞はいつの間にか幕を閉じ、紺青の大空には十六夜月がたいそう高く差し上がった。女の小さな笑い声が響き渡っている。見渡す限り雪野原の何処がそんなに面白おかしいのかは知れた事ではないが、それでも女は笑うのを止めない。
「ふふっ……あら、御免あそばせ、実はあなた方が本当に来て下さるなんてあまり期待してなかったんですの。だからつい嬉しくなってしまって」
 女の声は、息を切らせて走ってきた十一人の侍達の耳によく通った。鈴を振るようなその声色は侍達の恐怖心を煽る。実時が、怯まずに切り返した。
「そう思うのなら早々に顔を見せろ。……いくら文体と口調を変えたとしてもお前はお前なのだから」
「ふふふっ、それもそうですわね。今回は今までよりも幾分か手折り甲斐がありそうで何よりですわ――……」
 そう言いながら、女は暗闇からその姿を現した。漆黒の着物の上で咲き乱れた紅の椿が、闇の中で艶やかに踊る。
「久都殿……やっぱり貴女が‘首狩人’、だったんですね……」
 ぽつりと変えようの無い事実を口にした美景。女は口調を聞き慣れた、あのやる気の無いものに戻した。声色もどことなく寂寥が滲み出たものになる。
「悪ぃな、騙してて。さっきの言葉、嘘だぜ……お前らなら来てくれるって信じてた。この時が来るのをずっと心待ちにしてたよ」
「ならば斬り合う前に答えろ、水野様との関係と自分の正体を。……こちらとて目は節穴ではない。お前が人間でない事は、薄々判っている」
 決然と言い切った紫苑に対し、久都は心底驚いた顔をしながら、また小さく笑う。彼女の周りの木の葉もその笑いに便乗するように揺れた。
「ご名答。俺は人間じゃなく‘妖魔’……いわゆる人に仕える‘妖し’の一種だ。
 お前らも知ってるかもしれないが、妖魔には色々なものがいる。それこそ巫女さんの祈りを助長するのとか、義賊みたいな事やらかすのとかな。そういう奴らは人間には殆ど害を与えないからその道では信用されてる。俺は……まぁ判るだろうけど、人殺し専門の‘殺戮種’として今から九百年前位の平安末期に生を受けた。当時は今なんかよりもっともっと京は荒んでたし治安も悪かったから、‘殺戮種’の妖魔を手懐けて自分に有利な状況を作りたいと貴族達は躍起になってたよ。それに‘殺戮種’は妖魔の中でも戦闘能力がずば抜けて高いもんだから、戦が起こると必ず戦場に駆り出された。俺が刀を振るった大きい戦は……源平の合戦、承久、元寇、応仁、長篠……歴史書に残りそうなものばっか。つい最近のだと関ヶ原、とかな。
 関ヶ原が終わってからは気の向くままに日本中をぶらぶらしてたんだが、三十年位前に水野家……ちょうど力を付け始めた忠永が俺を探し出して、『自分達に仕えろ』って言ってきたんだ。大方、幕府秘蔵の書物で関ヶ原での俺の人斬り功績でも見て、自分達にとって良いように利用しようって考えたんだろうけど。  妖魔にとってはそういう誘いは受けるのが当たり前で、もし受けなければ成らず者だって言われるほど‘主人’が絶対の世界だから、俺は特に何も考えずにその契約を結んだ。
 忠永達に絶対服従し、忠永達の出世の妨げや不利益になる者は全て狩りつくすこと。その際、足がつかないように証拠になる物は絶対に残さないこと。時機を見て、なるべく狩りの対象者が他で揉め事を起こした時に、あくまでも自然な形で首を取ること。――それが俺に課せられた、契約内容だった。
 忠永が上の地位にのし上がる程、その取り巻きの家の奴らからも殺しの依頼が入った。忠永が俺を使えって取り巻きに言いふらしてたから、水野家と賄賂関係で友好的な家も俺に狩りの命令をしやすかったんだろうな。で、忠永を殺る直前の奴からの依頼が、‘白狼、黒虎を全員狩ること’。詳しい事は聞かなかったが……小さな力も纏まれば大きくなって脅威になる事を忠永は知ってた。お前らの民からの信用は誰の目から見ても篤い。いつか自分の汚点が地に着いたとき、お前らを中心とした民達の反乱が起こる事でも危惧してたんじゃねぇ?
