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三日間の女難 (作:香乃)


【一日目 まずは不吉が訪れる】
「中川様、お手紙が届いておりますよ」
 と、旅館の仲居から手渡される。年の頃は四十ほどで、古くからこの旅館で働いているらしい。
「ああ、ありがとう。…やっぱり玄関前に?」
「ええ…今日もです。色男は大変ですわね」
 仲居はそう言ってほほほ、と笑う。この年頃の女性特有の(悪く言えばおばさんじみた)笑い方である。
「困ったものだね…まったく」
 舘羽もいつもの調子で返す。仲居は「ではこれで」と去っていった。
 中川様へ、と書かれた封筒を裏返す。差出人の名前は書かれていない。



「中川様、どうして私ではダメなのですか!」
「すまないけど、君の気持ちには応えられないんだ」
 …いつか聞いた覚えのある会話が聞こえてきた。
「どうして!どうしてなんですか?」
「君が私を諦められないのと同じだよ…。私にも好きな人がいるんだ」
 白々しい、と思った。いや、二回目だから思うのであって、最初に聞いた時は私だって真に受けたけど。しかし、タネを知って改めて聞くと、本当に白々しい。
「そ、そんな!本当なんですか!?」
 とは言え相手の少女はそんなことは露ほども知らない。驚きを隠せずにその衝撃を表情に、身振りに、全身で表していた。
 この娘も大げさな反応をする娘だなと思う。もちろんこの娘は演技などではなく本心だろうけど。先程の白々しい台詞といい、この娘の反応の大きさといい、下手な三文芝居を見ている気分になってきた…。
「嘘ではないよ…さ、出ておいで」
 そして現れたのは、この上ないほどの可憐で美しい少女。
 ――――本当に、男にしておくのはもったいない。
「は、初めまして…」
 新たに出てきた彼女は、おどおどと向かい合った少女に挨拶をする。
「わかっただろう?私は今この娘のことしか見えないんだよ…自分でも自分がわからないくらいに、ね」
 白々しい。心底白々しい。紹介された美少女もキッと彼を睨みつける。
 ところが相手の少女はそれも目に入らなかったらしい。恋は盲目という奴か。泣きながら逃げるように走り去って行った。
 思わず嘆息してしまう。去って行った少女を憐れんでだろうか、この町一番の女の敵に困り果ててだろうか、それともその事後処理に巻き込まれて女装させられる彼に同情してだろうか、あるいは――――再びこの場に居合わせてしまった自分の不運に、だろうか。
「で、いつまで隠れているんだい?」
 先程までの白々しい演技をやめて、舘羽さんが声をかけてきた。仕方なしに姿を現した。前回もそうだったし、今回も多分気づいているのだろうと思っていたので、さして驚きもしない。ところが舘羽さんはこちらを見ておや、と目を丸くしていた。素直に出てくると思わなかったのだろうか。
「なっ、鈴音殿、また見てたんですか!?」
 可憐な彼女…いや、彼と言った方がいいだろうか?とにかく美景さんはみるみる赤くなって、もう二度とこんなのしませんから!と叫んで逃げるように走り去っていった。ごめんなさい美景さん、その姿も心底可愛いです。
「前にも“二度としない”って言ってたけどねぇ…」
「もうやめてあげてくださいよ!普通に断ればいいじゃないですか」
 舘羽さんはまったく反省の色が見られない。それではいくらなんでも美景さんが気の毒すぎる。
 しかし、舘羽さんはどこ吹く風だ。相も変わらぬ調子で返した。
「なかなか諦めてくれない子も結構いるんだよ。
 それに、可愛いからたまに見たくなるじゃないか。…君も盗み見したくなるくらいだし」
「確かに可愛いですけど…ってそうじゃなくて!舘羽さんを探してたらたまたま居合わせてしまったんです!今日は一緒に巡回の日じゃないですか」
「おや、そうだったのかい?」
 当番で決められていたのに。…まったく、困った人だ。
「そうですよ!私だって毎回居合わせたくありません!」
 勢いこんで返す私に、舘羽さんはあっさりと言った。
「別に毎回君に見られている訳じゃないさ。先月は見ていないだろう?」
「…一体、今日で何回目だったんですか…?」
 …本当に、困った人だ。



「今回は美景さんのこと、追いかけなくて良かったんですか」
 神社のあたりを歩きながら舘羽さんに聞く。前回見た時は、本気で嫌われたらたまらないからと追いかけて行ったはずだ。『美咲ちゃん』の話は人に聞かれたらまずいのだけど、祭でも正月でもない神社は閑散としていて、聞いているような人もいない。
「大丈夫だよ。何だかんだ言いながら、美景殿も毎回やってくれるし。
 そこまで嫌がっていないのかもしれないね」
 そうですか?と首をかしげるところである。これだけされても美景さんに嫌われないのが不思議でならない。同期ってそういうものなんだろうか?…いや、単に美景さんがいい人なのと、舘羽さんのあしらいがうまいだけか。
「それより、この辺りはあまり巡回はいらないんじゃないのかい?
 式神が出るのも、宝玉が盗まれるのも、町の方だろう?」
 それは確かにその通りだ。神聖な空気が苦手なのだろうか、式神もお寺や神社の方はあまり出てこない。先のお寺の宝物展の事件の時くらいではないだろうか。
「そっちは由紀彦くんと惣助さんが先に行ってくれてますよ。もちろん私たちも後から行きますけど」
「それならいいか。どうやら聞いた話だと、今までと少し違う手口でかんざしが盗まれたりもしてるみたいだからね。…大方どさくさに紛れた人間の仕業だろうけど」
 …どこの誰から「聞いた話」なのかは聞かないでおこう。舘羽さんの情報源は色々と問題があるからだ。多分聞いたらまた頭が痛くなる。
「あの」
 と、そこで後ろから声がかかった。振り返ってみるとこの神社のお巫女さんだった。あまり話したことはないけれども、初詣やらで神社に来る時には必ず見かけるので覚えている。確か名前は…麗さんと言っただろうか。
「ああ、こんにちは。久しぶりだね麗殿」
「お久しぶりです。お二人とも、巡回お疲れ様です。…あの、中川様」
 どうしたのだろう?声をかけてきた彼女は、どこか不安げな面持ちでひどく言いづらそうにしている。
「どうしたんだい?…何か深刻そうだけれども」
「あ、いえ…そこまで深刻なことかは分からないのですけれども…中川様に、不吉な影が見えるのです」
「不吉な影?」私は思わず聞き返す。麗さんは頷いて、ひどく神妙な顔をして答えた。
「はい。その、何と言いますか…『女難の相』が見えるんです」



「まったく、とんだ『女難』だったね」
 大通りを歩きながら舘羽さんが言う。
「わ、悪気はなかったんですってば!」
 あの後。麗さんと別れて神社の境内の階段を降りようとしたところで、近くの木からかアレが落ちてきた。そう、アレだ。いや、遠回しに言ったってわかる訳がないか。つまりはそう―――毛虫だ。
 私は肩に落ちてきた毛虫に思いきり叫んでその場から飛びのいて、その勢いで舘羽さんを境内の階段から突き落とし――――そうになったのだが、そこはさすが舘羽さんで、どうにか踏みとどまって私まで受け止めた。
 本当に、危うかった。今思い出しても冷や汗が出る。
「まさか本当に『女難の相』なんですかね…」
 麗さんを疑っているわけではないが、突然会って女難の相が出ていると言われてもにわかには信じがたい。お巫女さんというのは占いの力まで持っているのだろうか。
「さあ?これだけでは何とも言えないね。もしかしたら私の女難じゃなくて、君に『虫難』が出ているのかもしれないし」
「ちょっと、やめてくださいよ!!」
 縁起でもない!そんなものが出ているのなら一日中屋敷にこもっていたい…でもそうするとゴキブリが出るのだろうか?うぅ…、それもちょっと…。
「ふふ…冗談だよ。さて、突き飛ばされて怪我でもしないうちに薬屋に寄っていきたいんだけども、いいかな?」
「もう!さっきからからかわないで下さいよ!」
「いや、ちょうど傷薬が無くなってきてね。そろそろまた買っておきたいんだよ」
「それぐらい構いませんよ。大した手間でもありませんし」
「断られなくてよかったよ。それじゃあ、行こうか」
 そう言って舘羽さんは薬屋の方へと足を向ける。
 それにしても今日はからかわれっぱなしだ。まったく、…何でこの人が女の子に人気なんだろう?