 ま、命令だからな……俺は、これから白狼・黒虎を狩る。それにしてもよく俺が人じゃないって判ったな」
 久都という妖魔の語り手が、さらりと話を振ってきた。徹平が押し殺したような声で答える。
「貴女が俺達と一緒に検死に当たった時、西日の光が強くて皆の足もとから長い影が出来てた。……なのに貴女には影が一切無かった。それから水野様を斬った後……殆ど人に姿を見られずに逃走できるような俊足を持っているのは、久都さん、貴女ぐらいですよね。……もう一つ、答えて下さい。貴女、本当は腰くらいまでの長髪だったりするんじゃないですか?」
 久都はそれには答えず、緩い笑いを浮かべて、銀細工の髪飾りを解いた。と、その瞬間、たおやかな漆黒の長髪が朔風と共に流れる。今の久都を見て男だと言う者は、誰一人としていないだろう。彼女が解き放った髪飾りは、哀歌を唄いながら白銀の野に吸い込まれた。それまで唇を噛み締めてやり取りを黙視していた鈴音が、抱えきれなくなった気持ちを爆発させた。
「何で……何でそんな事するんですか!?おかしいよ……フェイも、久都さんも!どうしてそうやって私達と相容れない存在になっちゃうんですか!? せっかく女のお侍さんと知り合えて仲良くなれたと思ってたのに!これから先も助け合っていけると思ってたのに!」
「……しょうがねぇだろ!俺だって殺しなんざしたくねぇよ!断末魔の叫びなんか聞きたくねぇ、返り血なんか浴びたくねぇ、無残な死体なんか見たくねぇ!――だけど俺は、妖魔の、殺戮種だから……人の骸の上を踏みしめなくちゃ存在する事を許されねぇから……っ、だから、狩るしかねぇんだよ!!!」
 久都が彼らの前で初めて、声を荒げた。それに合わせるようにして、以前鈴音が感じた、大気がびりびりと痺れるような感覚が隊士達に伝わっていく。
 その叫びは、何千何万と人を狩り続けている妖魔の殺戮種から発せられたものではなく、無力なひとりの人間の心の声でしかないように思えた。
 辺りはまた静まりかえり、風の吹き荒ぶ音しか聞こえない。乱れた息を整えた久都は、自嘲的な笑いを弱々しく浮かべて言葉を紡いだ。
「ついでに言うとな、……俺、久都じゃねぇんだ」
「……どういう事なのか、解りかねるね。君は自分で『俺は久都だ』と言っていたはずだけど」
「まぁ、確かに俺は久都ではあるんだけどな……それは役職の名なんだ。家茂が‘江戸幕府将軍’であるように、忠永が‘側用人’であったように、お前らが‘白狼隊・黒虎隊隊士’であるように。――俺は‘久都’なんだ。要するに俺は、ちゃんとした名前なんて、持ってない」
 舘羽の返し語に淡々と答えた‘久都’という者の台詞の意味が解らずに、隊士達は茫然と立ち尽くす。突然崖から背を突かれて落とされたような、救いようの無い気持ちが彼らの全てを満たしていく。
「水野家に限らず、徳川幕府の中でやましい事やって出世していく家には必ず俺みたいな妖魔が仕えてて、事を巧く運んでたって話だ。そうでもしなきゃすぐに足が着いて捕らえられちまうからな。で、その歴代の妖魔達に与えられた称号が、‘久都’。確か俺は三十七代目だったかな。俺より前の三十六人の‘久都’も皆暗躍して、そして棄てられていったんだ。仕えた妖魔は主人達にとっての‘久しい都’を創る手助けをすること……つまり主人達の世界の治安を維持することが絶対の契約内容とさせられてるから‘久都’なんて仰々しい役名を授かったけど……実際にやってることは何のことは無い。人殺しだ」