 昼下がりの薬屋の引き戸がガラガラと音をたてて開けられた。
「ちょっとお邪魔するよ」
 入ってきた途端に殺風景で地味な薬屋が一気に様相を変えたように感じる。着物の鮮やかな若草色、眼の蒼色、そして何よりも目につくのは長い髪の金色。それらの色彩が同時に目に飛び込んでくる。本当に、こことは違う世界の住人が入ってきたようだ。早くも自分の頬が紅潮していくのがわかった。
「あ、中川様…いらっしゃいませ。その…何かご入り用ですか?」
 ああ、久々に来てくれたんだから「最近どうされてましたか」とか、せめて「こんにちは」くらい言えないものか。これでは早く用を済ませろと言っているようではないか。口に出してしまってからうだうだと後悔する。
 そんな私には構わず中川様が答える。それはそうだ、こんな小娘の様子など細かく気にしている訳がないではないか。何をうだうだ考えていたのだ、と余計に落ち込む。
「薬を切らしてしまってね。まとめて買おうと思うのだけど…明日来るから用意してもらってもいいかな?」
 この方はいつも薬をまとめて買っていかれる。その都度こうして前日に頼みに来るのだ。こちらとしても足りるように用意しておけるので助かる。…それに、一度でも会う回数が増えるわけだし。本当を言うと、まとめてではなくてまめに買いに来てほしいなぁと思うのだけれども。しかしそんなことを言えるような間柄にはない。
「はい…では明日、用意しておきます」
「断られなくて良かったよ。ではよろしく頼むよ」
 そう言って中川様は踵を返す。せめてあともう少し…!
「あ、あの…」
「…何だい?」
 中川様が足を止めて振り返る。
 何か、気の利いたことを…、いや何でもいいからもう少し話を…
「あの…明日は、お待ちしております」
「ふふ…頼んでおいてすっぽかしたりしないよ。それでは、また明日」
 中川様は軽く口元に手をあてて笑って去っていった。ガラガラ、という引き戸の音が何とも名残惜しく感じる。
「…はぁ」
 脱力してへたへたとその場に座り込んだ。さっき「明日用意しておく」と言ったばかりだったじゃないか。それに加えて同じようなことを繰り返してどうする。大体そこからさらに会話が発展するわけがない。まったく何を言っているのやら。
 でも、明日。明日もう一度来てくださる。
 それを楽しみにして、今日も薬屋稼業に勤しもう。
 …明日はもっと落ち着いて話せたら。




 (幕間・壱 ~鈴音の考察~)
 薬屋に寄っていく、という舘羽さんを薬屋の外で待っていた。一緒にいるところを見られて、余計な恨みを買いたくはない。
 今頃中では千鶴さんが顔をうっすら赤らめながら応対しているのだろうか。頬を朱に染めて、しどろもどろになりながら話す千鶴さんが目に浮かんだ。
 舘羽さんが女の子達に人気なのはわかるけど、何で千鶴さんまで、とよく思う。千鶴さん、顔とか見た目の綺麗さに惹かれるようには見えないんだけどなぁ…。
 あ、いや、別に舘羽さんが見た目だけの人とかそういうことではなくて!確かに女の敵だけれども!…誰に弁解してるんだろう、私。
 とにもかくにも、舘羽さんが女の子に追いかけられるのは見た目の綺麗さが主たる理由(と私は思う)だろうけれども、千鶴さんが同じように外見で好きになるようには思えないのだ。
「よくわからないなぁ…」
 薬屋の戸口の脇にもたれかかって、独りごちた。
 よくわからないと言えば舘羽さんもよくわからない。つかみどころのない人で、入隊してもう随分になるが、未だに何を考えているのやらよくわからない。
 …いや、時折本音のようなものを垣間見たような気になることがある。先程薬屋に寄っていいかと尋ねられて了承した時にも出た台詞、「断られなくて良かったよ」。何かを頼む時、何かに誘う時、舘羽さんはその言葉を口にすることがある。以前お寺の宝物殿を見に行こうと誘った時、朝に屋敷に寄って一緒に屯所に行かないかと言った時。舘羽さんはその台詞を口にした。
 思うに、それが舘羽さんの本音なのではないだろうか。いつも余裕綽々に見えて、それも本当は作っているのかもしれない。
 …なんて思ってみたところで、でもやっぱり何を考えているかはよくわからない。単純に見た目通りではないということがわかるくらいで。つまるところはやはりつかみどころのない人なのだ、舘羽さんは。
 一人思考に浸っていると、ガラガラと引き戸の開く音がした。
「お待たせ。さて、巡回の続きとしようか」
「はい!」
 もたれていた壁から背を離し、再び通りを歩き出した。