 裏で手を引き合った者達は、自分達の地位や金を確立するためだからこそ、主人に仕え命令を忠実に守ることを生業としている人ならざる者――妖魔を選んだのだろう。彼らに名前すら与えず、ただ邪魔者を排除させるためだけに仕えさせ、使えなくなったら棄てて、また次の適合者を探す。そんな傲慢で身勝手な扱いをしても、妖魔だから、人間ではないから、許されると言うのだろうか。やり場の無い煮え滾る怒りが隊士達の全身を駆け巡った。あまりにも酷なその仕打ちに、そしてその事実を突きつけられて尚、妖魔である久都とは刀を交える他に選択肢が残されていない、自分達の運命の廻りに。
「始めようぜ、命の灯火の剥奪遊戯を。……ちょっとは楽しませてくれよ?」
 先程とは打って変わったような久都の軽やかな声が鼓膜に突き刺さる。久都が刀の柄に手をかけた瞬間、――何尺もあった彼女と彼らの距離は、彼女の俊足によって一瞬の内に縮められた。突風のように彼らの間を駆けた久都が放った太刀は、弾かれるように彼女を避けた惣助の着物に当たり、裾を削ぎ落とした。惣助が声を詰まらせて久都を見ると、彼女の瞳の中にはすでにどす黒い‘殺戮種’としての本能が疼めき、蠢いているようだった。
 白狼隊、黒虎隊共々も刀を鞘から抜き、静かに構えを取る。最後まで渋っていた鈴音も、実時に促され刀を引き抜いた。久都はどんな物よりも月の光を一際受ける自身の刀・虚依の柄を握りなおして、高らかに声を銀の野に響かせる。
「妖魔‘殺戮種’が一人、三十七代目‘久都’……いざ、参る!」
 ああ哀しいかな、此処で刀を振るう者の中で誰が、こんなに惨い終演を望んだのだろうか。



 女は十一の者から次々と繰り出される剣の舞をいとも容易くかわし続けた。一対十一……人数では絶対に引けを取らないはずなのだが、女の方が明らかに彼らよりも余裕を持て余している。このままでは埒が明かないと踏んだ実時は、一旦隊士達を引き上げ、集結させた。
「このまま戦えば体力を削られて勝機は薄くなる。奴は関ヶ原をも生き抜いた武者だ、大勢の敵をばらばらに相手取る戦いには滅法強い。ならばこちらはこちらの戦い方がある。……全員で一気に攻め落とすぞ」
「そう簡単に言うけど……実時兄ぃ、何かいい案あるの?久都、強いよ……?」
 息を切らしながら尋ねる由紀彦に、実時はしっかりと頷き、作戦を全員に伝える。それを聴いた隊士達は決然とした面持ちで久都に向き直った。
「どうだ?俺を楽しませてくれるような遊び、出来上がったか?」
「ああ、きっと楽しんでもらえると思うぜ……心配すんなよ、すぐに決着(ケリ)着けてやるからな!」
 不敵な笑みを含んだ久都の挑発に一が言葉を切り返すや否や、第一波である廉次郎、惣助、舘羽、紫苑が久都の四方を囲んで斬りかかった。
 久都が四人を一薙ぎに払おうと刀を振った瞬間、その太刀を四人の刀が抑え込む。刀のぶつかり合いが、激しさを増して生々しい音を立てる。
 大人達の間に潜り込んだ由紀彦が足元を掬ったせいで彼女が少しぐらつくと、第二波の実時、美景、正親、徹平が重ねて刀を振り下ろす。その刀筋を見切って避けたものの身のやり場がなくなった久都は、自身の持つ跳躍力で高く飛び上がり、彼らから離れた場所に着地した。そして久都が体勢を立て直したその時――一の背中と力を踏み台として先程の久都よりも高く舞い上がった鈴音は、その薙ぎ落とした太刀で鋭く、深く、久都を貫いた。



 風が、冷たい。地に降り積もった白雪が吹かれて、次々に果ての無い地平線の向こうへと旅立っていく。痛いほどの静けさを抱えて、十一人の侍達は誰一人として何も語ろうとはせずに、仰向けに横たわり次第に輪郭が薄くなっていく女を見遣っていた。
「は……っ、してやられたぜ……。斬りかかってきた八人と茶髪のおチビちゃんは完全な囮役だった、って訳か……成程な。……楽しかった。この遊戯、お前らの勝ちだ。……どうしたんだよ、揃いも揃って浮かねぇ顔して。首狩人を倒せて念願が叶ったんじゃねぇのか……?」
 途切れ途切れに言葉を搾り出す久都に向かって、正親が拳を握り締め、声を震わせながら尋ねる。
「何が『楽しかった』よ……だったら何故、アタシ達を斬ろうとしなかったのよ!久都ちゃん、貴女本当は最初から戦り合う気なんて無かったんでしょ? どうして?……アタシ達を狩れ、って命令だったんじゃないの……?」
「正親の言う通りだ。……第一何で水野様を手にかける必要があったんだ?お前の御主人だったんじゃねぇのか?」
 久都は惣助の質問には答えず、ゆっくりと透け始めた自身の手を上へとかざした。ぼんやりと霞がかったような彼女の手越しに、紺碧の大空が透けて見える。大きい深呼吸を一つすると、久都は長い長い、昔語りを始める。それはどこか許しを請うような、懺悔の旋律のようであった。
「……鈴音さ、何時だったか、俺に聞いたな。『友達や大切な人と対峙することになったら貴女はどうするんですか』、って」
「……はい。確かその直後に首切り死体が見つかって、答えは聞けずじまいでしたよね」
「あぁ……、そんな事もあったっけ。……で、その質問の答えだけど。――……殺したよ。何の、躊躇いも無く」
 あれだけざわめいていた木枯らしの喧騒さえ、今は誰の耳にも届かない。
「平安が終焉の声を聞き始めた頃……俺は京都で人に仕えて、そいつの指示を受けて人斬りをしてた。その当時はただ、人間に仕えて忠実に、的確に任務を遂行する事が俺の存在証明になると盲信してた。人間を狩ることに何の疑問も浮かばなかった。……昨日は普通の知り合いだった奴が今日は狩りの対象者、なんて然程珍しくもなかったしな……。京全体も荒廃してたし、今考えるとかなり殺伐としてた時代だった。
 何十、何百と人斬りをしてたら案の定、治安維持の役人である検非違使達が俺を手配して、捕らえようと動き始めた。俺もそう簡単に捕まる訳にゃいかねぇからあの手この手で逃げ回ってたんだけど、その検非違使の中に良い腕を持ってる若者がいて、そいつとは戦う破目になったんだ。……お互い一歩も譲らなくて、引き分けたよ。それからというもの、何故だかは知らねぇがそいつと俺は度々関わるようになった。お互いの暇な時を見つけては手合いをしたり、他愛のない話に花を咲かせたり、時には立場なんて関係なく励ましあったりした。変な取り合わせだと思うだろ?片方は殺戮を繰り返す不老長寿な妖魔、もう片方は治安維持を任された検非違使の人間。…………それでも、あいつと俺はそういうこと全てをひっ包めて、友達だったから。
 誰が何と言おうと切れない絆が、俺達の間にはあった。……ある時、俺の当時の主人があいつを狩れ、って命令してきた。それを聞いた時は正直無理だ、できないって思ったよ。唯一無二の大切な人なのに、どうして殺さなくちゃいけないのかと何日も何日も悩んだ。主人と友達、どちらを優先するべきなのか、迷った。だけど俺は結局……いつもの場所でいつものように微笑ってたあいつに、いつものように手を振りながらいつものように小走りで近寄って、――それから、いつもとは違って、あいつの首を刎ねた。
 刎ねてしまった瞬間、自分はやっぱり殺戮種なんだと悟ったよ。その時まであいつを殺そうだなんてことは微塵も考えてなかったのにあいつの姿を認識した途端に理性が吹っ飛んで、あいつの首を激しく渇望する俺は……人と親しくする事はできても、決して相容れられない生き物なんだと。……それからは何もかもが色褪せて崩れていった。俺がこの世に存在して人に仕える意味も、自分の中の世界も、無駄に永い妖魔の寿命も……。人の一生なんて俺らから見れば花火みたいなもんだ。なのに人間は短い一生の中で、妖魔の殺戮種を利用してまで金や地位を手に入れたいと、戦に勝ちたいと奔走し続ける。それが俺にはどうしても理解できなかったし……そんな卑劣な下衆野郎が俺を束縛してるってのも尚更気に入らなかった。だから、忠永を狩った。