 一通り巡回を終え、栄屋でお茶を飲んでいくことにした。
 席に向かい合って、舘羽さんはお茶を、私はそれに加えてお団子を、それぞれ口に運んでいる。
 昼時ではないにも関わらず、栄屋はそれなりに混んでいた。奥には仕事帰りらしい大工もいたし、すぐ近くには珍しいことに同世代の女の子が一人でお茶を飲んでいるのも見えた。こういった食事処は一人では入りづらいなぁと思うものだけど、蕎麦団子などの甘味を始めたのが良かったんだろうな。繁盛している。若菜さん頑張ってるな、とぼんやり考えた。
「今日は特に何もありませんでしたね」
 いや、正確にいえば式神は二、三匹見かけたのだ。しかしここのところはそれぐらいが当たり前になっているので、『特に何もなかった』となるのだ。突然全く見かけなくなったらそちらの方が何か不吉な気がする。
「そうだね…。でもいつ何があるかもわからないからね、ゆっくりできる時に休んでおこうか」
「でも、こうして受け身でいるしかないって悔しいですよね…」
 ついため息をつく。と、まさにその時だった。店の奥から叫び声が響いた。
「な、何ですって!!」
 突然響いた若菜さんの声に、私たちはとっさに立ちあがって身構えた。話している傍から何かあったんだろうか。
 若菜さんがそう広くはない店内をこちらに駆けてくる。よほど慌てているのか、下げようとした器の山の載った盆も手にしたままだ。
「若菜さん、何があったんですか!?」
「そ、それが、美景さまの…」
 美景さん!?あの後何かあったのだろうか。まさかあんまり可愛いから攫われたとか…。ああ、舘羽さんが放っておいても私がちゃんと追いかけていれば―――
「美景さまの長屋に、綺麗な女の人が入っていったって聞いたんです!!」
「…はい?」
 もしかして、それは…
「こうしちゃいられない…!すぐにでも―――」
 そう言ってまた駆けだそうとした若菜さんが、何かにつまずいたのは偶然だったのだろうか。若菜さんは体勢を崩したもののどうにか踏みとどまったけれども、手に持っていた器の山は派手に傾いて―――
「―――――っ!!」
 舘羽さんがとっさに一歩退いた。
 ――どんがらがっしゃん!!
 派手な音を響かせて、丼ぶりや湯飲みが、その破片が、床に散らばった。若菜さんの正面、舘羽さんが先程まで立っていた、まさにその場所に。
 今、舘羽さんが動かなければ、一体どうなっていた?
 想像してさっと血の気が引く。
 さっきの神社の境内のことだけなら偶然で済む。しかし一日に二度もこんな危ないことが、偶然に起こりうるだろうか?
 突然の音に周囲も目を丸くして、立ち上がってなんだなんだと寄ってくる人もいた。辺りはちょっとした騒ぎになる。その中、若菜さんが血相を変えて舘羽さんに駆け寄った。
「す、すみません!お怪我はありませんでしたか中川様!」
 当の舘羽さんはというと、何故だろう、険しい顔つきで栄屋の開け放したままの戸口を睨みつけている。
「あの、舘羽さん、大丈夫でしたか?」
「ん?ああ、すまないね…大丈夫だよ。掠ってもいないから、心配いらない」
 私が問いかけると、気がついて言葉を返してくれた。良かった、いつもの舘羽さんだ。
 若菜さんもそれを聞いて良かった、と胸をなでおろす。
 しかし舘羽さん、さっき何を見てたんだろう…?
「そうそう若菜殿、美景殿の長屋に入って女のことだけど…」
 いつもの調子を取り戻して舘羽さんが切り出す。しかしその内容にぎょっとした。せっかくその話題からそれたのに―――!!
「え!?中川様何か知っているんですか!」
 途端に若菜さんが鬼の形相になって詰め寄る。…怖い。舘羽さん、何を言うつもりなんだろう…。
「彼女は美咲ちゃんと言ってね…美景殿の『妹君』なんだよ」
 呆れた。よくもまあこんな大嘘を、いけしゃあしゃあと言えたもんだ…
「そ、そうだったんですか…。なーんだ、私てっきり…」
 若菜さんの表情が和らぎ、恥ずかしさのためか少し頬が赤らむ。良かった、この場はどうにかおさめられそうだ。
「本当に美景殿に『そっくり』のかわいい子でね…。あんなにかわいくて良い子はなかなかいないんじゃないのかな」
 もう誤魔化せたのだからこれ以上掘り下げる必要はないだろうに、舘羽さんはなおも続ける。
 舘羽さん、『かわいくて良い子』は同感ですけど、美景さんが聞いたら絶対怒りますよ…?
「だって美景さまの妹さんですもの!かわいくて良い子に決まってるじゃないですか。
 そっか、妹さんも江戸にいらしてるんですか。是非お会いしてご挨拶したいなぁ。
 …あ、中川様、いくらかわいくても美咲様に手を出したりしたら駄目ですよ?」
「まったく君まで…私を何だと思っているんだい。そんなことはしないよ、美景殿に怒られてしまうからね」
 それはもう大激怒だろう。「僕は女じゃありません!!」って、目に浮かぶ。
 若菜さんは上機嫌のまま散らばった器とその破片を片付けて、店の奥に戻っていった。
「…舘羽さん、良かったんですか?あんな大嘘ついて」
「問題ないよ。まずバレないだろうし、それに妹だってところ以外はすべて事実じゃないか。大嘘というほど嘘ではないよ」
「まあ、それはそうですけど…」
「それより、まだ栄屋にいるのにこんな話をしている方が問題じゃないのかい?」
「…あ」
 慌てて辺りを見渡した。…良かった、幸い若菜さんはまだ店の奥にいて戻っていない。今日舘羽さんに振られた子も多分いない。さすがに顔は覚えていないが、近くにそれらしい女の子もいないから大丈夫だろう。
 ほう、と一息ついてからはたと気がついた。
 何て敵の多い人なんだ、この人は。



 栄屋から出て、屯所に戻る途中だった。夕暮れ時で、仕事帰りの人が行きかっている。
 何だろう?行きかう人々の中、向こうから誰か走ってくる。
 遠目に見えるあれは…女の子だ。あれ、こっちに向かってきてないだろうか。…まさか舘羽さんの被害者?
 ……!!いや、あれは――――
 駆け寄ってきたその人は、舘羽さんに詰め寄って、周囲の人を意識してか抑えた声で叫んだ。ほとんど悲鳴みたいな、泣きそうな叫びだ。
「舘羽殿!!僕の着物をどこにやったんですか!?」
 美景さんだ。美咲さんって言った方がいいんだろうか。いやそれも失礼か。やっぱり美景さんだ。
 それにしても―――
「着物?君が持っていたんじゃないのかい?私は触った覚えはないけれども…」
「とぼけないでください!いい加減怒りますよ!?」
 美景さん、長屋で違う着物に着替えてくればよかったのに…。これは相当動転してるのかな…。
 しかしいくら舘羽さんでもそこまでするだろうか?さすがにそんなタチの悪いことはしないと思うのだけど。
「舘羽さん、本当に知らないんですよね?」
「もちろんだよ。そこまでしたら本気で美景殿に嫌われてしまうじゃないか」
 いや、既に嫌われていないのがおかしいくらいです。
「どうしても教えてくれないなら、舘羽殿の旅館で勝手に探しますから!!」
 美景さん、かなり怒ってるな…。まぁそれはそうか。
 でも舘羽さんは平然としている。この人は何かに動揺したりするんだろうか?
「私は構わないのだけれどね…。しかし、その格好で私の部屋に入ったら、あらぬ誤解を招くことになるんじゃないのかい?」
「…っ~~~!!」
 美景さんの顔が途端に真っ赤になる。口をパクパクさせて二の句が継げない。
 純情だ。純情すぎる。他のことなら「もう!ふざけないで下さい!」て切り返しただろうに。
「さて、困ったものだね…。本当にどこへ行ってしまったのやら」
 いまだ真っ赤のままの美景さんの脇で、二人して頭を抱える。美景さんには…ごめんなさい、何て言葉をかけたらいいのやら。気にしないでくださいとか、元気出してくださいとか、そんなこと言ったら余計に傷ついてしまいそうな気がする。
 と、そこに一人の女の人が近づいてきた。綺麗な人だ。芸者風の妙齢の女性で、目元の黒子がやけに色っぽい。何でこんな人が近寄ってくるんだろう?そちらの世界の人と関わったような覚えはない。しかし私の思惑をよそに、その女の人はこちらに声をかけてきた。
「あら、中川さんじゃないかい。今日はたくさん『女の子』をお連れだねぇ。…初めて見る子もいるようだし」
 彼女はそう言って、意味深にくすくす笑った。顔の火照りがおさまった美景さんがやはり抑えた声で「僕は『女の子』じゃありません!」と叫ぶ。
 ああ、舘羽さんの知り合いか…。まさかそっちの世界の人にまで手を出してたなんて…
「鈴音殿、何だか軽蔑の眼でこっちを見てるようだから言っておくけど、こちらは伊織殿と言って、私たち治安維持部隊の関係者だよ」
「あ、そうだったんですか…。
 初めまして、卯月から白狼隊に入隊しました、山形鈴音と申します」
 慌ててぺこりと頭を下げる。そっか、とてもそうは見えなかったけど、確かにそうでなければ美景さんも知っているわけがない。しかしどういった形で私たちに関わっているのだろう?
「鈴音ちゃんね…噂には聞いているよ。遠目には見たことあったけど…こうして会うのは初めてね」
 あれ?さっき初めて見る子もいる、って言ってなかっただろうか?
「あたしは伊織。何をやっているかは人通りのあるところじゃ言えないから、隊長さんにでも聞いておくれ」
 よろしくね鈴音ちゃん、と伊織さんがにっこり笑う。女の私でも思わず見とれてしまった。同じ笑うという行動のはずなのに、どうしてこんなに色香が漂うのだろう。十年経っても私はこんな風になれない気がする…。
「あらいやだ、肝心の用事を忘れるところだったよ。
 …美景ちゃん、うちで着替えた時に着物を忘れていっただろう?」
 舘羽さんが美景さんの女装を頼んでる“知り合い”って、伊織さんだったのか。
「…あ、そういえば…そうだったかも」
 美景さんは今度は違う意味で顔を赤らめる。何をやってもかわいい人だ。…ちょっと羨ましい。
「ほら、だから私じゃないと言っただろう?」
「も、元を正せば誰のせいだと思ってるんですか!」
 舘羽さん、そろそろ本当に嫌われるからやめた方がいいんじゃないかな…。
 ついでに化粧も落としてあげるからおいで、と、伊織さんは美景さんを連れて帰って行った。
 あとに残された私は何となくふぅ、と一息ついた。今日は何だか色々な人に会う。ついでにやたらと騒がしい。舘羽さんも同じように思ってるのかな、と隣を見上げると、舘羽さんは周りを見回していた。
「…いなくなった、かな」
 舘羽さんがぼそりと何か言ったような気がした、けれどよく聞こえなかったので聞き返す。
「いいや、何でもないよ…」
 そう言って、いつもの掴みどころのない笑みを返す。
 何だろう、何を考えているのやらと思うのはいつものことだけど、今日は何だかよくわからない言動が多いような気がする…。
 その疑問も口に出せないまま、私たちは帰路についた。