 別に大したことじゃない……人は、いずれ死ぬんだ。俺はちょっと奴の寿命を早めてやっただけのことさ……」

『自分の存在意義を見失った時。自分にとってこの世界が何なのか惑った時。……哲学から答えを導き出せるかもしれないだろ?』

『半永久的に、現世の何処かに、ずっと存在することができる。こう考えてみて、コイツの存在の仕方は不幸せだと思うか?』

『やっぱりお前も、長寿に魅力を感じるか……』

 久都の話を聴きながら、鈴音は以前彼女が言った言葉を思い出していた。彼女は決して考えることが好きな物好き、ではなかったのだ。
 自身の最も大切な人を本能的に殺してしまってから、存在意義を見失い、理不尽な世界の在り方に惑い、半永久的に燃え続ける自分の命の灯火を疎み、孤独に耐え、哲学に耽り、そして自分を利用し続ける狡猾な主人から解放されるために主人を殺めた、ただ純粋で残酷な心の持ち主だっただけなのだ。手足はすでに大気と一体化し、漆黒の瞳は次第に虚ろな影を落とし始めていたが、久都はその良く通る声色の鈴を鳴らした。
「……俺がお前らに接触したのは……確かに最初は忠永からの命を受けたから、だったんだが……一番の大きな理由はお前らに興味を持ったからだ。町の者に聞いて調べてみりゃ、皆口を揃えて白狼と黒虎の強さを讃えてるし……さらに白狼隊の中には‘破邪の血族’の御曹子までもが隊士として入ってて、あの獰猛な九尾の妖狐を抑え込んだって話じゃねぇか。だから俺は自分の意思でお前らと関わろうと決めたんだ。どうせ手にかかるんなら、やっぱり自分が尊敬できる奴らに消してもらいたいと思ったから……」
 ――ああ、貴女はどこまで哀しい生き物なのだろう。
 ごとり、と大きく重たい閂が抜けて。ぎしり、と闇と血に縁取られた彼女を護る門が開かれて。そして、いつもへらへらして掴み所のない彼女の奥深くに、ようやく足を踏み入れることができた。けれどそこに横たわっていたのは、息が出来なくなる程に切なくて、身を抱え込む程に寂しい、彼女の孤独な生き様と死に様の形だけ。
「何だよそれ!じゃあ久都は信頼してたからじゃなくて、殺されたかったからに俺達に近づいたって事!? ……俺らにいっぱい日本中の国の話、聞かせてくれたじゃん!稽古も見てくれたじゃん!蕎麦の大食い対決だってしたじゃん! 何で、死にたいとか思うんだよ……何で、殺してほしいなんて言うんだよ……!」
「……おいおい、それが白狼隊隊士サマの言う台詞かよ、由紀彦。お前達を騙し続けてきたことは本当にすまないと、思ってる。だけど、これでいいんだ。俺はもう充分すぎる程にこの世界を堪能したし……何より妖魔にとって‘絶対’である主人の首を狩るという禁忌を犯したんだから。…………美景、鈴音。こっち、来てくれるか……?」
 久都に呼びかけられた二人はお互いの顔を見合わせ、隊長である実時や仲間達の方を仰いだ。実時は無言で首を縦に振る。ゆっくりと歩み寄り、彼女の傍に膝をついた二人を確認して、久都は最期の願いを託す。
「何分、丈夫な身体なんでな……さっきの斬りじゃ死まで達さねぇんだ。だから鈴音、もう一回俺を斬れ。そうすれば一時的に俺の生命力が低下するから、そしたら美景……お前の‘破邪の力’を使って俺をこの世から消し去ってくれ。――躊躇うなよ。俺は殺戮種の妖魔なんだ……ここで生かせば、これからまた首無し死体が増えるだけだぞ」