【二日目 やがて不吉は不穏となる】
 今朝も仲居の背を見送って、手にした手紙の封を切る。
 そして、予想とは異なっていた文面に目を見張り、その後に眉をひそめた。

 会合の後、何をするでもなく屯所で少しぼんやりしていた。
 意識するでもなく、ほう、とため息をつく。昨日は本当に疲れた。思い出して、また眉間にしわが寄る。そこにまさにその原因が声をかけてきた。
「どうしたんだい美景殿?そんな仏頂面をして」
「…何でもありません!」
 つい態度に険が出てしまう。舘羽殿はくすくす笑ってから返した。
「冗談だよ。昨日はすまなかったね。今日は非番だし、何か御馳走するよ」
 全部見透かされているようで何だか悔しい。でもここで意地を張っても仕方ない。もう二度としませんからね、とだけ念を押して、その話題を終わらせることにした。
「ところで一つ相談したいことがあるのだけどね」
「…? 何ですか?」
 珍しい。舘羽殿が相談なんて今までにあっただろうか。
「これなんだけどね」
 そう言って差し出したのは一通の手紙だった。受け取って見ると封筒の表には「中川様」、裏返してみても差出人の名前はない。中を見ても良いものだろうか、と舘羽殿を見ると、僕が口を開く前に無言で頷いた。そのつもりで渡したのだと。
 とは言え人の手紙を読むのはやはり気が引ける。ややためらいながら、恐る恐る中の紙を抜き出して開いた。書かれていたのは至って単純。ただこれだけだった。

『お慕いしております。暮れ六ツに橋の上でお待ちしております』

「…。」
 何というか、呆れた。相談というから何かと思えば。この人にとっては日常茶飯事だろうに。まさかまた女装してほしいなんて言い出すんじゃ…
「この差出人のわからない手紙が先月から毎朝届いていてね。しかも文面はいつも同じだ」
「…え」
「気味が悪いし怪しいから無視していたんだけどね…それが今朝になって急に文面が変わった」
 そう言ってもう一通手紙を差し出した。表には同じ筆跡で「中川様」。今度は確認せずにすぐさま中身を開いた。

『すべては偽りだったのですね。お怨みします』

 何なのだろう、これは。言葉も出せずに文面を凝視した。
「『偽り』は何のことなのか。何故今朝になって内容が変わったのか。何故先月から届き始めたのか。…そして、そもそもこれは一体誰なのか。どう思う?」
 どう思う、と聞きながらも、舘羽殿の問い方は訪ねているというよりも、自分の考えが妥当かどうか、僕も同じ結論にたどりつくかどうか試しているような、そんな気がする。
 最初の二つはすぐに思い当たった。それならば残り二つも自然と導かれる。答えようとして、口を開いたその途端、屯所の戸がガラガラと大きな音を立てて開かれた。
「こんにちは、鈴音ちゃんいるかしら?」
 声とともに飛び込んできたのは、矢羽根模様の着物、バッチリ決めた化粧、紫色の口紅が違和感なく似合ってしまう稀有な…男性である。正親殿だ。
 出しかけた言葉のやり場に困り、口を開けたままぽかんとしていると、正親殿は舘羽殿に目を止めてむっと不機嫌そうな顔を作った。が、すぐに愉快そうな顔に変わる。
「聞いたわよ、あんた女難の相が出たんですって?いい気味ね、きっと今までのバチが当たったんだわ!この女の敵!」
 そしてケラケラ笑う。もちろん舘羽殿がそれで動揺するわけもない。悠然と返した。
「そうかもしれないね。何せ朝から君の顔を見る羽目になったし。
 …ああ、オカマだから女難には入らないかな?」
「っきぃぃぃぃ―――――!!あんたって奴は口を開けば…」
 まずい。このままだと収拾がつかなくなる。
「あ、あの!鈴音さんに用だったんじゃないですか?」
「あっ、そうそう。こんな奴相手にしてる場合じゃなかったわ!
 一緒にかんざしを選びに行く約束をしてたのよ♪」
 良かった。話が逸れてくれた。
「鈴音さんならさっき黒虎隊の屯所に向かいましたよ。急げば追いつけるかもしれないです」
「あら、そうだったの。ありがとね、美景ちゃん。それじゃあ!」
 入ってきた時と同じくガラガラと引き戸を閉めて、正親殿は駆けて行った。…嵐のような人だ。
「舘羽殿、あんまり怒らせるようなこと言っちゃだめですよ」
「別に怒らせているつもりはないさ。思ったことを言っただけだよ」
「それがまずいんですよ!」
 まったく、とため息をつく。この犬猿の仲はどうにかならないものかと思うのだが、この調子では無理そうだ。
「それにしても、鈴音殿と正親殿、本当に仲がいいですね」
 今日もそうだし、非番の日に限らず黒虎隊と共同で活動する時など、何かと一緒にいることが多い。紅一点の鈴音殿からすると、女装とは言え他の男たちより正親殿は親しみやすいのだろうか。
「まあ、好意の方向が一方通行な気はするけどね」
 舘羽殿は意味ありげに笑う。
「そうですか?本当に仲がいいと思いますけど…」
 首をかしげる。すると舘羽殿は呆れ気味に言った。
「…そうか、君はそういう子だったね」
 若菜殿も苦労する訳だ、とか何とか独りごちている。
「???」
 なぜそこに若菜殿が出てくるのだろう?
 意味がわからず一人首をかしげるばかりだった。



 天ぷらを御馳走してもらった帰り道、薬屋に寄って帰ることにした。何でも昨日頼んでおいた傷薬の類をもらうらしい。そういえば舘羽殿はいつもまとめて買っているなと思いだした。
「こんにちは」
 ガラガラと音を立てて引き戸を開けて入る。
「あ、中川様…と朝倉様。いらっしゃいませ」
 付け足されたような気がするのは気のせいだろうか…まぁいいか。
「こんにちは。昨日頼んでおいた薬を取りに来たんだけど、用意はあるかな?」
 特に気にした風もなく舘羽殿が尋ねる。まぁ舘羽殿にとっては日常茶飯事なのだろう。
「あ、はい…こちらに用意してあります」
 顔を赤らめたまま、いそいそと大きめの袋を取り出した。小ぶりなスイカほどの大きさだったが、中身が薬であることを考えるとこれは確かにまとめ買いだ。これだけあれば一、二か月はもつのではないだろうか。
「ありがとう、助かるよ。――――はい、これ」
 舘羽殿は薬袋を受け取って、代わりに代金が入っているらしい小袋を手渡した。中身がじゃらりと音を立てて、その量の多さを伺わせた。
 千鶴殿はというと、袋の受け渡しの時だけは顔を上げたが、それ以外はずっと赤面してうつむいている。受け取った小さな袋を両手で握りしめて、何だかもどかしそうに指先が動いている。…これはさすがに僕でもわかる。
「それじゃあこれで…」
「あ、あの!」
 私たちは失礼しようか、と続くはずだった言葉に見事に千鶴殿の声が重なった。彼女自身、思ったよりも大きな声が出てしまったのか、それとも重なったことに戸惑っているのか、さっきよりも赤くなってあわあわしている。
「どうかしたかい?」
「…す、すみません、その…」
 そこでまた少しうつむいて気まずそうに続けた。
「さっき、通りで鈴音様と頼様をお見かけしたな、と思いまして…。その、それだけなんですが」
 そう言って、手にした小袋をぎゅっと握りしめている。台詞をあてるなら、あぁ何言ってるんだろう私は、と言ったところか。どうやら何か話題を探していたらしい。僕一人で来るときは、季節の話や何気ない話をしていくのだけど、それが舘羽殿が相手だとなかなか出来なくなるらしい。初々しくて微笑ましい…なんて言ったら僕の方が舘羽殿にからかわれそうだから言えないけれど。
「確か、かんざしを見に行くとか言っていましたね」
「鈴音殿は別として、正親殿は造花に水をやってどうするつもりなんだろうね?まったく」
 舘羽殿の皮肉を聞いて、千鶴殿がくすりと笑った。ようやく笑顔が出た。
「そんなことありませんよ。頼様もかんざしが似合いますよ、むしろ私なんかよりもずっと」
「そういえば、千鶴殿はかんざしとかつけたりしないんですか?いつも束ねているだけですけれども」
「え…私ですか?」
 何の気はなしに聞いたつもりだったが、そんなことを聞かれるとは思ってもいなかったらしい。目を丸くしている。
「私は…私みたいな地味な娘には似合いませんよ。あれはもっと華やかな方のつけるものです」
 少し困ったように笑う千鶴殿に舘羽殿が言った。
「そうかい?着飾って綺麗にならない女の子なんていないと思うけどね。地味になるか華やかになるかなんて自分次第だよ」
 おや、と思った。他の女の子と話す舘羽殿もよく見るが、こういう時は「君だってかわいいと思うけど」とか、とても真似できないような軽口を叩いていた。もちろん舘羽殿の言葉には同感だったが、この答え方の違いは一体何だろう。
「そう…ですか?」
 それでもまだ自信なさげな千鶴殿に僕が頷いてみせる。
「そうですよ。もっと自信を持ってください、ね?」
「…ありがとうございます」
 千鶴殿は照れ臭そうに言って頭を下げた。



(幕間・弐 ~正親の考察~)
「ふぅん…昨日はそんなことがあったの」
 通りを歩きながら、正親さんが不機嫌そうに言った。別に怒らせるようなことを言ったわけではない。話題の人物があの人だからだ。
「そうなんですよ、もう何が何だか…」
「気になったんだけど、その『断るための恋仲役』って鈴音ちゃんじゃないわよね?」
「ま、まさか!違いますよ!!」
 慌ててぶんぶんと首を振る。そんな恨みを買うような役目はまっぴらだ。
「そう、それなら良かったわ♪どこの女の子を連れてきてるか知らないけど、私の鈴音ちゃんをあいつの恋仲だなんて言わせないんだから!」
 ぐっと拳を握りしめて、まるで本人が目の前にいるかのように力強く言う。
 それにしても、
「…(どこの『女の子』かなんて言えない…)」
 そこまで追及されなくてよかった、とほっと胸をなでおろした。
「それにしても、本当いけ好かない奴ねー。そういう余計なお節介が気に入らないのよ!」
「…余計なお節介?」
 言っている意味がわからず首をかしげる。何だろう?舘羽さんが何かお節介と言われるようなことをしただろうか?
「そうよ!女の子をなめてるにも程があるわ!!」
「えっと、あの…正親さん、どういう意味ですか?」
 一人憤っている正親さんに尋ねる。すると、こちらに向き直ってまじまじと聞いてきた。
「あのね、鈴音ちゃんなら、好きな人に『君じゃ駄目だ』って言われるのと『他に好きな娘がいる』って言われるのと、どっちがいい?」
「え、どっちって言われても…」
 咄嗟に脳裏に浮かんだのは、白い髪、紅い瞳、寂しそうな横顔―――
 少しだけ、胸の奥がちくりと痛む。
 私の顔を見て、何故だろう?正親さんは一瞬泣きそうな顔をした、ような気がした。けれどもそれも本当に一瞬のことで、すぐに元の調子に戻る。
「『君じゃ駄目だ』って言われたら、何だか自分を否定された気分にならない?『他に好きな娘がいる』って言われたら、自分に非はないけれど、でも諦めがつくでしょ?」
「ああ…確かに、言われてみたらそうかもしれませんね」
 けれども、やっぱりどちらも言われたくはない。
「そんなの余計なお世話なのよ!女の子は一度挫けたってちゃんと自分の力で立ち上がれるんだから!!馬鹿にしすぎよ!ちゃんと誠実に応えるべきよ!」
「正親さん、舘羽さんも優しさでやってることなら、そんなに怒らなくても…」
 正親さんをなだめながら、たった今指摘されたことを改めて考えてみる。
 そう、か。あれは舘羽さんなりの優しさだったのか。そこまで考えている舘羽さんにも、それに気が付いている正親さんにも驚いた。しかしそういう考えを持てるあたり、この二人は似ているところもあるのかもしれないな、とこっそり思う。いつもからかったりふざけたりしているように見えて、本当は人より深いところまで考えていて、人が気がつかないような他者の心の動きや考えに思い至れて。
「ね、正親さん」
「あら、なぁに鈴音ちゃん?」
「千鶴さんは、舘羽さんのどんなところが好きなんだと思います?」
 昨日考えたことを正親さんに聞いてみた。
「さあ…あんなののどこが良いんだかわからないけど」
 さすがの正親さんもわからないか。いや、常々そう言っているか。あんな奴の何が良いんだって。聞く相手を間違えたみたいだ。
 しかし以外にも続きがあった。
「でも、あいつの方は千鶴ちゃんにはちょっと線を引いてるみたいね」
「え?」
「ほら、薬はまとめて買ってたまにしか行かなかったり、あの子には軽口叩かなかったりするじゃない?」
「あ、はい、そうですけれども…」
「薬屋って、職業柄ずっとお世話になるでしょ?他の娘と違っていい加減に振ったりしたくないから、最初から遠ざけてるのよ。多分ね」
 もっとも、感謝してるからなのか、面倒事を避けてなのかはわからないけど、と付け足した。
「正親さんって…」
「…?どうしたの、鈴音ちゃん」
「正親さんって本当にすごいですね!私、そこまで気がつかなかったです」
 本当に感心する。尊敬のまなざしで正親さんを見つめると、あら、鈴音ちゃんに褒められて嬉しいわ♪と笑って、でもね、と続けた。
「わかったところで、どうにもならないのが色恋沙汰なのよねぇ…」
 はぁ、とため息をついた。どうしたんだろう、正親さんがため息をつくなんて、らしくもない。でもすぐに顔をあげて笑顔を見せる。
「ま、いいわ。今日は鈴音ちゃんと一緒にお買いものなんだから!ほら、そこのお店よ」
 と、行く先にある小間物屋を指差した。
「わぁ、本当ですね♪かわいいものがいっぱいおいてますね」
 店先に並んだ小物の数々に思わずほおを緩ませる…けれども、あれ、でもこの場所って確か…
「正親さん、このお店って―――――」
「あら、どうかしたかしら?」
「このお店って、例の、式神と違う手口でかんざしが盗まれてるお店じゃありません?」