 刀の柄に手をかけた鈴音の瞳に力が篭る。不思議なことに、瞳から涙がこぼれてくるような兆候は一切無かった。それはきっと心のどこかで解っていたからであろう。……泣いても、喚いても、この悪夢のような現実は絶対に変わらないという事を。彼女が細身の刀を自分の上へと滑らせるのを、久都は穏やかな顔つきで黙視していた。そしてその端正な形の唇を動かす。短き時を輝かせる者達に、永き時を終えて逝く者の囁きを、閑かに、ゆったりと、刻み込むために。
「……近いうちに、お前らと例の陰陽師一味との決着をつける時が来るだろう。何故そいつ等が不穏な動きをしてるのかは俺の知ったこっちゃねぇが、少なくとも、その行動の裏には必ず一つの動機が在るんだ。……俺がお前達に殺されることを願って、こんな行動を起こしたのと同じように。
 だからそいつ等の動機を見抜ければ、互いにとってより良い結末を築けるだろうよ。……ま、皆こんなこと位、重々解ってるとは思うがな。鈴音。お前はこのまま行けば友と対峙する事になる……この中の誰よりも辛い思いをするだろうし、どうしたら良いのか判らないかもしれない。それは当たり前で、ごく自然な感情だ。だからお前の気の済むまで悩み抜け。足掻け。奴らの事を諦めるな。……そうやって創造られた決意はお前にとって大きな力となるし、何より自分が絶対後悔しねぇから。
 ……それと。今まで散々人の命を奪ってきた俺が言える台詞じゃねぇんだが……――お前は何があっても友を、……大切な人を殺すことだけは、してくれるなよ。……絶対に、な」
 鈴音は久都の言葉を噛み締め、深く頷いた。その横で美景が少し声を落とし、俯いて語りかける。
「久都殿……貴女が妖しであり町の人々を脅かす者だと知った以上、僕達は手加減しません。貴女の命の灯火は此処で消し去ります。……でも、」
 そこで美景は久都と目をしっかりと合わせ、そして真っ直ぐな微笑みを彼女に捧げた。
「僕達みんな、久都殿のこと仲間だと思ってますから。貴女は決して孤独じゃない、……独りじゃないです。それから。……さっき貴女は『人の一生は花火のように短い』と仰いました。けど、短いからこそ、僕達人間はその限り有る時間を精一杯、悔いのないように生きようとするんですよ。確かに人間は妖魔と比べれば寿命も身体能力も劣りますし、特殊技能なんて物も持っていないですけど……与えられた命を懸命に全うする事に関しては、きっと妖魔に引けを取りませんから」
 大きく花開いてもすぐに散ってしまう、花火。宝石とも見える瞬きを放ってもあっと言う間に消えてしまう、氷。どんなに現世で価値有る物を手に入れても露ほどの時間しか生きられない、人間。皆、どうしようもなく儚いけれど決して惨めではない。否、寧ろ……どうしようもなく美しい。だから自分は人間のあいつを友として慕い、人間である彼らに自身の最期を任せることにしたのだ。何故なら彼らは不老長寿の自分には無い、鮮烈で何よりも強い力――命の限り走り続ける力を、その身に宿しているのだから。
「そう、だな……お前ら人間は、強いよ。願わくば、俺も……人間としてこの世に生を受けたかった……。実時、廉次郎、惣助、舘羽、一、紫苑、正親、徹平、由紀彦、……そして、美景、鈴音。俺の最初で最後の願い、叶えてくれてありがとう。俺、自分は不幸な種族だって思ってきたけど、でも……妖魔だったから、あいつに会えたし、お前達に会えた。だから今は、この廻り合わせに感謝してる。俺はきっと妖魔一の、幸せ者だ」
 白き大地によく映える漆黒の長髪が、風と共に踊っている。久都は口元に穏やかな微笑を揺蕩えて、瞼を静かに下ろした。――それは、存在を消される覚悟が出来たことの、合図。鈴音は安らかな面持ちでその瞬間を待つ彼女の上に佇ませた刀を、勢いをつけて振り下ろす。その太刀は、彼女の心の臓が在ると思われる場所に鈍い音を立てて突き刺さった。その途端、彼女を構成していたものが泡となり、刺された心の臓から止め処なく溢れ出して空と溶け合っていく。久都は閉じていた目をうっすらと開け、消え入りそうな声でひとつ、呟いた。