 秋の日はつるべ落とし、と言うが、美景たちとゆっくり過ごしたせいだろうか、暗くなり始めて薄闇に包まれた帰路を舘羽は一人で歩く。周りには人通りもない。
 一定の歩調で歩き続けていたのが、突然その歩みを止めた。
「ねぇ」
 独り言、というには大きい声だ。まるで近くにいる誰かに聞かせるような。
「昨日から一体何の用事かな?」
 問いかける。しかし誰も応えない。それにも構わず舘羽は続ける。
「ずっと、つけてきているよね?昨日は伊織殿が追い払ってくれたけれども…
 それだけじゃない。鈴音殿の肩に毛虫を落としたのも、若菜殿に足をかけたのも、君だろう?」
 やはり返事は返ってこない。しかし、かすかながら衣擦れの音がして、
「行った、かな…」
 振り返ることもせずに、元の歩調で帰路についた。



【三日目 そして不穏は災いを呼ぶ】
「いらっしゃいませ!…あ、美景様に中川様、ゆっくりしていってくださいね♪」
 やはり昼時は忙しいらしく、若菜殿は僕たちに蕎麦を出すと、また忙しなく店の中を動き回る。見回りの休憩に立ち寄ったのだが、繁忙期は避けた方が良かったかな?思いながら、席について二人で蕎麦をすする。
「今日はいない、かな…」
 蕎麦を食べながら、舘羽殿が何気なく周囲に視線をめぐらせた。
「どうかしたんですか?」
「ん?ああ、一昨日からずっと尾けられていたのが、今日はいないみたいだ」
「…!?…っげほ、げほっ!」
 さらりととんでもないことを言われて、思わずむせる。
「大丈夫かい?」
 向かいに座っていた舘羽殿が身を乗り出して背中をなでてくれる。
「…けほっ、大丈夫、です」
「もしかして、気が付いていなかったかい?」
「そりゃ気づきませんよ!一体どこからですか?」
「ちょうど『美咲ちゃん』と橋の上にいたあたりからかな。出てきてもらおうと思って声をかけたんだけど、まさか鈴音殿が出てくるとはね…」
 ああ、道理で鈴音殿が姿を現した時に驚いていたわけだ。あれはその追跡者に向けていっていたのか。
「そこで、昨日の話の続きだけれども…」
「昨日の話…?ああ、差出人不明の手紙ですか」
 そうだった。正親さんが来て中断してしまって、結局肝心のところが話せなかった。
「尾けてきたのも、手紙の主も、多分先月舘羽殿が断った女の子、でしょうね…」
「それも、『美咲ちゃん』を紹介した子だろうね…。時期的にそれしかありえない」
 そう、(鈴音殿には目撃されなかったが)前回『美咲』を使ったのも先月、手紙が届き始めたのも先月、そして、一昨日橋の上で僕たちを見つけて、『美咲』の正体がわかった翌日に、ちょうど手紙の内容が急変した。
「確か、小間物屋で働いてる子…でしたっけ?」
「そうだね…厄介なことに」
 何が厄介なのだろうか、問いただそうとした時、ようやく仕事が一段落したらしい若菜殿がこちらに駆けてきた。
「美景様!妹さん、まだ江戸にいらっしゃるんですか?」
「…妹?」
 妹なんていた覚えはない。そもそも家出同然に江戸に出てきたのだから、(兄のように連れ戻しに来るのでなければ)家族が江戸に遊びに来ることはないはずだ。
「僕には妹なんていませんが…」
「…え」
 是非会いたい…と続けていた若菜殿が笑顔のまま凍りつく。
「じゃ、じゃあ、長屋に入っていったっていう女の人は…」
「???」
 さっきから何の話だろう?楽しそうだった若菜殿の表情が色を失っていく。何故妹なんていると思ったのだろう?それに…どうしてだろう、舘羽殿の口元が笑っている。
 しかしそんなに悠長に考えていられたのは束の間だった。
 火山が、噴火した。
「どういうことなんですか美景様!!あの女の人は一体誰なんですか!?」
「え、ちょ、ちょっと、一体何がどういう…」
「とぼけないでください!!」
 脇で見ていた舘羽殿が助け舟を出してくれたのは、しばらく後のこと…。



「仕方ないだろう?まさか本当のことを言う訳にもいかないし、あのまま行かせていれば『美咲ちゃん』と鉢合わせしていたんだから」
「それはそうですけれども!もっと他にやり方があったでしょう!!」
 栄屋を出て、見回りを続けながら言い合う。一昨日からこんなやりとりばかりしているような気がする。
 それでも憎めないのは、舘羽殿の体質、とでもいうのだろうか?
「…何だかあちらが騒がしいね」
 言われて、舘羽殿の視線をたどると、呉服屋で派手な女性と二人の子供が何やら言い合っている。

「薊!謹慎中なのにこんなところで何やってるんだよ」
「ま、また怒られちゃうよ…?」
「あら、着物を見るくらい問題ありませんわ。放っておいてちょうだい」
「で、でも『ここから出るな』って鴆影様が…」
「それに着物なんていらないだろ?…あ、わかった。この前あいつらにやられた時に汚しちゃったんだな」
「あんなオカマにやられてなんかいませんわ!あれは手加減してやったんですの!!」
「本当かなー?」
「じゃ、じゃあ…普段のお化粧で汚しちゃったの…?」
「誰が厚化粧ですってぇ!?」
「ぼ、僕そんなこと言ってないよぅ…」
「薊、リンを泣かすなよな。リンも薊なんか怖がってちゃ駄目だろ」
「だ、だって…」
「もう、やかましいですわ!!」
「やかましいのは薊だけだよ」
「お黙りなさい!大体私は着物を汚してなんかいませんわ。ただ鴆影様のために常に美しくあろうと…」
「鴆影様…着物とかあんまり気にしてないよ…」
「薊って本当空回ってるよなー」
「なぁんですってぇ!?」

 離れていて何を話しているのかは聞こえないが、そんなに切羽詰まったものではなさそうだ。親子喧嘩…という歳の差でもないだろうから、姉弟喧嘩、だろうか?しかし血がつながっているようには見えない。一体どういう関係だろうか?子供同士のけんかを女が諫めているのではなく、子供二人といい大人が対等に喧嘩しているように見える。
「喧嘩するほど仲が良い…という奴ですかね」
「ふふ…店の者にはいい迷惑だろうけどね。…しかしあの女性は」
 と、遠くの派手な女性の顔に目を止めた。
「どうかしましたか?」
 まさか、何かの事件に関わっているとか…
「いや、正親殿が造花なら、あれは毒花かなと思ってね」
 心配をよそに舘羽殿はしれっと答えた。
「ちょ、ちょっと、いくら聞こえてないからって失礼ですよ!」
 確かに厚化粧ではあったけれども!
「もしかしたら聞こえていたかもね…三人ともこっちの方を見ているよ」
「少しは慌ててください!!早く離れましょう!」
 全く悪びれる様子のない舘羽殿を引っ張って、急いで呉服屋の近辺を後にした。

「ねぇラン、さっきの人たち…」
「リン、もしかしてあれが例の侍たち?」
「う、うん…。こっち見てたけど、気づかれちゃったかなぁ…?」
「まずいね、鴆影様に無断で騒ぎを起こすわけにはいかない。早いところ戻ろうか。ほら、行くよ薊」
「ちょ、ちょっと、引っ張らないでちょうだい!」
「いいから、ほら!リンも手伝って!」
「わ、わかった…。ご、ごめんね薊…」
「い、痛っ!髪をつかむのはおやめなさい!!」
「う、うわぁー…ご、ごめんなさいごめんなさい…」
「リンってたまにやること大胆だよなぁ…」


(幕間・参 ~千鶴の葛藤~)
 我ながら、柄にもないことをしているなと思う。
 大通りに面した小間物屋。かんざし、帯留め、華やかな小物が並ぶ店内で、千鶴はそわそわと落ち着かない。自分のような野暮ったい娘が着飾ろうとするなんて、周囲からはどう見えるのだろうか?誰が見ている訳でもないのに妙に気恥ずかしく、必要以上にきょろきょろしていた。
『着飾って綺麗にならない女の子なんていないと思うけどね』
 まったく、少し言われたくらいで真に受けるなんて、自分は何と単純なのか。
 所狭しと並べられたかんざしはどれも華やかで、かわいらしくて、自分などが手に取ることも何となくはばかられる。
 こんな派手なものをつけたら明らかに自分には合わない。あれも…少し明るすぎるかな。あ、これくらいなら私が身につけても…いや、真っ黒で飾りもほとんどなくて、いくらなんでも地味すぎるか。
 あれでもない、これも違う、と棚に向かって一人悶々としていた千鶴の目に、一挿しのかんざしが目にとまった。金地に緋色の珠が光っていて、ささやかな飾りが付いているだけである。その飾りが目を引いた。蝶の飾りがついている。
 あの人の名前は、蝶に由来したものだったな、と思いながらそのかんざしに手を伸ばす。
 と、そこに聞きなれた声が耳に入って、思わず棚の陰に身を隠した。



「もしかしてここかな、昨日鈴音殿達が来たというのは」
 大通りに面した小間物屋、と言っていたから多分そうなのだろう。そういえば最近かんざしがなくなるというのもこの店だ。ならば巡回に来るのは当たり前なのだが…
「何で、店仕舞いの時間に来るんです?」
 呆れて、つい声に険が出る。
 今は夕暮れ時だ。式神の存在が知れてからというもの、どの家も小窓から障子から全て戸締りするようになった。盗まれるとしたら店が開いている時間しかない。
 それが栄屋で、呉服屋前で、騒いでいたらこの時間である。
「ふふ…そんなに怒らないで。
 店仕舞いの時じゃないと、巡回の意味がないんだ」
 多分、聞いてもはぐらかされるのだろう。でも舘羽殿がそう言った時はすぐにその意味がわかることが多い。そのままにしておくことにした。…いや、たまに本当に誤魔化されてるだけの時もあるけれど。
 店に入ると、視界いっぱいに女性が喜びそうな小物類が並んでいて、その傍らで店の娘が既に片付け作業をしている。見回りでこう言った店には何度も入ったことがあるが、やはり男二人で入るのは何とも居心地が悪い。舘羽殿はまったく気にしていないようだけど。
「もしかして、白狼隊の方ですかい?」
 店主らしい初老の男性が声をかけてきた。
「あ、はい。ここでよくかんざしが無くなるとお聞きしましたので…」
 舘羽殿は近くの棚を眺めながら、片付けをする娘を観察しているので僕が応える。まったく…。
「そうなんですよ…。しかも他の店ではあの、式神っていうんですかい?あの犬っころみてぇなのに気をつければ盗まれないって言ってるんですが、うちは気が付いたらなくなっちまうんです」
 報告で聞いていた通りだ。やっぱりこれは人間の仕業なんだろうか…。
「ねぇ、ところで」
 店主が、今度は僕の耳元に声をひそめて言う。
「何ですか?」
「お連れの方は、中川様って方ですかい?」
「…はぁ、そうですけども」
「そうかぁ、あれが中川様かぁ。いや、うちで働いてる娘が―――おりんって言うんですけどね、そいつがいつも中川様中川様ってうるさいんですよ。今回の件で白狼隊の方が来てくれるんじゃねぇかって期待してましてねぇ」
「…」
 いつものこととはいえ、何なんだろう…この脱力感。
「ものは盗まれちまっても、こうして来てくれたんだから、悪いことばっかじゃないですねぇ」
 さすがに「そうですね」とは言えない…。気楽なものである。
 はぁ、と嘆息すると、後ろにいた舘羽殿が突然娘につかつかと歩み寄った。ぎょっとした店の娘―――今の話だとおりんだったか―――に何の遠慮も躊躇もなく、その右手をひねり上げる。ぎゃっと悲鳴があがる。
「ちょ、舘羽殿!?一体何を…」
 止めに入ろうとする僕にも構わず、舘羽殿はおりんの右の袖から、それを取り出した。
「やっぱり、君の仕業だったね」
 その手には緋色の玉のついたかんざしが握られていた。
「は、放せっ!」
 舘羽殿の手から逃れようと、おりんが無茶苦茶に暴れる。振り回した自由な手が、爪が、舘羽殿を掠める。腕が近くの棚にぶつかり、派手な音を立てて棚のものがぶちまけられた。突然の事態に茫然としていた店主が、ひぃっっと悲鳴をあげた。
 もちろん普通の女の力で舘羽殿に敵う訳がない。すぐに左手もつかまれておとなしくなった。舘羽殿に後ろから両腕をつかまれて、僕と正面から向き合う格好になる。
「舘羽殿、一体いつから…」
「わりと早い段階、かな。私が美咲ちゃんをこの娘に紹介したのも先月、手紙が来るようになったのも先月、その娘は小間物屋で働く娘で、ある小間物屋では先月から式神とは違う盗みが始まっている、無関係だと考える方が不自然じゃないかな?」
 両腕をつかまれたまま、おりんが後ろの舘羽殿をきっと睨みつける。妖怪・式神・荒れくれ者、色々相手にしてきたが、これは怖いと思った。
「夜中はどこもしっかり戸締りをしているから盗めない。かといって昼間は客の目がある。気づかれないように盗むなら、店を開ける準備、あるいは店仕舞いに紛れて持ち出せばいい。朝盗んだかんざしを店を出るまでずっと持っていなければいけない危険性を考えると、店仕舞いの時の方が安全だ。私が盗むなら、そう考える」
 なるほど、だから『店仕舞いの時じゃないと巡回の意味がない』か。
「どうしてまたそこまでして…」
「…会いたかったからよ」
 それまでずっと黙りこくっていたおりんがうつむいて、ぽつりと呟いた。
「一度断った相手に呼び出されても出てこないでしょう?だから名前を書かずに手紙を出したの」
 ふてくされたように言い捨てる。
 ああ、それであの手紙か。しかし毎日とは…。
「それでも来てくれなかったから、じゃあ白狼隊として仕事に来てもらおうと思って」
「だからと言って、盗みを働いていいというものではないし、人を尾けて歩くのも感心しないな。それに…うまくいくか不確かだったとは言え、君は危害を加えようとしたね。下手をすれば大怪我だった」
 その言葉におりんは顔を上げ、舘羽殿を見上げて叫ぶ。
「だって!あんた騙してたじゃない!恋仲なんて本当はいないのに!しかもよりにもよってそれが…」
 耳が痛い。それが男なんて、あるいは女装なんて、と続くのだろう。それが発端なのは昨日の時点でわかってはいたはずだが、正面切って言われるとひどく罪悪を感じた。
「美景殿、この娘はそのことがわかる前から盗みを働いているよ。第一、どんな理由であれ人を傷つけていいことにはならない」
 僕の考えを汲み取ってか、舘羽殿が言う。おりんが舘羽殿を睨みつける目が一層険しくなる。しかしもう逃げられないと思ったのか、抵抗はせずにすっかり大人しくなっている。
「さて、後のことは奉行所に任せようか」
「あ、あの!」
 おりんを連れて行こうかという時、後ろから声がした。見ると、店の奥の方の棚の陰から千鶴殿がおずおずと出てきた。ずっと隠れていたんだろうか。
「千鶴殿!?どうしてここに…」
「か、買い物に来ていたんです…」
 千鶴殿が顔を赤らめてうつむく。女の人がこういった店に来ていることに、何を恥ずかしがることがあるんだろう…?
「あの…その方、手をお怪我されていますよね…?」
 言われて、舘羽殿が掴んだ腕を見る。先程暴れて棚にぶつかった時だろうか、確かに血は流れていないものの、手の甲に痛々しいほど大きな青あざができていた。本人も気が付いていなかったらしく、まじまじと自分の手の甲を見つめている。
「先に、手当をされませんか?痕が残ります」
「そうだね、それもそうだけど…」
「…今更逃げようなんて思ってないわよ」
 舘羽殿がちらと見ると、おりんは吐き捨てるように言った。
「それなら問題ない、か。それでは千鶴殿、お願いしても良いかな?」
 千鶴殿は頷くと、おりんの手を取って薬屋へ向かう。おりんは渋々ながらちゃんとついていっている。大丈夫そうかな、と胸をなでおろした。
「それじゃあ戻ってくるまで、店主に事情を話すとしようか。彼女のことで聞きたいこともあるし」
「そうですね、店主の方もだいぶ混乱してらっしゃるでしょうし。…あ、舘羽殿、これ」
 落ちていた巾着を拾い上げる。
「多分、千鶴殿の忘れものだね。様子見がてら渡してこようか。美景殿、ここのこと、頼んでも良いかい?」
「はい、わかりました!」