「………………これで俺は、人を殺さなくても、いいんだな……。…………雅義…………待たせたな、俺も今すぐそっちに、行くか、ら…………」
 久都の瞳は此処に在って、此処に無い不思議な輝きを放っていた。この呟きもおそらくは、此処にはいない者に向かって発せられているのだろう。彼女が決して望まなかった方法で生命の終止符を叩きつけてしまった、平安の守手――検非違使の、青年に。
 美景は湧き上がる気持ちを抑え込もうと両目をきつく瞑り、そしてそのまま、自身が持つ光の力を最大限まで解き放つ。春のような暖かい光と空気が、救いの手を差し伸べるように久都を取り巻いて、そして、消えた。
 久都が先程まで横たわっていた場所には、一つの塵さえ見当たらなかった。まるで、最初からその存在が無かったかのように。もう夜も更けていたが、隊士達は何故だか動くことが出来なかった。彼らに吹きつけてくる大気の流れも、どことなく痛々しい。
「お互いこんな立場でなければ……こんな結末を迎えなくても良かったのかもしれないな……」
「……そうだな。いくらあいつ自身が望んだこととは言え……本当にこれで良かったのかどうか、なんて誰にも判りゃしねえよ」
「けど、少なくとも、彼女はこれに満足しているだろう……でなければ、あんなに迷いの無い穏やかな顔なんて出来ないだろうから。……私達にとっては、辛いけどね」
 それまでずっと沈黙を守り、隊士達の詞に耳を傾けていた実時は思い立ったように歩き出し、とある所――久都が散った場所で立ち止まった。さっきまで自分達と死闘を繰り広げていた彼女は、もうこの世のどこを探しても見つけることは出来ない。何故なら我らが、消してしまったから。多くの民を守るために、久都というひとつの命を、消し去った。
 単純に命の重さだけを考えればそれは仕方が無かった事だ、と人は言うだろう。しかし我らは、この世に煌めく灯火を消したという咎を背負うことから逃げてはならない。……それがたとえ、民の安全を守るためであっても。消したものが人間に仇なす、人ならざるものの灯火であっても。深く瞑想していた実時は、深呼吸を一つして、隊士達の方を向いた。
「皆、誓おう。ひとりの猛き武者の生きた証は、確かに此処に‘存在’している、と」
 その言葉を受けて、十一人の武士(モノノフ)達は皆瞳を伏せてそれぞれに想いを馳せる。今は亡き、人よりも人間らしい心を持った、名も無い最強の妖魔に。
 哀悼のような、決意のような十一の誓いは、止むことなく旅の道程を駆け抜けていく風に乗せられて、終わりの無い世界へと運ばれていった。



 この時期の暁はこれでもかという位長く、芯から冷え切るような寒気が生き物達の身を縮こまらせる。足元が氷の畳なら尚更だ。しかし少女は一晩、其処に居た。同胞達は心配そうに少女を見遣りながら町へと帰り、最後まで付き添ってくれていた少女の姉も、
「なるべく早く戻って来い」
 と自らの羽織を少女に掛けながらそう一声を残し、雪野原を去った。それでも少女は、其処を動こうとしなかった。太陽が低く低く、昇ってくるのが見える。その光は葉という衣を失った枯れ木の間を縫って、少女の所までその指を長く伸ばした。生き物の気配が少しも感じられないような澄んだ空気は、少女の小さな声を受けて微かに震えた。
「……久都さん。斬ってしまって、ごめんなさい。私、妖魔は消したかったけど、久都さんは消したくなかったです。久都さんは私に、『友達や大切な人は絶対に殺すな』って遺してくれましたけど……その約束、もう破っちゃいましたね。――だって、久都さんも私の大切な、お友達ですから。
 貴女は優しいから、止めを刺した私の事もきっと赦してくれる。でも私は私を赦すことなんて、できません。赦してほしいとも思いません。私……久都さんと関わって、色々変わったと思います。それが良い方向になのか、悪い方向になのかは全然判らないですけど……。でもまだ、変わらない気持ちも沢山有ります。フェイの事も……今はまだ私はどうしたら良いのか、見当さえ付けられないんです。――それでも良い、と。悩め、足掻け、彼らを諦めるなと、貴女は言ってくれたから。だから私、もう少し迷路の中で彷徨ってみますね。
 お姉様や白狼隊、黒虎隊の皆にはまた当分の間、心配かけちゃうのは嫌ですけど……焦ってフェイの中の真実を履き違えちゃったりなんかしたら、後ですごく後悔する……それはもっと、嫌ですから。久都さん。貴女は『そんなの気にすんな』って軽く笑って受け流しちゃいそうですけど、私は貴女を斬った罪を一生抱えて生きていきますね。此処でこの罪を放り出しちゃったら、きっとフェイの事だって上手く行くはずないです。
 だから、見てて下さい。久都さんみたいな、凛々しくて強い女武者になれるように、これから先何があっても挫けないで頑張りますから。……フェイ達の件が全て片付いたら、報告しにまた此処に来ます。それまでは蕎麦屋巡りとかしててもいいですけど、その時になったらちゃんと此処に戻ってきて、また私の話、聴いて下さい。必ず自分にとって納得がいくような結果を、持ってきます。
 あ、今度お会いする時は、久都さんにちゃんとした名前、付けてあげますね。それまでに私が久都さんにぴったりな名前、考えておきますから。…………それじゃあ、また。――私も貴女と出会えて本当に、本当に良かったです…………」
 少女はそれだけ言うと、身を翻してその場所から立ち去ろうとした。と、その時、何者かに呼ばれたような気がして、ふと振り返る。
 当然の如く、其処には誰も居なかった。が、ついさっきまで少女が座り込んでいた所のすぐ近くに、何かが昇り始めた朝日の光を受けて光っている。
 少女は雪の絨毯の下に出来上がった霜柱ごと、さくさくと踏みしめて其処まで辿り着いた。そして‘それ’を摘んで拾い上げる。
 朝日に共鳴して輝き、穏やかな風の調べに乗って耳に心地良い旋律を奏でる‘それ’は、久都が肌身離さずつけていた、白銀の髪飾りであった。
 彼女はふわりと口元を綻ばせて、その髪飾りを両手でしっかりと包み込んで暖めながら、彼女が守るべき町、江戸へと駆け足で戻っていった。
 この一連の事件を通して自分がほんの少し……けれど確実に成長した事を、少女――山形鈴音は、まだ知らない。 この日からひと月余り経った如月。
 彼女と孤高の陰陽師は、再び合間見える事となる。


- 作者様より -
 Physical Room C.S.K様、2周年おめでとう御座います。
 読んで下されば一発でお分かり頂けるのですが、この物語は
「白狼恋歌」
の 第八話と第九話の間に起こった、という設定です。
 まだ恋歌をプレイされていない方が万一この物語をご覧になっていましたら、 即座に恋歌のプレイを始められることをお勧め致します(笑)。
 オリジナル要素が強いですが、少しでも皆様の心に響くよう、誠心誠意を尽くして 書き切りました。

 何分初めての小説なので粗が目立つ上に、長いですが・・・ もし、こんなヘボ作者に物申す、という寛大な心の方がいらっしゃいましたら、 どうぞ感想をお願い致します!


○周年記念企画

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