 突然現れた女は薬屋だったらしい。連れて行かれた薬屋で手当てを受けながら、千鶴と呼ばれた女を観察する。化粧っ気は無い。眼鏡は野暮ったい。髪は一つに束ねているだけ。着物の色も地味で、本当に同世代かと思うような女だった。もっとも職業柄、華やかなものばかり見ているせいかもしれないが。
 手当てをする手つきは慣れたもので、かたく絞った手拭いで傷まわりを拭いてから、優しく軟膏を塗りこんでいく。
 じっと見つめていると、不意に顔を上げた千鶴と目が合った。
「どうか、されましたか?」
「あんたさ…何でそんな優しいの」
 千鶴は少し驚いたように手を止めて目をしばたいたが、首を振ってまた作業に戻る。器用に包帯を巻き始める。
「私は、優しくなんかありません…職業病です。あの方の方が、中川様の方がずっと優しいです」
「何で!見ててわかったでしょ?あんたも利用されてるだけなの!あんなののどこが好きなの!?」
 思わずいきり立って手を振り払って立ち上がる。巻きかけた包帯がほどける。
「あ…」
「ご、ごめんなさい…つい」
 我に返って、また腰を下ろして、手を差し出す。千鶴は先程と変わらぬ丁寧さで、また一から包帯を巻きなおす。この女は怒るとかないんだろうか…?思いながら、また包帯を巻く千鶴をじっと観察する。
「…最初は、憧れでした」
「え?」
 突然ぽつりと言葉を発した千鶴に、思わず間の抜けた声が出る。先程のどこが好きかという問いに対する答えだと気づくのに時間がかかった。
「華やかで、颯爽としていて、“自分”というものをしっかり持ってらして、人に翻弄されることなんてなくて…冴えなくて人の顔色ばかり伺っている私とは正反対だな、って」
 打って変って雄弁になった千鶴の言葉を、ただ黙って聞いていた。何を言ったらよいかわからなかったし、相槌を打つ必要も感じなかった。自分に向けて話しているように感じなかった。何かの拍子に栓が外れて、自然と流れ出てきた、そんな印象だった。
「でも、少し違うって、わかってきたんです」
 そこで一息ついて、少し哀しそうに、眉をハの字にした。
「あの方は、折につけて『断られなくて良かった』って言うんです。大した用事でもないのにそんなことを言う方を、他に知りません」
 気がついたこともなかった。言われてみれば、その言葉は確かに聞き覚えがあった。
「あの方は多分、拒絶されることを恐れてらっしゃるんじゃないでしょうか。故郷を出てこられたことと、関係があるかどうかまではわかりませんが…。そう思ったら、また目が離せなくなりました。見た目ほど、強い方でもないんです、あの方も」
 いつの間にか包帯は巻き終わっていた。千鶴はその端をきっちり結ぶと、困ったように笑って言った。
「これも職業病ですね…人の痛んでいるところにばかり、目が行ってしまうんです」



「あ、舘羽殿。随分遅かったですね…あれ?巾着、返してきたんじゃなかったんですか?」
「どうも入りそびれてしまってね…後日渡すことにするよ」
 そう言って、舘羽殿は店の中、まだ片付けられていない小物が並んだ棚を眺める。
「…舘羽殿?」
 と、舘羽殿は綺麗に陳列されたものではなく、そこに無造作におかれたかんざしに目を止めて、手に取った。金地に緋色の玉、蝶をかたどった飾り。ああ、先程おりんが盗もうとしたものか。
「ねぇ店主殿、これは売り物だよね?」
「え!?あ、は、はい…そうですけど…」
 突然声をかけられて、店主が狼狽する。店の者が不祥事を起こして、何かとがめられるのか気が気でないらしい。しかしその予想は見事に裏切られた。
「それなら、僕が買い取っても構わないかな?」



【 翌朝 災い転じて福と為す】
 翌朝のこと。
 まだ店も開ける前なのに、薬屋の戸が叩かれた。
 急患だろうか、と思って千鶴が慌てて戸を開けるとそこには誰もいない。
 代わりに、昨日持っていたはずの巾着が戸の前に置かれていた。そういえばすっかり忘れていたな、と自分の迂闊さにため息をついた。でも一体誰が届けてくれたんだろう…?
 巾着の中身を確認する。財布、手拭、懐紙…無くなったものはない。―――――いや、
 思わずそれを手にとって、顔の高さまでかかげた。
「…きれい」
 緋色の玉が、朝の陽の光を反射してきらめいた。



 舘羽さんの女難の三日間から、変わったことがいくつか。
 舘羽さんが女の人を断るのに、美景さんに女装させなくなったこと。(さすがに反省したのかな…)
 舘羽さんが薬をまとめて買わずに、まめに薬屋に立ち寄るようになったこと。
 そして、千鶴さんが時折かんざしをつけて店に立つようになったこと。
 舘羽さんの軽口も、千鶴さんの赤面症も、相変わらずそのままだけど、それだけは確かに変わったことだ。

―――了―――




【おまけ・壱 ~君には言われたくない~】
 これは後日談。珍しく舘羽さんと正親さんが居合わせて、喧嘩になっていない。
「あんたその引っかき傷、おりんって子にやられたんでしょ?すごい女ね~」
「本当ですよ!舘羽さん、とんでもない人に好かれましたね」
 私がそう言うと、舘羽さんは眉をしかめて言った。
「鈴音殿には言われたくないな」
「ちょっとあんた!どういう意味よ!?」
「何で正親さんが怒るんですか…?」
「そうか…、君もそういう子だったね」
 まったく美景殿といい君といい、とか何とか独りごちている。
「???」
 なぜそこに美景さんが出てくるのだろう?
 意味がわからず一人首をかしげるばかりだった。

【おまけ・弐 ~女難の相・真相~】
これは後日談。通りかかって話したことはあるが、わざわざ目的を持って彼女に会いに行くのは初めてだ。
「こんにちは、麗殿」
「あら、中川様。女難の相は、消えたようですね」
 麗殿が笑った。でも、私は笑い返さない。
「本当は、女難の相なんて出ていなかったんだろう?」
 人混みに紛れられる街中ならばいざ知らず、神社なんてそう人が多い場所ではない。素人が尾行したら、傍目にはすぐわかる。
「いいえ、ちゃんと見えましたよ。『不吉な影』が」
 悪びれもせずに応える。霊感めいたものでなく、本当に『影』が見えていたわけだ。
「それなら言ってくれれば良かったものを…。おかげで大騒動だったよ」
「あれが私なりの忠告です。それに、あなたの振る舞いは目に余るものがありましたから、良い機会かと思いまして」
「やってくれるね…まったく」
 あまり関わったことがなかったが、この巫女、意外と曲者かもしれない。


―――了―――



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